「私たち日本人にとって馴染みのない社会や価値観を知り、独善的な判断をしないため、一度は見ておくべき作品」聖地には蜘蛛が巣を張る 正山小種さんの映画レビュー(感想・評価)
私たち日本人にとって馴染みのない社会や価値観を知り、独善的な判断をしないため、一度は見ておくべき作品
2000年から2001年にかけてイランのマシュハドで娼婦16名が殺害された実際の殺人事件にインスピレーションを得た映画ということで、昨年、BBCのネットニュースでティザーを見てから気になっていたので見に行きました。特に、イマーム・レザー廟を中心に蜘蛛が巣をはっているように映る夜のマシュハドの街の映像はなかなかに印象深いものでした。本作については、事前にイマーム・レザーを冒涜するものではないかと聞いていたのですが、噂とは裏腹に、実際に映画を見た印象としては、イマーム・レザーを冒涜するようなイメージは特に感じませんでした。
この'ankabūt-e moqaddas(聖なる蜘蛛)、または'ankabūt-e qātel(キラー・スパイダー)と呼ばれるサイード・ハナーイーを題材にした映像作品は、知る限り、これで3作目になるかと思います。インパクトのある事件だけに、やはり多くの方が映像化したいと思うものなのでしょうか。
1作目は2001年、つまり事件直後のマーズィヤール・バハーリー監督による「そして蜘蛛がやって来た(va 'ankabūt āmad)」で、こちらはフィクションではなく、実際にサイード・ハナーイー自身やそのご家族、被害者のご家族、裁判官、そして弁護士等に対するインタビュー等を元にしたドキュメンタリーフィルムで、2作目がイランで人気のテレビシリーズpāytakhtでおなじみのモフセン・タナーバンデ氏がハナーイー役を演じた「蜘蛛('ankabūt:邦題はキラー・スパイダー)」、そして本作が3作目という並びになるかと思います(もっとも、本作ではこの殺人鬼の名前が、ハナーイーからアズィーミーへと変更されていて、途中で名前が出た際に驚いてしまいました。ただ、英語至上主義で原音をまるで無視する日本語字幕翻訳では、ハナーイーはハナイとされてしまい、日本人のような名前になってしまうので、名前の変更は有り難いことかもと思いました)。
2作目の「蜘蛛」は既に昨年見ていたので、予習のつもりで、1作目の「そして蜘蛛がやって来た」をネットで視聴してから本作に臨んだのですが、ドキュメンタリーのなかでのハナーイーのご家族のセリフ等が劇中で多く使用されているなど、事実を元に丁寧に作られていることがよく分かりました。
例えば、作品の終わりのほうで、サイードを処罰したところで、新たなサイードが出てくることになるだろうという趣旨のセリフがありますが、これは実際に彼の母親がインタビューのなかで話していることですし、サイードが娼婦を殺害する様子を息子のアリーが得意げにジェスチャーを交えて説明するシーンも、ドキュメンタリーフィルムの中で実際に彼の息子が行っていることです。フィクションではないと知った上で本作を見て、改めて強い衝撃を受けました。もっとも、事件が発生して約20年が経ちますが、新たな聖なる蜘蛛についてのニュースも聞きませんので、彼が父親の後を継いでいないらしいことには、ほっと安堵を覚えます。
映画のストーリーとしては、とても分かりやすい形で作られていると思いました。サイードが街を浄化する目的で娼婦らを殺害し、それを女性ジャーナリストのラヒーミーが追いかけ、最後には彼女が自分を餌にしてサイードを吊り上げると、逮捕されたサイードが裁判で有罪判決を受け、処刑されるという流れは、見ていて非常に分かりやすいのですが、特に大きなどんでん返しがあるわけではないので、人によっては少し退屈に感じるかもと思いました。
サイードについては、非常に信心深い人物として描かれており、聖なる街から退廃した娼婦を取り除くことが彼にとっての信仰上必要な努力、つまり「ジハード」であるとのセリフにも彼の信仰心がよく表れていると思いました。ただ、このセリフを元に、だから宗教は危険なのだと結論付けるのはどうかとも思います。私たち宗教意識をそれほど強く持たない日本人の社会でも、例えばネット上で独善的に他者を叩き、社会的に抹殺しようとする事例などを見かける通り、自分が正しいと思うと、必要以上に相手を責め立てることがあります。ある意味、そのような人たちはサイードと同じようなものなのではないでしょうか。誰もがサイードになりうるのだから、そうならないように気を付けなければならないと感じました。
また、彼がこのように独善的な行動に出た理由として、信仰心や戦時のPTSDについて触れているようなシーンもありましたが、彼の奥さんがタクシー内で娼婦に間違われ、ドライバーから暴行されそうになった(あるいは暴行された?)ことについて触れていなかったのは少し残念な気もしました。
本作を見ていて、聖なる都市とされる場所によくあれだけたくさんの娼婦がいたものだと驚かされましたが、よくよく考えてみると、シングルマザーやワーキングプアに対する支援等が十分になされなければ、体を売らざるを得ない女性が出てくるのはどこの国も変わらないことなのでしょう。そのような意味では社会保障や生存権といった普遍的なテーマを扱っている作品とも言えそうです。そして暴力は常に社会的弱者に向けられるものだということも(なんでも、一説には実際のサイードは最初、客である男達を襲おうとしたけれども、力が及ばないので、抵抗する力のなさそうな娼婦を襲うことにしたのだとか)。
このようにセーフティーネットから零れ落ちた、社会的弱者の娼婦たちですが、劇中で彼女らは女性たちからはもちろんのこと、男たちからも忌み嫌われ、殺されても当然という言い方をされます。性的にイスラム世界よりも緩やかな日本社会でさえ性産業に従事する女性は冷たい目で見られるのですから、いわんやイスラム圏においてはですが、女性が体を売るときには、当然ながら買う男たちがおり、売春が商売として成り立つ以上、娼婦よりも客である男たちのほうが数が多いはずなのに、娼婦に対するこの非常に厳しい態度。男とはなんとも勝手な生き物です。また、劇中、事件担当の刑事がラヒーミーに対して関係を無理強いしようとするシーンを含め、ろくでなしの多いこと。男って本当に……。イラン社会がいまだに男中心の社会であることが本作から良くうかがい知れます。
このような男性中心主義的でマッチョな社会で、サイードは娼婦を16人殺害するわけですが、そこには宗教的な、あるいは法律的な事情もあるので、その点も理解しておくほうが本作をより良く理解できるのではないかと感じました。
例えば、イランで定められているイスラム刑法上の用語のひとつに、mahdūr-ol-dam(مهدور الدم)という概念がありますが、これは「その人の血が無駄なものであり、無効である人」つまり「イスラム法上、その人の血を流すこと、つまりその人を殺害することが許されている人」という意味で、例えば、正当防衛の場合、誰かから襲われた際、自分の身を守るため、襲い掛かってきた人を殺すことは、侵害者が防衛者との関係で、mahdūr-ol-damとなり、殺害することが許されるというイメージになります。そして、サイードは、娼婦はイスラム社会の性道徳に対する侵害をしているので、彼女らは社会との関係ではmahdūr-ol-damとなり、彼女らを殺害することが許されると確信し、このような凶行に及ぶのですが、当然、イラン社会にいおいても、彼女らがmahdūr-ol-damに当たるか否かは裁判官等が解釈・判断することであって、彼が行っていることは完全に独善的な行動になるわけですが、それでもそのような事情を知っていれば、彼の思考の流れは理解できるのではないかと思われます(もっとも、心情的には彼の行為は全くもって、1ミリも理解・賛同できるものではありませんんが)。
また、理解・賛同できないということでは、逮捕されたサイードが収容場から外を眺め、雨が降ってくると、それを満足そうに眺めるシーンがありましたが、これは彼が娼婦らを殺害するまでは日照りが続いていたマシュハドに雨が降ったことで、自らの行為を神に認められたと感じるシーンだと思いますが、これも彼の独善的な考え方を浮き立たせており、心情的にはとても彼には賛同できないなと思いました。
ところで、レビューを書かれている方々の中に、イランでは売春が死刑になる、と当然の前提として書かれている方がいらっしゃるので、この点についても少し考えてみたいと思います。劇中、ラヒーミーが娼婦の一人と会話しているシーンで、「逮捕される度にむち打ちを受けて釈放され、何度も売春を繰り返している」と話すセリフがあったと思います。最初は痛かったけれども、2回目以降は皮が分厚くなり、あまり痛みを感じなくなった、と。
彼女のセリフが示すとおり、イランの刑法上、売春を直接に規制する法律はなかったと思います。娼婦たちは、一般の人たちと同様に、性交があった場合には姦通罪として100回以下のむち打ち、または、キス等の段階にとどまり性交にまでは至っていない不純な関係の場合には99回以下のむち打ちと定められていたと思います。死刑が定められていないにも関わらず、娼婦を、それも16人も殺害し、それ以上の方々を殺害しなければならないとまで考えていたハナーイーの狂気が非常に強く伝わってきます。
このように、本作はクライムサスペンスとしても楽しめますし、私たち日本人には馴染みのないイランというイスラム教圏の社会とその価値観について、幾ばくかでも知ることのできる機会を与えてくれる良質の作品だと思います。