クライムズ・オブ・ザ・フューチャーのレビュー・感想・評価
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懐かしくも進化しぶっ飛んだクローネンバーグ節全開
いったい俺は悪い夢でも見ているのかーーー何度も目を疑ったが、それはつまりかつてのクローネンバーグ節がめでたくカムバックを果たしたということだ。むしろ00年代に入った頃からの心理をえぐるような人間ドラマの数々の方が変拍子だったのであって、80歳近くなった巨匠が唐突にこのグチャグチャっとした領域に戻ってきたことは歓喜すべき事態だろう。もちろん、巨匠のフィルモグラフィーの流れを全く知らずにここにいきなり飛び込んだ人にとっては、頭掻きむしるレベルの内容だとは思うが。かつて人々を驚かせた肉体系、内臓系の映像世界に加えて、『クラッシュ』的な異常な性的衝動もある。つまりいちばん濃いところのクローネンバーグがてんこ盛り。耳慣れないワード満載のセリフの応酬も多く、一度観ただけで全てを理解できる人はごくわずかだとは思うが、「椅子」や「装置」などのビジュアルを見ているだけでも脳がヒリヒリするほど惹きつけられる。
クローネンバーグが深化と洗練を経て、久々のオリジナル脚本で悪夢的ボディホラーに原点回帰
しばしば“鬼才”と称されるデヴィッド・クローネンバーグ監督は、自ら脚本も手がけた1980年代の「スキャナーズ」「ヴィデオドローム」およびその前後の作品で、暴力や事故による身体の損壊、自発的な人体改造、グロテスクなクリーチャー、奇妙な生き物のような形状の道具や装置などを好んで描き、ボディ・ホラーというサブジャンルの確立に大きく貢献した。83年の「デッドゾーン」以降は小説等の映画化(「戦慄の絆」「裸のランチ」「クラッシュ」)やリメイク(「ザ・フライ 」)が増え、オリジナル脚本作としては99年の「イグジステンズ」が最後に。21世紀に入ってからは原作ものが続き、テーマとしても暴力や狂気を通じて人間の精神の深淵に迫ろうとする傾向が強まり、それが作り手としての深化であり洗練であるにせよ、なにやら変態趣味全開の悪ガキが上品な大人になってしまったような寂しさを感じていたのも正直なところ。
だが実に20数年の時を経て、クローネンバーグ監督がまたオリジナル脚本をたずさえボディ・ホラーの世界に帰ってきた。「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」のタイトルが示すように、時代は未来。人類から痛覚と感染症がなくなり、タトゥーや人体改造がカジュアルになった。体内で新たな臓器が生み出される病を持つアーティストのソール(ヴィゴ・モーテンセン)は、タトゥーを施した臓器を摘出するショーで人気に。政府は新臓器の生成が行き過ぎた進化だとみなし、臓器登録所という影の部署を通じて監視している。そうした人体の進化に対する監視や規制を嫌う反政府組織の男がソールに接触してくるが、ソールには“裏の顔”があった。
監督のファンなら、コンピューターと触手型インターフェースを備えるエイリアンの繭(まゆ)のようなポッド型ベッドや、人骨を大型化して組み合わせたような食事支援チェア、巨大な甲虫とその体内を思わせる解剖マシンなど、グロテスクだが異様な魅力を放つ造形物の数々にクローネンバーグ特有のフェティシズムを再確認できて歓喜するはず。マシンを使った開腹手術や遺体の解剖などのシーンがリアルに描写されるので、万人受けする映画でないのは確かだが(初上映された昨年のカンヌでは途中退席者が続出したという)、ずっと悪い夢を見続けているような感覚を好むマニアックな向きには待望の御馳走だろう。
復活!クローネンバーグ
昨今、近未来というと廃墟的な古い街並み、ナチュラルな服装、質素な暮らしを描くのが多い。
本作も同じで、臓器や身体をイジることにエクスタシーや芸術性を求める、いつだか分からない近未来。クローネンバーグの『イグジステンズ』に出てくるような物体やら、往年の作品に出てきそうな安っぽさのある造形物が復活して見ていて楽しい。
だが本筋のストーリーが何か物足りなく、退屈さを感じてしまうのは否めない。でも、監督がオリジナルストーリーでこの世界観を貫いてくれたのが嬉しくてたまらない。
内臓フェチ
臓器登録局のところから状況を説明している台詞が続々出てくる。ここはこんな世界なんです、わたしはこういうもんなんです、というのが台詞になっているのは滑稽だった。(クローネンバーグの)頭の中にある饒舌さに、映像が追いついていないことと、登場人物が(とても)多く、解りにくい話をさらに整理しづらくしている。
クリステンスチュワートはサタディナイトライブで変なパーソナリティを与えられたロールをやっているかのようだった。言われたとおりのキャラクターをやろうとしている不自然なクリステンスチュワートを見るのは楽しかった。
ただし解りにくいとはいえ深度は感じ取れる。
よって、たとえばドゥニ・ヴィルヌーヴに渡したら、すごい映画になったのかもしれない。いわばビジュアルノベルをむりやり映画にしたような。こういうのはたぶんヴィルヌーヴとかノーランとか数学が得意じゃないと映像化は不可能ではなかろうか──という感じの、意欲的だがかならずしも成功しているとは思えない映画だった。
クローネンバーグには二通りの作風があり、片方がザ・フライやビデオドロームや裸のランチのような特殊効果を使ったフィクショナルなやつで、もう片方がイースタン~やヒストリーオブバイオレンスのような暴力を中心に据えた人間ドラマ。
Crimes of the Futureは前者の方法でつくられている。と解釈している。
が、全作品にあるていど一貫したモチーフがあると思う。それはfetishと愛が交錯する感覚であり、ザ・フライが上映されていた当時、ジェフゴールドブラムが醜く変容していくにもかかわらずジーナデイヴィスは彼を愛しているのです!──という謳いが盛んに喧伝されていたが、おそらくそれがクローネンバーグの核心を示唆していた。
つまりザ・フライは人の外見ではなく内面を愛する美談として喧伝されたのだが、それは誤解であり、クローネンバーグの心中は“わたしが愛しているのはあなたの内面ではなく内蔵です”と言いたいフェチ=変態だった。Crimes of the Futureは正にそれ(内臓愛)を映像化しようとしていた。
根本的にクリエイターの持っているなんらかのfetishが作品に反映されるものだが、日本人のfetishはそのままポルノ表現になるのに比べて、外国人はfetishをエンタメに変換する能力が優れている。──その代表例がクローネンバーグだ──と解釈するとCrimes of the Futureは腑に落ちる。
じっさいに腑を落とす話であり、内蔵に昂奮するfetishや内臓をつかった性交やマゾヒズムや奇食を併せて描いた超変態映画だが、その超変態を、美意識と美しい俳優が常人にも解るように均している。
カンヌで鳴り物入りだったのはクローネンバーグの映画産業にたいする長年の貢献度によるものでCrimes of the Future自体の評判はさほど芳しいものではなかったが、クローネンバーグらしさがたっぷり詰まったサービス精神旺盛な映画だったので、そのブレなさ=頑なな創作姿勢が敬重された。
クローネンバーグはこの映画と同じタイトルの映画を1970年につくっている。
『この映画はクローネンバーグの2022年の同名映画とタイトルを共有しているが後者はストーリーとコンセプトが無関係なのでリメイクではない。
しかし、2022年版の大前提である“創造的な癌”は1970年版にも登場するため、両作品には緩やかなつながりがある。』
(wikipedia、Crimes of the Future (1970 film)より)
内臓に昂奮する人がいると思うとぞっとするが結局内臓フェチが理解不能すぎて正直なところだからなんなんという感じの映画だった。w
凄いけれど乗りきれない、ジュリア・デュクルノーのTITANEチタン(2021)を見たときの感じと似ていた。
網羅した(全作品を見た)わけではないが個人的にはデッドゾーン(1983)がいちばんいい。クローネンバーグの両面が入っていると思う。
imdb5.8、Rottentomatoes80%と50%
淫靡な笑いのセンス
どうしても介護用チェアに座ってるモーテンセンを見ているとフランシス・ベーコンの絵を連想してしまう
特にラストシーンのあの映し方はベーコンの絵そのものじゃないか?
それにしても食べにくそうだなあ…笑
クローネンバーグの映画を幾つか観たが、(特にクラッシュなどでは)人間が物に変わる瞬間や、人間と物との境界をくり返し描いてるようにも感じた
混沌とグロテスク
印象を一言で言うとしたら、得体の知れないドス黒いもの?
カンヌに出品されて席を立つ人が続出!
確かにタキシードとロングドレスに着飾った観客の
目を背けさせるに十分なグロテスク!!
その部分の映像は
《プラスティックを食べる少年の解剖》
カプリース(レア・セドゥ)が冷蔵された遺体を一目見て、
「とても無理!!」
そう言ったほど、あどけなく無垢な美少年の裸体。
母親にその悪食を嫌悪され殺された少年。
少年がプラスティックやその類を好んで食べる事を忌み嫌った母親に
枕で窒息死させられた。
父親はそれを解剖ショーに出品するのだ。
背中から《サーク解剖モジュール》の4個のアームが
ブレッケン(少年)の内部を切り広げると、
黒々と光り炭化したおぞましい内臓がギッシリと詰まっている。
更にそれを映像に拡大して見せる・・・
(席を立つガタゴトした音と、紳士・淑女たちの嫌悪の表情が
(見えるようだ。
(取り出して置かれたそれは、たどんorうんこor手榴弾)
【近未来】
パフォーマンス・アーティストのソール(ヴィゴ・モーテンセン)と
パートナーのカプリース(レア・セドゥ)のショーは人気を博していた。
ソールが生み出す新たな臓器をカプリースがタトゥーを施して
摘出するのだ。
(これはなかなか面白いショーだ)
まず第一にキャスティングに惹かれました。
ヴィゴ・モーテンセン。
レア・セドゥ。
クリステン・スチュワート。
黒いマントを身にまとったヴィゴ。
拷問具のようなベッド(オーキッド・ベッド)は、鳥の巣に似て
更に心臓のようなハンモックに寝て、不眠。
食事を困難にしてるとしか思えない、
ブレックファースター・チェアに羽交締めにされてる。
デヴィッド・クローネンバーグは嫌いではない。
「ヒストリー・オブ・バイレンス」と「スキャナーズ」が特に好き。
「危険なメソッド」と「マップ・トゥ・ザ・スターズ」も偏愛してる。
「旋律の絆」は狂気、「裸のランチ」は好き嫌い言うより、訳わからん。
産業廃棄物を食する種族が居るくらいだから、
食べ物も枯渇した終末期のSF?
レア・セドゥは裸になることになんの抵抗もない女優らしく、
全裸を披露(ヘアヌードとありましたが、配信は“ぼかし“でした)
(本当に見事な肢体を惜しげもなく・・・)
彼女は演技力も存在も美貌も度胸も備えてるので現時点で無敵。
クリステン・スチュワートはヴィゴの虫歯を数えてるのかと
思ったらキス・シーンに変わる。
「古風なゼックスは苦手」と、ヴィゴ。
クリステンはやはり魅力的。
映画は特に感動もなくアートな袋小路。
皮肉も散見して、
「内なる美」と聞くと「精神的美しさ」と普通連想しますが、
「内臓の美しさのこと」だったり、
「オディールのショー」って
「ディオールのショー」の語呂合わせ?
もっと沢山あったかも知れないけれど・・・忘れました。
《地球の未来に警鐘を鳴らす》
的な生真面目さは微塵も感じられない。
《好きなことを好きなようにやった作品》
イヤーマン(耳男)のダンスシーン、
これは傑作!!
一番気に入ったシーンでした。
未来は恐ろしい
近未来における話にしては、あまりにもゾッとさせられるシーンが多いのが印象的だった。
臓器が人の倍以上に体内でつくられてしまう加速進化症候群という病を抱えるソールはパートナーのカプリースとともに余分に作り出された自身の臓器にアーティスティックな要素をプラスするショーを行い注目の的となるが、それがやがて政府の目に留まるようになり、自由な活動が制限されゆく中で、プラスチックを食べる少年の遺体が運び込まれる。
序盤に登場した少年の生い立ちからも、少年が誕生した理由も映画では説明されているが、これが近未来仮にもしも食料につき何も無いとなった際に生き延びる手段として独自に進化した人類とも考えたら、今後起こり得る恐怖を描き出した作品だなあと思いました。
まさにクローネンバーグ芸術の集大成! ただしエンタメ作としてはさすがに難解に過ぎる。
柏のキネマ旬報シアターで『ふたりのマエストロ』のあと、
夕食をはさんでレイトショーで視聴。
まあ、自分にはちょっと難しすぎたかなあ?
しょうじき四分の一くらいは、睡魔との戦いだったので。
ほんと申し訳ない。
昔から、デイヴィッド・クローネンバーグは好きな映画監督だった。
ちょうど僕の子供時代には、TVでさんざん『スキャナーズ』の映画宣伝が流れていて、お茶の間の家族団らんの場で、人の頭が凄い勢いで爆散していたのだ! あれ、トラウマになってるアラフィフは多いと思うんだけど……(笑)。
大学時代には、ホラー&サスペンスをまとめ見していたこともあって、初期の実験映画や珍品『ファイアーボール』(78、なぜかドラッグカーレース映画!)も含めて、観られる作品はほぼすべてVHSで観ていたと思う。
『裸のランチ』から『クラッシュ』までは映画館の封切りで観ていたが、その後、監督がいわゆるジャンル・ホラーからは離れたこともあって、DVDになってから観たり観なかったり。今回、久しぶりに「肉」と「臓器」の世界に復帰した気配を察知して、遅ればせがら映画館に足を運んだ次第。
たしかに本作は、彼としては実に復古的な作風で、ちょうどダリオ・アルジェントが『ダークグラス』(22)でジャッロのジャンルに回帰したように、齢80にして自らの原点であるところの肉体破壊のグロテスクや生体機械の世界に戻ってきてくれて、まずはご同慶の至りといったところか(もともと本作の脚本を書いたのが98年ごろの話で、当時映画化に向けて動いたが実現せず今回仕切り直した、というのも、2000年代初頭に書いてお蔵入りしていたシナリオを再始動させたアルジェントとよく似ている)。
ただしジャンル感でいうと、ホラーというよりは、バリバリのSFだったけど。
彼にとって、リアルな肉体の変容とそれに伴う精神的な変化は、長いフィルモグラフィにおいて一貫して追求されてきたテーマである。
肉体がどう変容するかによって、映画の「見た目」は変わる。
寄生虫に犯され精神を支配される『シーバース/人喰い生物の島』(75)、マリリン・チェンバーズの腋から吸血男根が生える『ラビッド』(77)、サマンサ・エッガーの怒りが侏儒へと受肉する『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(79)、ジェフ・ゴールドブラムが蠅と融合してゆく『ザ・フライ』(86)など、外形的にはさまざまなホラーの「かたち」を取りうるが、いつもやっていることはほぼ同じといってもいい。
あるいは、精神攻撃によって肉体を破壊する『スキャナーズ』(81)、スナッフフィルムによる洗脳で肉体に銃器を融合するに至る『ビデオドローム』(83)、ドラッグによって幻想へと飛翔しモンスターと交合してゆく『裸のランチ』(91)など、「精神の均衡の喪失」「外的要因による精神の変容」が、肉体のメタモルフォーズ(の幻想)を引き起こすというパターンも多い。
要するに、彼は常に「身体性」と「精神性」をめぐる均衡と不均衡、それによって生じる破壊的なメタモルフォーズとそれがもたらす悲劇を描き続けてきた監督だと言える。
これに加えて、一連の肉体破壊、精神変容を引き起こすトリガーとして、常に「近代科学」「医療」「精神医学」「ドラッグ」といった、人為的なサイエンスが絡んでいるのも、クローネンバーグの特徴だ。その関連で、人体と機械が融合したような薄気味の悪い「受肉装置」が登場することも多い。
また、メタモルフォーズの瞬間に、必ずといっていいほど主人公に性的な快感に類した衝動が付随し、中毒性から抜け出せなくなっていくという、「性欲と破壊」――「エロスとタナトス」をめぐる物語を常に志向している点も見逃せない。この人体破壊とエロティシズムをめぐる思考の極限に達したのが、バラード原作の変態映画『クラッシュ』(96)であり、クローネンバーグ芸術のある種の到達点と言ってもいい。
もう一点、彼の作品が常に、社会から弾きだされた異能者の悲哀を描く「哀しみ色のホラー」である点も忘れてはならない。
たしかに、映画内で起きる「肉体変容/肉体破壊」は「衝動的な性的興奮」と常に結びついてはいるものの、その一方で、主人公は己の肉体変容や異能の目覚めのせいで、まっとうな社会通念から逸脱し、モンスターとして阻害され、結局のところ滅びを選択するしかない。異能者故の絶望的な孤独と、その寒々とした孤絶のなかでもがき、抗い、ついには滅びを受け入れる主人公の光輝ある最期は、常に非情でありながらも、観る者の感情を揺さぶる「タナトスの誘惑」を秘めている。この方向での僕の思う最高傑作が、キング原作でクリストファー・ウォーケン主演の『デッドゾーン』(83)だ。
今回、『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』で描かれるのは、精神的な指向性によって体内で生み出される臓器という「目的化された腫瘍」の功罪であり、その摘出を敢えて「見世物」として公開する、グラン・ギニョル的で露悪的な「劇場化」の功罪である。
さらには、現在の人工的な合成品と環境ホルモンで汚染された世界に、適者生存の法則に則って「進化」した「プラスチック・イーター」が誕生するという、社会派的な側面も有している。
ここに、「臓器を生み出す男」と「それを摘出する女」という、ある種の逆転現象(通常は男性によって女性は胎児を孕まされ、それを女性は自ら産み落とす)が加味され、「手術はセックスに等しい」というエロスをめぐる新たな概念が、繰り返し呈示される。
ビジュアルイメージとしては、黒マントを着た死神かシス卿かといったいでたちの主人公ソール・テンサー、美しい顔に敢えて「傷物の加工」を加えた二人の美女、生体機械としての「オーキッド・ベッド」や「サーク」「ブレックファースター・チェア」といった不気味なオブジェ群、耳を体中に生やした謎のダンサー・クリネックなど、いかにものグロテスクな登場人物と呪物が投入される。
舞台となるアテネの風景や研究室の内部は基本的に殺風景で、極力舞台装置を排したミニマリズムの演劇を想起させる。
結果的に生み出される映像美は、どこか17世紀バロック絵画(とくにレンブラント)にも似た、奇矯さと劇性、そして静謐さを漂わせている。
いずれにせよ、本作で扱われる要素はどれもこれも、長年クローネンバーグが繰り返し、繰り返し、問い直してきたモチーフとテーマの語り直しであり、その意味では、まさに「クローネンバーグ芸術の集大成」といっていい映画であることは間違いない。
「腫瘍として恣意的に生み出される臓器」という概念は、僕がクローネンバーグ映画で一番偏愛しているといっていい『ザ・ブルード 怒りのメタファー』のネタの発展形とも言えるものである。この映画については『ハッチング 孵化』の感想でも紹介したことがあるが、改めてその内容に触れると、精神的な病理を催眠によって「潰瘍化」させ、身体に外傷として顕現させたうえ、外科的手術を用いて切除すれば、心の病がすっきり治療できるという画期的施術を創造した医者が出てきて、その催眠療法を実際に受けた女性が、知らない間に「怒りの侏儒」を孕むようになり、女性の敵意の対象を、彼女からボコボコ産み落とされた「雛=ブルード」軍団が「彼女の代わりに」血祭に上げにいくというもの。なんでも、当時離婚調停中だったクローネンバーグが、妻への怒りをぶつけて製作した映画らしい(笑)。
『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』では、『ザ・ブルード』における「怒り」の代わりに、「人類の進化への祈念」が「機能化された腫瘍としての臓器」を生み出す動因となっている。
「劇場化された解剖ショー」というアイディアも、決して本作だけの奇異な思いつきではない。そもそも14世紀から西欧では処刑後の公開人体解剖が(学問的な理由付けをした見世物)興行として確立しており、多くの画家がその場面を描き残している。フィレンツェ大学自然史博物館(ラ・スペーコラ)の美しき人体解剖蝋人形群。あまた遺される装飾的な解剖図。それはやがて通俗的な恐怖劇としての「グラン・ギニョル」へと引き継がれ、さらには映画の時代に入ると、ハーシェル・ゴードン・ルイスの諸作品や『悪魔のはらわた』『ゾンバイオ』といった数々の生体解剖ホラーを生んだ。
一方で、学術的な公開人体解剖が、現在でも英米で実施されているという現実もある。われわれ日本人がこの手のものに触れるのは、せいぜいマグロ解体ショーか「人体の不思議展」といったところだが、イギリスなどでは「食事をとりながら死体の解剖を見学するショー」といった悪趣味な代物が、今でもネットで検索すると出てくるのでびっくりする。
というわけで、クローネンバーグが描いた「臓器摘出ショー」は、決して空想的な産物ではない。そういえば、僕の本棚にはトレヴィルから98年に出ていた『劇場としての手術』という美麗な芸術写真集が今も置かれているが、こういった「臓器を愛でるアート」の延長上に、今回の作品は正統的に位置づけられるべきものである。
とはいえ。
この映画、面白かったかと言われると、
ぶっちゃけ、なかなかに難物だったように思う。
一番の理由は、とにかく単純に筋がわかりにくいことで、ただ観ているだけでは大筋すら理解できない人がたくさんいるのではないか。
語り口があまりに独善的で、自己完結的で、サーヴィス精神のかけらもない。
展開は概ね平板で、ドラマ性も希薄。終盤になってドリラーキラーが暗躍し始めて、はっと目が覚めるあたりまでは、こちらも何度も睡魔に打ち負かされそうになった。
全体に、登場人物の言っていることややっていることが形而上学的に過ぎて、SFエンターテインメントとして客を楽しませる気は、はなからないように思えるのが残念だ。
これってたぶん、タイトルから見ても一目瞭然なのだが、扱っている題材としては70年代後半~80年代前半にかけての人体破壊猟奇ホラーの世界へと回帰しているとはいえ、その極私的傾向においては、さらに初期の実験映画、『ステレオ/均衡の喪失』(69)や『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(70)あたりにまでさかのぼってしまってるんだろうね。
人体と精神をめぐる高度な思想を、ジャンル映画としての「グロテスク・ホラー」を通じて語っていたかつての奇跡のようなエンタメ性は、本作では残念ながら感じ取ることができなかった。
なので、正直なことを言えば、パンフを読んでなお、何が起きたんだか今一つ意味のわからないシーンがたくさんあって、たとえば結局のところ、ラストでソールとカプリースが何を望んでああいうことをやって、何故ああいうことになったかすら、僕にはよくわかっていない。
細かいところについては、後日サブスクにアップされてから、疲れていないしゃっきりした頭で、改めてじっくり見直さないとなあ。
一点、パンフのなかで、ヴィゴ・モーテンセンが本作について「まるで第二次世界大戦直後のようなフィルム・ノワール最盛期を思わせるような物語」と言っていたのは、大変気になった。映画館で観ているあいだ、僕のなかでそういう観点は全くなかったので、どきっとさせられたのだ。
なるほど、本作を「ノワール」として捉えるって考え方は、実はとても有益かもしれないね。
クローネンバーグらしいグロテスクな世界が炸裂
昨今は「マップ・トゥ・ザ・スターズ」や「コズモポリス」と少し地味な作品が続いていたが、今回は「スキャナーズ」や「ビデオドローム」といった、ある種見世物映画的な面白さを追求した初期作品のテイストに回帰している。個人的にクローネンバーグと言えば、やはりこの頃の作品に最も衝撃を受けた口なので、その流れを組む本作は大変面白く観ることができた。
尚、彼の長編2作目「クライム・オブ・ザ・フーチャー/未来犯罪の確立」とタイトルが被るがストーリー的な繋がりはない。
ただ、近未来を舞台にしたこと、肉体の変容をモチーフにしていること、それを利用したカルト組織が暗躍するなど、幾つか本作に繋がる要素も見て取れる。両作品を見比べてみると面白い発見があるかもしれない。
それにしても、画面に登場する数々の奇妙な”マシン”の造形が悉くユニークで観てて飽きなかった。
ソールは度重なるパフォーマンスの副作用でまともに食事すら摂れない体になっている。それを補助するために奇妙な形をした椅子が登場してくる。彼がそれに座って食事をするシーンが何度か出てくるが、どこか生物的な匂いを感じさせるそのビジュアルに少し笑ってしまった。このユーモラスな薄気味悪さは如何にもクローネンバーグらしい。
あるいは、手術をする際に使用するインターフェースも機械と言うよりも生物的で、同監督作「裸のランチ」に登場するゴキブリ型のタイプライターを連想してしまった。ハイテクでありながらアナログ感を残した造形が面白い。
また、物語は全人類に関わるようなスケールの大きさでありながら、政府機関やカルト組織、登場人物を含めかなりミニマルに限定されている。全体的に背景がボカされているため説明不足な感が否めず、いささか箱庭感を覚えるが、これも狙ってやっているのだろう。予算的な事情も関係しているのだろうが、それ以上に世界観のリアリティを排除することによって敢えて寓話として描くことで作品の普遍性を追求しているような気がした。
環境破壊、食料問題、感覚麻痺に陥ることで本来の人間性を失ってしまう人類の未来といったものが、本ドラマの根底から読み取れた。
グロテスクなアートパフォーマンスも、文化の行きつく先を皮肉を込めて描いているような気がしてならない。芸術と娯楽の境目が無くなってしまうことの危険性、警鐘が、クローネンバーグの中にあるのかもしれない。
グロを超越した耽美的美しさ
グロテスクな肉体ホラーの名手、デビッド・クローネンバーグ監督の最新作。
80歳という年齢を感じさせない、先鋭的でかつての作品に原点回帰したようなボディホラーの名作を完成させた。
時は近未来。
未来ではあるが、建物は古典的でテレビはブラウン管の古びたテレビ、所謂レトロフューチ
ャーの世界観だ。
この世界で人々は痛みの感覚を失っている。
アーティストのソール(ヴィゴ・モーテンセン)は自らの体内で生み出した新しい臓器をパートナーのカプリース(レア・セドゥ)が手術で摘出するアートショーを公開している。
そこへ、人間がプラスティックを食べて生きていける進化を目指す組織を主宰する男がソールに自分の息子の死体を解体するショーを行なってほしいと現れる。
新しい臓器を秘密裏に管理する政府の組織、手術台のメンテナンスをする器具メーカーの2人の女性などが絡み、謎めいた物語が進行する。
甲虫の内部のような安眠ベッドや食べ物を普通に咀嚼できない人をサポートして奇妙に揺れながら口に運ぶ器具など、その世界観は奇妙奇天烈。
ただ、その世界観は見事にこの物語と調和しているのだ。
2時間弱、このクローネンバーグの世界に身を委ねるだけでも価値がある。
人間の外見と中身(内臓)、常識的な人体の機能をクローネンバーグは解体し、新たな美しいものとして再構築している。
人体を切り刻んだり、全身に切り取った耳を縫い付けるパフォーマーなど、変態感覚を受け付けられない人は多いと思うが、もはやグロを通り越した耽美的な美しさを感じる。
ボディーホラーの名手はホラーを超越しアートの領域まで高めたのではないか。
巨匠にはまだまだ、見たことのない不気味で美しい映画を期待したい。
70歳を過ぎた今でも、自らのテーマを追求し続けるクローネンバーグに畏敬の念を払わずにはいられない一作
『ヴィデオドローム』(1983)や『裸のランチ』(1991)など、「生物の変容」について独自の作風で描き続けてきたクローネンバーグ。最近は映画制作から遠ざかり、革新的な映像作家ももう引退なのか…、と思わせておいて、彼しか作り得ないような最新作を撮り上げました。未だ意気軒高な様子に、作品世界の雰囲気とは別に、ちょっとほっとしたり。
本作の物語の筋、舞台設定は、これまで彼が描き続けてきた作品の集大成かつ、より洗練度を高めた内容となっています。
本作においてクローネンバーグは、痛覚が消失した世界、という思考実験のような設定を起点として、もしそうなったら人々は、身体の内側を見たい(ある種の破壊を見たい)という欲望を抑えきれなくなるだろう、という発想に基づいて、解剖とアートの融合という、驚愕するしかない表現に結びつけます。
そして未来の器具が非常に奇妙(に見える)生物的造形をしており、身体と分かちがたく結びついたそれらの器具の動作もまた、奇妙に生物的である、という描写。先鋭的な映像作家、つまりクローネンバーグの後継は数多くいますが、やはりこの発想と描写の飛躍ぶり、そして皮膚の内側から人間を見る、という思索的探求を何十年も続けてきたという主題的厚みは、やはり彼しか出せない、と実感しました。
クローネンバーグ作品としては物語(というか設定)は比較的わかりやすい上に、映像の衝撃度もやや落ち着いていますが、それでも彼の作品に馴染みのない人には結構きつい場面も含んでいますので、可能であれば『スキャナーズ』(1981)とか『デッドゾーン』(1983)とかの、物語的に理解しやすい初期作を観て、クローネンバーグとはこういった映画を撮る人なんだ、とある程度把握してから本作を鑑賞することをおすすめ。
鑑賞動機:クローネンバーグ10割
あれ? もしかして初クローネンバーグだったのか。噂に違わぬ変態ぶり。やらしいことしてないのに、やらしく見えるシーンがとてつもなくやらしい。
その場その場で何が起こっているのかは大体わかったつもりだけど、全体で見ると困惑しかしない。いやあ、これはどうしたもんでしょう。
クロちゃんです!わわわわぁ、、るど。
クロちゃん、凄いわ…痛みのない世界で痛みを味わいたい変態の話、しかもそれを露出してアトラクションのアートにまでするって、変態のための世界観の作り込みは匠です。クロちゃん、日本のエロ漫画を紹介してあげたら、もしかしたらベストフィットするかも。
しかし、痛みを味わいたい変態ってこれ、自動車事故とか、ドラッグとか、転送ポッドとか、変態ビデオとか、いろんなことして破滅していく主人公のコアイメージは変わらないよね?チョコバーが好きなのはザ・フライぶりじゃん。
そういった意味では安定のクロちゃん。だけど、新鮮味あるおどろおどろしいホラー描写はあまりないな。もう何もかも同じ世界に通じるから目新しいものはあまりなく、むしろすべては同じ世界に通じることの不気味さが際立つクロちゃん映画の怖さだな。これがダーケストだよ。
裸のランチ的、戦慄の絆あるいはエグジステンズ的な手術器具や赤ちゃんがまんま食べる時の椅子、揺り籠式ベッドなどのビジュアルには、あまり面白さは感じなかったなあ。そのほかにも、母胎をイメージするネンネのシーンもあったな、クロちゃん、赤ちゃんがえりかなあ?
これといった目新しさはないけど、ヴィゴ・モーテンセンのキャラづくりが一番よかった。喉をごろごろずーっとしてるのが、なんか汚いクソジジイに気持ち悪いイメージを植えつけてきたクロちゃんらしいキャラづくりがすばらしい。気持ち悪いおやじはクラッシュのヴォーンとか、裸のランチのドクターベンウェイ先生とか、ビデオドロームの撃たれて飛び出てバババンのおじさんとか、脇役で無惨に死ぬ汚いおじさんの系譜があって、今回の主人公はそっちの人だったと思いますが、どうなんでしょう?だから何って話ですが、自分似でモテモテの主人公が多いクロちゃん映画において、なぜ汚いおじさんが主人公だったのか?そこはクロちゃん自身がおじいちゃんだからかな?謎はクロまるばかりです。
グロテスクを芸術へと昇華させた未来の人間の行為に快感を覚える衝撃作
人類が、パンデミックを経て「痛みの感覚が消える」生物学的進化を遂げた近未来世界の話。
主人公のソールは、体内で新しい臓器が頻繁に生成される「加速進化症候群」という病気を抱えている。新臓器は体内では機能しない無駄な臓器であるため、摘出しないと寿命を縮めるらしい。ソールのパートナーであり元執刀医のカプリースが都度新しい臓器を摘出するのだが、もはや人類には痛みが無いので、麻酔など必要なく身体を切ることができる世界。だから彼らは臓器の摘出を「手術」ではなく「パフォーミングアーツ」として表現するアートユニットとして活動し、人気を博していた...。人類の進化を管理したい政府は、臓器登録所を設立し、ソールの進化も注視する。そんな彼等に、生前プラスチックを食べていたという男の子の遺体を解剖してほしいとの依頼が舞い込む。
…何この設定面白すぎん?!?!?
監督は1999年の時点で脚本を書いており、適切なタイミングで世に出したいと20年間温めていたらしい。2023年現在、コロナ罹患もワクチン接種も一通り経験し、もしかしたらCovidウイルスに対して何等かの身体的進化があってもおかしくないと思えてくる今日この頃…リアリティを感じてしまう完璧なタイミングでの公開だ。プラスチックを食べる人、という設定もマイクロプラスチックが問題になっている今、確かに人間がこう進化すればいいじゃん…と思わされてしまう妙な説得力があった。劇中の政府はこの進化を阻止しようと見せておきながら、実は利用しようとしているのではないか…?
それにしても、身体を切って臓器を取り出すという行為が、確かにアーティスティックにも、なんならエロティックにも見えてくるのだから自分でも驚きだ。この世界観の作り方と魅せ方は、デビッド・クローネンバーグ監督の恐ろしき手腕であり、俳優陣の素晴らしい演技によるものだろう。
自分たちが生み出した環境変化において、進化せざるを得なかった人間たちが、失われた痛みに憧れ、グロテスクだった行為を美しい芸術へと昇華させる「愚行」とも「美挙」とも言える姿を見て、こんな未来への想像と興味が止まらない。快感…
肉体の内部もアートに‼️
未来を暗示させる
新たな試みの作品
豪華の俳優陣の説得力のある演技が
肉体の内側にある進化する臓器と
それを取り込む新たな世界観が見えてくる
そこに光と希望があるかを、
考えさせられた作品です。
人間は
痛みにより生きていることを実感する。故に生きている感覚が狂った人間はSMプレイでその実感を補完する。また人間は不幸を知っているから幸福を知ることができる。
陳腐な解説をするならば本作の鑑賞後感想はこうなる◎
が、僕が面白いなぁ。と思いながら観たところは本作公開がコロナ終息後、新たなワクチン接種が始まった矢先。かつ食糧危機が囁かれ始めた時期でもあるからだ。
しかしプラスティックを食糧に。と言う提示は斬新だわ。
ぶっちゃけプラスチックを食うバクテリアは存在するそうだけど、人類がそこに一足飛びで進化するなんてw
意識は全ての現実の元だけど、。
まぁ、僕にとっての初クローネンバーグは
良好な鑑賞でした(^^)
食後には観たくないけどね◎
変化を望むのに望まない生き物
ふむふむ。嫌いではない。むしろ好きな感じなんだけれども、何かが抜け落ちている感覚。わざとか?なんて思ったりもしたけれども、きっと違うのでしょう苦笑
ヴィゴ・モーテンセンが凄かったなぁ。わかっているのに全然違う人に見えた。ほぼほぼルドガー・ハウアーだった。メカニックの二人も際立って怪しい立ち振る舞いが好感触。隅々に至るまで何ひとつクリアにはして貰えないので、そういうのをモヤモヤ妄想するのが好きな人向けでしょうね。
未来の変態あるある。
クローネンバーグの映画全部見たわけでは無いけど、ざっくり毎回頭の良い理屈家の変態の言い訳を聞いてるという印象で、本作もそんな感じです。
ただその変態的フェチが「あ、わたし少しわかるかも、、、」という人(私)が彼のファンです。
今回は痛みが無くなった未来、臓器フェチがそれをアートに昇華させる試みの周りにあつまる変態達の欲望展覧会、、古臭いSEXとかもう最先端の人達は興味ないわけですよ。
ビゴもレアセドゥも、集まる変態たちもエロいです。特にビゴは痛みが無い身体や内臓でクリエィティブし、その不調や欲望という経験したことの無い演技を上手く表現出来てた気がしました。
子供の頃、虫歯で痛い目にあい、、しぶしふ歯医者には通ってたんですが、ある日「若い女性が自分の口の中に指っ込んでる!」と気付いた日から歯医者が楽しくなりました。
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