聖地には蜘蛛が巣を張るのレビュー・感想・評価
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神のためにやった。俺の手はきれいだ。
イランの宗教都市を舞台にしたクライムサスペンス。
「蜘蛛」と呼ばれる立ちんぼ娼婦を次々と殺していく殺人鬼。
肝心なことは、ここはイスラムの世界であること。価値観がイスラムの基準であること。それを、あんたたちはおかしいと断罪していいのか?彼らに他の慈悲深い宗教観を押し付けていいのか?あれが、彼らの倫理観なのだ。あれが、彼らの正義なのだ。
そして、自らの犯罪を神の啓示のように誇らしげに振る舞う犯人。彼を裁くのは法か?それとも、神か?・・・ずっとその行く末を見守っている自分がいる。結末を見届けた時に気づいたのは、そこにあるのであろう、神の見えざる手の存在だった。イスラムの闇は深いよ。
イランで発生した娼婦連続殺人事件が映し出す欺瞞
「イランを舞台にしたサスペンス」という、なかなかお目に掛かることのない希少なカテゴリーの映画ということで、物珍しさから観に行きました。
内容的には、2000年から2001年にかけて実際にイランの宗教都市・マシュハドで起こった16人もの娼婦連続殺人事件をベースにして創られたもので、本作の主人公の一人である殺人犯サイードは、実在の殺人犯であるサイード・ハナイをモデルにしており、名前も一緒。もう一人の主人公で、殺人事件を取材し犯人逮捕に貢献した女性ジャーナリストであるラヒミは、本作が創作したキャラクターですが、実際の殺人事件を取材したドキュメンタリーで本物のサイードにインタビューを行った女性(サイードは、この女性インタビュアーに、「次はお前が標的になったかも知れない」と仄めかしていたそうです)や、事件を埋没させないよう奮闘したジャーナリストたちを集約した存在だったようです。
サスペンスと言っても、サイードが犯人であることは早々に分かるというか、犯行の様子が最初から映し出されるので、刑事コロンボの倒叙法よろしく、観客には分かっている犯人をラヒミが突き止める過程を描いた作品でした(コロンボのような陽気さはかけらもありませんが)。ただこうしたサスペンス的な要素もさることながら、本作のメインテーマはイランにおける歪なミソジニー(女性蔑視とか女性嫌悪)でした。一般に報じられているように、イスラム諸国の中には女性の権利が大幅に制限された国があり、タリバンが政権を握るアフガニスタンなどはその最右翼で、女性は大学どころか中学にすら行かせない政策を採っているようです。
一方本作の舞台となったイランにおいては、「実際のところイランでは、女性たちは男性に比べても進学率も高く、高学歴であったり、様々な職業で重要な地位に就いている場合も少なくない(本作のパンフレットから引用)」そうです。ただ、「一般的に、離婚の権利や親権の問題、相続など男性に比べて不利な立場に置かれているのも事実(パンフレットから引用)」だそうで、女性の置かれた立場は相対的に低いようです。さらに、「イスラーム体制のイデオロギーにおいては女性の貞節と良き母親という役割が強調され、預言者ムハンマドの娘であり、イマーム・アリーの妻であったファーテメ(ファーティマ)が理想とすべき女性像とみなされる(パンフレットから引用)」という土壌もあるようです。
本作の主人公である女性ジャーナリストのラヒミは、「高学歴で様々な職業で重要な地位に就いている女性」の代表格である一方、殺人犯サイードの妻であるファテメは、名前が示すとおり「イスラーム体制で理想の女性像」とされるファーテメの化身として描かれています。
実際ラヒミは、娼婦殺人という、解釈によっては宗教的に擁護される事件を調べていく過程で、上司だけでなく、警察官からすらもセクハラを受けています。一方のファテメは、夫の行った殺人が明るみに出た後も、夫の行動を支持し、彼を擁護する立場を貫きます。
ミソジニーというのは、一般に男性から女性に対する蔑視とか嫌悪感情を指しますが、女性自身が女性に対しても持ちうるものだと言うところが難しいところのようで、これはイランとかイスラム社会に限った話ではないと思われます。
また、実際の娼婦殺人事件においても本作中においても、犯人のサイードは宗教的な使命のために娼婦を殺したと主張する訳ですが、実際に殺された16人中13人とサイードは、性交渉を持ったとのことです。本作では、殺した後の娼婦の身体にキスをするサイードが描かれており、要はイスラム教の教義だけが殺人の理由ではなかったのではないかと考えられます。
イスラム教というと、日本ではなんとなく怖いイメージが先行しますが、結局イスラムが怖いものであるというイメージを与えている一因となっているミソジニーとか男尊女卑というのは、宗教と密接に関連はあるものの、それだけで語れるものではないようにも思えました。我が日本においても、夫婦別姓制度が、選択的という条件を付けていながらも、G7参加国で唯一認められていません。普段は自由主義陣営の一員を自認しているのに、そのメンタリティーは、程度の差こそあれどちらかというとイランやアフガンに近いようにすら思えます。
話を本作に戻すと、特にサイードの犯罪に関しては、宗教行為を偽装したレイプ殺人と捉えることが可能ということです。ところが事件当時イランにおいて、彼を擁護するイスラム教徒が一定数いたことも事実であり、この辺りが大量殺人という事の重大さに反比例して、実に滑稽なイラン社会の在り方を表していたように思えます。
以上、娼婦に対する連続殺人事件を扱った映画でしたが、単なるサスペンス映画の領域を遥かに超え、イラン社会、そして実は世界中に蔓延るミソジニーを告発する作品だったとも言えます。こうしたテーマ性から、当初計画したイランでの撮影は、イラン当局から許可が出ず、ヨルダンのアンマンで撮影を行ったようですが、馴染みの薄い中東の街の風景を観ることも出来、非常に興味深い映画でした。
イランを舞台に成功したサスペンス映画
日本の遥か彼方、アメリカに言わせれば、北朝鮮と並ぶ悪の枢軸であるイランが舞台。2000年代初めに実際にあった事件を基にした犯罪サスペンスだ。
セリフはペルシャ語で、20年以上前が舞台とはいえ、貧しいイランの庶民の生活が生々しく再現されている――。
なかなかに骨太な作品だ。
仰々しいだけであちこちに忖度したようなハリウッド映画や、世界市場を視野にいれて最近は小賢しくなってきたような韓国映画に比べると、ちょっと荒々しく、見るのには手ごわい印象も受ける映画。だが、見終わって強い印象を残す。
新聞の映画評を読んだだけで、監督もキャストのことも何も知らない、調べることもないまま映画館へ。
イスラム教にガチガチに縛られている(と思われる)イランでこんな映画が撮れるわけもないが、イランとイスラム社会を告発するという社会派作品というわけではない。
映画はイラン人の視点で描かれ、事件を追う女性ジャーナリストがどういう目に遭うのかというハラハラ感もくすぐる映画的面白さも追及している。
売春婦殺しというのは切り裂きジャックに代表されるように、犯罪ものでは一種古典的テーマだ。それがイスラム世界で起きたらどうなるか――。実際にあった事件に重ねて、虚実入り混じったような終盤の物語り展開も、なかなかに面白い。
最後まで飽きさせず、強い印象を残した良作だ。
継承
映し出される遠景。
街の光が、雨の雫を抱く繊細な蜘蛛の巣のように美しい、そこはマシュハド。
巡礼の聖地といわれる都市で起きた二十数年前の犯罪を元に構想された本作。
そのリアリティは、鋭利な刃物をちらつかせ、退廃的な路地裏の怪しい静けさにうごめく恐怖を連想させた。
そして、そこからわかるのは、人権、差別、貧困、薬物、教育格差など、目を逸らしたくなることもある負の連鎖にうまれる問題が、あたかも弱点を追い詰めるように狙いを定めてくること。
このダークサイドに関わるのは、皆、〝自分を〟生きる為に…だということ。
当然、こどもたちの無垢と無知は環境と一緒にいる大人の理論の影響を存分に受ける。
もちろん全てが悪ではないが、もし、それがどんなに不条理だとしても、常識と非常識が独自に設定されていく。
それを選ぶことはおろか、知ることさえないまま。
そのなかに、いつのまにか蝕まれゆく危うい継承があることを犯人の心理とその一家の様子、ジャーナリストの視線を軸にして語っていくのだ。
………
戦地から戻ったサイードは、突然コントロールできないほど自分を見失う行動をみせる。
心に深い傷を負っているのは明らかだが、普段は建築関係の仕事で家族を養う子煩悩な父親であり優しくい夫だ。
そして彼は街を震撼させている娼婦連続殺人の犯人でもあった。
街の〝浄化〟を大義名分に立て闇に彷徨うサイード。
犯行声明を出し存在をちらつかせ、怪しいと目撃されながらもなかなか捕まらない。
それはなぜなのか。
一方、この犯人逮捕への手がかりを得ようと、身を呈してマシュハドに乗りこんでいくジャーナリストのラヒミ。
危険極まりない事件への恐怖を越え、真理のために目をそむけない彼女の勇敢さ。
それをかりたてるラヒミ自身の過去とは。
さらに悲しいことにそう言ったことが未だに身近にはびこっていることを織り交ぜてみせていく。
ショッキングなラスト。
〝父の後継者に〟と一部の人々から推されたことを意気揚々語る処刑されたサイードの息子。
父から伝授された手口を誇らしげに話す姿。
それを楽しそうに手伝うあどけない妹。
一筋のためらいもなく撮影する母親。
サイードはもういないが、その正義は確かに継承されたのだ。
遠い国の話、宗教やお国柄がからむ話、と、そういった選別や偏見なく、この流れはどこにでもおこりうるのだと感じ思わず眉間に皺を寄せた。
誰かの信じるものを頭から否定するつもりはない。
けれど、ビデオに映ったあの息子は大丈夫か?娘は?母は?
親としての私の感情が手伝い、混沌とした気持ちが押し寄せる。
おそらく事件はおさまっていない。
ずっとずっと、国、法、地域性、宗教が社会情勢とかわらない連鎖に絡み合い、矛盾を匂わせながら続いているのだろう。
光るあの雫は、幸せな暮らしの灯りではなく、歪んだ正義が呼ぶまやかしだったのか。
いや、断ち切れないつながりがこぼした切ない涙なのかもしれない。
忍び寄る今夜のとばりにも、生きるために死ぬかもしれない彼女たちは街角に立つのだろう。
サイードのような正義を掲げ、誰かが近寄ることをわかっていたとしても。
では、どうすれば?と考える。
選べずに、生きていくこと、信じること、受け継ぐこと。
知識や道徳教育の重要性がわかっていても、かえられないものもある。
単純にはいかない問いかけの難しさが、自分の足枷になったように帰り道の足取りが重くなった。
しばらくたつが答えは降りてこない。
⭐︎の数、間違えてたので修正しました。
イスラム法と民主主義は理解しあえないという絶望。
娼婦は殺しても罪ではないというのを私は受け入れられない。
しかし、彼ら(女性も含む)が娼婦殺しを正当化し、犯人を英雄視する理由は理解できる。
繰り返すが、とても受け入れられない。
彼らや彼女らは何世代にも渡って生まれたときからコーランの教えの中で生き、男性中心、男尊女卑が当たり前の世界で暮らしてきた人達だ。コーランに娼婦は重い罪だとある。そんなヤツらが町の外にいてやたら目につく。そいつらを殺すのは、正しいこと・良きことであり、町の浄化になる。全くその通りの正論(彼らにとって)で、反論の余地もない
とにかく彼らの主張を私は全く受け入れられない。20年以上前の事件だが、たぶん今も変わってないと思う。
「イスラム法と西洋型(欧米型?)民主主義はお互いに受け入れられない」というのが最近の私の絶望的な考えだ。
2023/4/20(木) 吉祥寺uplink
女性や法をめぐる不気味なあいまいさ
2022年。アリ・アッバシ監督。イランの保守的な聖地で起きている連続娼婦殺人事件。取材に乗り込んできた女性ジャーナリストは様々な障害に会いつつも、体当たりの取材で犯人に迫っていく。一方で、退役軍人である犯人は神の教えと自らの欲望と承認欲求がないまぜになって殺人衝動を抑えることが難しくなっていく、という話。
同時多発テロと同時期に実際にあった事件に基づいている。イランは宗教的には保守的なシーア派だが文化レベルは極めて高く、文化と近代文明が齟齬をきたすところはかつての日本に似ている。この映画でも、警察や裁判所や新聞社の人々が近代的な法的枠組み・理念と宗教や文化に基づく大衆的欲望・感情の間に立ち、どちらかに肩入れしたり板挟みになったりしている。
この映画の秀逸なところは、その境界をだれかが決めているわけではないところを明確に描いていることだ。犯人は宗教的な「浄化」を果たしているとして民衆から英雄視され、退役軍人会や検事と裏工作で助け出す口約束を交わす。実際、一部の刑罰が免除される様子も描かれる。ところが、実際には死刑になるのだ。その判断にどこまで誰の意思が反映しているのかはわからない。犯人を見つけ、厳罰を求めるジャーナリストの努力はまったくの無駄でもない代わりに、見える形で効果的だったというわけでもない。この不気味なあいまいさが、法や女性をめぐって、イラン社会を覆っているのだ。
日本では馴染みのない宗教クライムサスペンス
【"聖なる街の浄化。そして、狂信。"ラストの犯人の息子の映像には、絶句した作品。女性蔑視の風習や、狂信的な負の連鎖に対してアリ・アッバシ監督が怒りを叩きつけた作品。犯人を英雄視する民の姿も恐ろしい。】
- イマーム・レザー廟があるイラン第二の都市、マシュハド。その街で16人もの娼婦が絞殺される。-
◆感想
・女性ジャーナリスト、ラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)は危険を犯しながら女性蔑視の街で娼婦殺しの犯人を捜す取材を続ける。
・犯人のサイードは何の呵責も無く、娼婦達を次々に同じ手段で手に掛けて行く。
ー ”聖なる街を浄化しているだけだ”と言い放つサイードの姿が恐ろしい。16人も殺害しながら・・。-
・サイードの妻が夫の行為を正当だと言ったり、司法は腐敗していたり・・。
ー 愚かしき警察署長のラヒミに対する接し方。マシュハドの根本には女性蔑視が蔓延っているのである。
・判決で死刑を言い渡されたサイード。腐った司法の仕組みから逃れるのかと思っていたら、流石に娼婦たちと同じように絞首刑・・。
ー だが、彼の家族や街の民の一部は彼を英雄視する・・。-
<最も恐ろしかったのは、サイードが処刑された後に、ラヒミが自ら撮った映像で見た、サイードの息子アリが、誇らしげに父親が娼婦を殺害する方法を披露するシーンである。
又、サイードが民から英雄視されるシーンも恐ろしかった作品である。>
「ただそれだけ」の一本?
ふつうに考えても、彼(サイード)の行動を正当化するのは、難しいように思いました。評論子は。
「おじさん、おじさん。聖地の浄化か何か知らんけどさ。おじさんのやってることは、マジ紛れもなく、立派なコロシなんだからさ。そのうち捕まるよ、警察に。」と思っていたら、案の定、捕まっただけの話。
それに、他のレビュアー氏も指摘するように、「世界最古の職業」が成り立つのは、そもそもが需要がある(買い手がいる)からなのであって。
男尊女卑だか何だか、これも知らんけど、それなら片一方だけを嫌悪して、供給者だけを退治するというのも、どだいが片手落ちでしょうが。
(女性が、単身者であることだけを理由にホテルの宿泊を拒まれるようなお国柄だったとしても、さ。
それに、そういうことを生業にせざるを得ない女性の側の事情というものにも、配慮が行ってないんじゃない?)
あれだけ派手にやっちまったんじゃあ、極刑になってしまうのは、それはそれとして致し方ないとして。
旧知の友人が、ああ言ってくれたのは、別に騙すつもりじゃあなくって、「最後の日まで平穏な気持ちで過ごせるように。」という心遣いだったと受け止めることもできるんじゃあないかなぁ。
…と、思いました。評論子は。本作を観終わって。
タイトルの「おどろおどろしさ」とは裏腹に、忌憚なく言えば「その程度の作品だった」と評したら、言い過ぎでしょうか。
(追記)
サイードの旧知の友人の言動なのですが…。
実際、彼らがその立場を利用してサイードの釈放について、行刑当局に働きかけをしたのではないかと思い直しました。それで、彼らのあの言動になったと。
しかし、行刑当局は(彼らの働きかけにもかかわらず)動かずに司法の判断どおりに判決を執行した―。
行刑当局は「法による支配」を貫いたということでしょうか。
そうだとすれば、宗教的な価値観がすべてを規律する(?)サイードの国でも、民主的統制の片鱗が見え始めたと言えるのではないでしょうか。
評論子が評の一部を改めることについては、humさまから貴重な示唆をいただいたことを付言したいと思います。
殺人を浄化として英雄視する社会にゾッとする
アリ・アッバシ監督作。
前作の「ボーダー 二つの世界」は普通とは異なる人間を描きマイノリティの孤独と悲劇をデフォルメした北欧テイストの傑作だった。
そして今作の舞台はイラン🇮🇷。
2000年代初頭に実在した殺人鬼による娼婦連続殺人事件に着想を得たとのこと。
ボーダーのときは全く意識しなかったけど、アッバシ監督って学生時代にイラン🇮🇷からスウェーデン🇸🇪に移住していたのですね。
そう、ここ🇮🇷には娼婦の殺人を罪と認識しない多くの人々がいた。「殺人」を「浄化」として英雄視する社会があった。法社会として成熟していない国家があった。
その事にゾッとするインパクトの強い作品だった。
そして、自らを危険にさらす女性ジャーナリストを演じたザーラ・アミール・エブラヒミの美貌とインテリジェンスに💕(㊗️カンヌ国際映画祭女優賞)
彼女もまた性的なバッシングによりイラン🇮🇷からフランス🇫🇷に亡命していた。
名声と信頼
どの宗教であろうと、どんな背景であろうと、生きるために必要なお金を様々な手段で稼ぐ。もちろん聖地マシュハドでも同じである。退役軍人の主人公は今の生活に退屈し、俺はもっと違う使命を神から与えられているはずと考えている。彼は夜にマシュハドで立ち、稼ぎを得る娼婦を汚い存在と思い、神の代わりに制裁を下していた。そんな退役軍人と彼を追いかける記者の物語です。
どんなに完璧に最初上手く行っても、いつか上手く行かなかったときやボロが出る。名声が欲しいのは誰でも同じである。最初はスパイダーキラーとも世間から呼ばれていたが、だんだんと興味が去っていき、そのような呼び名もなくなった。
誰を信じればいいのかは最後までわかりません。退役軍人の彼は娼婦から信頼を得る。そして、その信頼を裏切っていく。彼が裁判で判決を下された後、友人に裁判の結果を覆すと約束されたが、最後の最後彼は裏切られてしまった。彼を応援していた人々はあくまでも興味からの行動であり、話したこともありません。
私たちは生きていくうえで、どのように名声を欲しいという自己満足と、他人をどこまで信用していいかと考える戦いをすればいいのかを考えさせられる映画でした。
所変われば…
イスラム教なんだろうか…基本売春は世界的に違法なんだろうが、アングラでは認められているのが一般的なんだろう
流石にあれだけの数の女性を殺してしまうと、世論も支持すると思ったが、そうではなく支持する人々があれだけいるのはカルチャーショック
終わり方も何だかな〰️
なぜこんなに評点が…
異国のことと言い切れない怖さ
恐ろしいことに、実話ベースなんですよね、これ。
イスラム教だからということで他人事に思ってると大間違い。
気に食わないものを排除することを是とする(殺人を犯しても正当化されるべきと主張する)連中が、一定数いることの恐ろしさ。
そして、平然と男女差別をし、ヘイトを繰り返す人々の醜悪さ。
価値観や宗教解釈なんて変わっていくのが常であるのに、自分の行いは正しいと思い込み、法に背きながら堂々と正当性を訴えることが、いかに愚かなことなのか。
こういったことを平然と行える人々は、日本にもいるのですよ。
最近、ヘイトをばらまき扇動する人間は、選挙に出たりしています。
困ったものです。
何が悪か
それぞれの立場で大きく違いますね。聖地としての尊厳を保ちたい者、生活をして行く上で売春をしてクスリに溺れる者、殺人を悪として追求して行く者。サイードが行った殺人は良く無いと思いますが、それを善として崇める環境や家族には怖ささえ感じます。息子はこのまま行くと踏襲しそうですね。
重い
サスペンスの枠を軽く飛び越す重厚な物語
イランの聖地マシュハドで発生した、娼婦ばかりが狙われる連続殺人事件を追う女性ジャーナリストの物語と聞いてどんなイメージを持つだろうか。犯人を追うサスペンス?犯人の異常な内面を描いたサイコな話?主人公のジャーナリストが受ける女性としての生きづらさを描いた社会派ストーリー?そのどれでもあるのだが、裁判が始まる後半からは少し違う色を見せてくる。
そこで描かれるのはイランにおけるイスラム社会が女性をどう扱っていたのかということ。裁判と支援者と犯人の家族の描き方がエグい。なんならそのありえなさに少し笑ってしまうくらい。そんな考えが普通なの?と。最後も、こんな感じで継承されるのかと怖くなった。
この事件から30年近くたっているが、イランはそこからどれだけ変わったのか。ヒジャブ着用の事件が発生したりしてるから大して変わっていないのかもしれない。とても気になる。
イラン版切り裂きジャック
不条理しかない「聖地」の夜
平日に休みとってまでなぜ「こんな映画」を観てるのか。終始、いやぁーな気持ちで観続けた本作ですが、そもそも、観たいものだけ観ていては知らないままの世界があります。
シンプル過ぎて、反ってえげつなく感じる殺人シーンが繰り返されるこの作品は、今から22,3年前のイランで起こっていた連続殺人事件が基に作られています。そのため、作中のシーンで映り込むテレビのニュースでは、01年に起きた「9.11」のニュースが流れていたりします。
被害にあう女性たちの殆どは、恐らく色々な事情で選択肢なく「娼婦」となり、男たちに虐げられるだけでなく、女性たちからも蔑まれています。そんな過酷な状況に加えて「殺人鬼」の恐怖に怯えながら、それでも生きていくために夜な夜な路上に出る彼女たち。強調して言うべきは、途切れなく現れる男たちがいるのです。そして、そこに紛れて彼女たちに「粛清」を続ける殺人鬼。もう不条理しかない「聖地」の夜はヤダ味しか感じません。
そして、真実に立ち向かおうとするジャーナリスト、ラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)。地元警察は頼りにならないばかりか、むしろ捜査しているのかも疑わしく不信感しか感じません。更には「残念ながらも想像通りの言動」でラヒミの気勢を削ごうとします。それでも諦めないラヒミ、自らドンドンと深みにはまってまで真相に迫るのですが、、、
イスラム教シーア派における聖廟都市(聖地)であるマシュハドで起きたこの事件。私にとってイスラム教は「イメージ」以上のものはほぼないため、これを簡単には結び付けて話せないものの、やはり切り離せないのは、完全なる女性への差別。その事情に関係なく、身を売る女性の「戒律違反」を一方的に非難し、買う側の男には全くのお咎めがない。そして、不貞を働く夫を庇ってまで、やはり「戒律違反」する女が悪いと論理をすり替えてまでプライドと家(ファミリー)を守ろうとする女性たち。更に「不条理」に対する理解がないうちに刷り込まれ、洗脳されていく子供たち。そしてまた、娘を殺されても尚、生活に追われ、また体裁を守るための選択をする被害者家族たちなど、もう言葉がありません。
とは言え、一つの作品からもたらされる印象だけで偏見をもってはいけません。だからこそ、知らない世界を知るために、たまにはこんな過酷な映画も観る必要性をしみじみ感じる一本でした。
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