「イランで発生した娼婦連続殺人事件が映し出す欺瞞」聖地には蜘蛛が巣を張る 鶏さんの映画レビュー(感想・評価)
イランで発生した娼婦連続殺人事件が映し出す欺瞞
「イランを舞台にしたサスペンス」という、なかなかお目に掛かることのない希少なカテゴリーの映画ということで、物珍しさから観に行きました。
内容的には、2000年から2001年にかけて実際にイランの宗教都市・マシュハドで起こった16人もの娼婦連続殺人事件をベースにして創られたもので、本作の主人公の一人である殺人犯サイードは、実在の殺人犯であるサイード・ハナイをモデルにしており、名前も一緒。もう一人の主人公で、殺人事件を取材し犯人逮捕に貢献した女性ジャーナリストであるラヒミは、本作が創作したキャラクターですが、実際の殺人事件を取材したドキュメンタリーで本物のサイードにインタビューを行った女性(サイードは、この女性インタビュアーに、「次はお前が標的になったかも知れない」と仄めかしていたそうです)や、事件を埋没させないよう奮闘したジャーナリストたちを集約した存在だったようです。
サスペンスと言っても、サイードが犯人であることは早々に分かるというか、犯行の様子が最初から映し出されるので、刑事コロンボの倒叙法よろしく、観客には分かっている犯人をラヒミが突き止める過程を描いた作品でした(コロンボのような陽気さはかけらもありませんが)。ただこうしたサスペンス的な要素もさることながら、本作のメインテーマはイランにおける歪なミソジニー(女性蔑視とか女性嫌悪)でした。一般に報じられているように、イスラム諸国の中には女性の権利が大幅に制限された国があり、タリバンが政権を握るアフガニスタンなどはその最右翼で、女性は大学どころか中学にすら行かせない政策を採っているようです。
一方本作の舞台となったイランにおいては、「実際のところイランでは、女性たちは男性に比べても進学率も高く、高学歴であったり、様々な職業で重要な地位に就いている場合も少なくない(本作のパンフレットから引用)」そうです。ただ、「一般的に、離婚の権利や親権の問題、相続など男性に比べて不利な立場に置かれているのも事実(パンフレットから引用)」だそうで、女性の置かれた立場は相対的に低いようです。さらに、「イスラーム体制のイデオロギーにおいては女性の貞節と良き母親という役割が強調され、預言者ムハンマドの娘であり、イマーム・アリーの妻であったファーテメ(ファーティマ)が理想とすべき女性像とみなされる(パンフレットから引用)」という土壌もあるようです。
本作の主人公である女性ジャーナリストのラヒミは、「高学歴で様々な職業で重要な地位に就いている女性」の代表格である一方、殺人犯サイードの妻であるファテメは、名前が示すとおり「イスラーム体制で理想の女性像」とされるファーテメの化身として描かれています。
実際ラヒミは、娼婦殺人という、解釈によっては宗教的に擁護される事件を調べていく過程で、上司だけでなく、警察官からすらもセクハラを受けています。一方のファテメは、夫の行った殺人が明るみに出た後も、夫の行動を支持し、彼を擁護する立場を貫きます。
ミソジニーというのは、一般に男性から女性に対する蔑視とか嫌悪感情を指しますが、女性自身が女性に対しても持ちうるものだと言うところが難しいところのようで、これはイランとかイスラム社会に限った話ではないと思われます。
また、実際の娼婦殺人事件においても本作中においても、犯人のサイードは宗教的な使命のために娼婦を殺したと主張する訳ですが、実際に殺された16人中13人とサイードは、性交渉を持ったとのことです。本作では、殺した後の娼婦の身体にキスをするサイードが描かれており、要はイスラム教の教義だけが殺人の理由ではなかったのではないかと考えられます。
イスラム教というと、日本ではなんとなく怖いイメージが先行しますが、結局イスラムが怖いものであるというイメージを与えている一因となっているミソジニーとか男尊女卑というのは、宗教と密接に関連はあるものの、それだけで語れるものではないようにも思えました。我が日本においても、夫婦別姓制度が、選択的という条件を付けていながらも、G7参加国で唯一認められていません。普段は自由主義陣営の一員を自認しているのに、そのメンタリティーは、程度の差こそあれどちらかというとイランやアフガンに近いようにすら思えます。
話を本作に戻すと、特にサイードの犯罪に関しては、宗教行為を偽装したレイプ殺人と捉えることが可能ということです。ところが事件当時イランにおいて、彼を擁護するイスラム教徒が一定数いたことも事実であり、この辺りが大量殺人という事の重大さに反比例して、実に滑稽なイラン社会の在り方を表していたように思えます。
以上、娼婦に対する連続殺人事件を扱った映画でしたが、単なるサスペンス映画の領域を遥かに超え、イラン社会、そして実は世界中に蔓延るミソジニーを告発する作品だったとも言えます。こうしたテーマ性から、当初計画したイランでの撮影は、イラン当局から許可が出ず、ヨルダンのアンマンで撮影を行ったようですが、馴染みの薄い中東の街の風景を観ることも出来、非常に興味深い映画でした。