聖地には蜘蛛が巣を張るのレビュー・感想・評価
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“無自覚な加害者”になっていないか。この問いは日本人にも他人事ではない
イランのマシュハド市は首都テヘランに次ぐ同国第2の大都市で、イスラム教シーア派の聖廟に多数の信徒が訪れる巡礼地でもある。日本の都市にたとえるなら、大阪市と京都市を足して2で割った感じだろうか。そんなマシュハドで2000年から2001年にかけて実際に起きた娼婦連続殺人事件に着想を得たドラマ映画だ。
監督・共同脚本のアリ・アッバシは、2018年の前作「ボーダー 二つの世界」(カンヌ国際映画祭ある視点部門でグランプリ受賞)で国際的な名声を博した。イラン出身のアッバシは、2002年から留学してスウェーデンで建築学を、デンマークで映画の演出を学び、以降はデンマークを拠点に活動している。事件当時まだイランに住んでおり、16人もの女性を殺害した犯人サイード・ハナイが一部の市民や保守派メディアから英雄として称えられたことに違和感を覚え、いつかこれを題材に映画を作ろうと思ったという。
映画は2つの視点で構成される。第1は、聖地で売春を行う女性たちを汚らわしい存在とみなし、「街を浄化する」という使命を自らに課して、客を装い娼婦を自宅に招き入れて殺害する犯行を重ねていくサイードの視点。原題の「Holy Spider」に比べて邦題の「聖地には蜘蛛が巣を張る」はかなり説明調だが、男が自宅(=巣=罠)に獲物を誘い込んで命を奪う手口から、実際の事件の報道でも犯人は“蜘蛛”に例えられていたのだとか。本編を注意深く観るなら、序盤に映る夜の街の俯瞰ショットで、モスクのある中心部から放射状と同心円状に広がる街路と建物の明かりで浮かび上がる夜景が、まさに蜘蛛の巣ように見えることに気づくだろう。
そして第2は、女性ジャーナリストのラヒミの視点。彼女はある事情でテヘランの大手報道機関の前職を解雇され、進行中の連続殺人事件を追うためマシュハドを訪れている。ラヒミ役のザーラ・アミール・エブラヒミはイラン出身の女優で、2000年代に同国のテレビドラマなどで人気を博するも、06年に元交際相手と彼女の性行為を撮影したものだとされる動画が流出してスキャンダルに。エブラヒミに非がない上に動画の真偽も定かでないにも関わらず当局から収監されるリスクが生じ、08年にイラクを脱出してパリに移住(後にフランスの市民権を得ている)。こうしたイランでの理不尽な処遇が、演じたラヒミ役の過去やマシュハドでの被差別的なエピソードに反映されている。
本作で描かれているのが、日本とは別世界のイスラム圏で起きた異常な連続殺人事件の話だと決めつけてしまうと、貴重な教訓を得る機会を失うことになる。男尊女卑、ミソジニー(女性嫌悪)がまかり通る社会で、16人の娼婦の命を奪ったサイードは、一部の市民から、また妻子から英雄視された。令和の日本から眺めたら確かに異常だと感じられるが、では半世紀前の昭和の時代、さらにさかのぼって戦中・戦前の男女格差や、性的・人種的マイノリティーに対する差別はどうだったか。つまり、倫理観や道徳観は地域や時代で移り変わる相対的なものであり、たとえば現在の常識で当たり前だと感じる他者への言動であっても、また時代が変われば攻撃的だとか暴力的などとみなされる行為と断じられる可能性だってあるということ。世の中がそうだから、みんながやっているからということを行動の基準にすると、無自覚な加害者になってしまうリスクを避けられない。正義だと思ってやっていることに、もしかしたら加害性があるのではないかと、疑ってかかること。「聖地には蜘蛛が巣を張る」にはそんな問いかけが含まれている。
事件が辿る異様な展開に震撼させられる
かつて北欧映画「ボーダー」を観た時の胸騒ぎが忘れられない。周囲との距離感、はたまた自分は異質な存在なのではないかという疑念はイランを舞台にした本作(内容は全くの別物だが)でますます顕著化しているかのようだ。もともとイランで生まれ、大学で学ぶために北欧での生活を始めたアリ・アッバシ監督にとって、二つの領域の間で揺れる日常は極めて身近なものだったはず。そんな彼が二十歳前後だった2000年初頭、母国で起こったのがスパイダー・キラー事件だという。このクライムサスペンス映画が特殊なのは、娼婦をターゲットに殺人を繰り返す犯人の素顔を最初からはっきりと写しつつ、そこに女性記者の奮闘をも描きこむところ。そうやって浮かび上がるのは、女性への文化的、宗教的抑圧の状況だ。単なる犯罪劇を超えた異常事態が蜘蛛の巣の如く社会へ広がっていく様に震撼させられる。リスキーな役柄に身を投じた主演二人の演技も実に見応えがある。
「浄化」という考えが許される余地を残してはいけない
どんな理由があっても、人を殺していい理由なんかないのに、犯人どころか周りの人も全く悪い行いだとは認識していなくて、吐き気がするほど不快。
人を殺しておいて、神のためにやった?
手は汚れてない?
全く理解できない。
犯人の息子が、父親の犯した殺人を肯定してて、殺された女性を完全に馬鹿にしてる描写も不快極まりないし許せない。
犯人の妻も、子どもに「父親は街を浄化した」って教えるの、ありえない。
どうなってるの?
どうなっちゃうの?!
胸クソ映画?
と思っていたら、納得の最期で良かったです。
が、息子がバカ…。
宗教観にもよるけど、この「浄化」という考えが完全に良くない思想だということを明確にしないと、助長や、都合のいい解釈を生みそうで怖い。
宗教だからと許される余地を残してはいけないと思う。
ちょうど最近、配信者の女性が配信中に殺害され、加害者と被害者の関係性が分かってくるにつれ、加害者に同情の意見集まる、ということがあった。
どっちが被害者か分からないような構図ではあったけど、変えられない真理は「何がどうあっても、人を殺していい理由にはならない」。
ドキュメントとして?報道メディアとして?一人の女性の意見として?
自分が接した事の無い宗教への恐怖、違和感、
「暴力」の定義の違いに対する嫌悪感、そして
流動的な複数政府の底に居座って、
恐らくは地球上何処に行っても居るんだろう
「暴力」そのもの。この映画とは切り離して
感じなければならない要素が多過ぎる。
処刑台の露と消えた父親がオカシイ、
無茶苦茶じゃあねえかと言うのは、
日本では簡単だ。ココに投稿出来るくらいだし。
しかしコレと同じ事を正しく今も命懸けでやってる
人達の存在を自分は全く知らなかった。
世界は多面的でなければならない。
という考えこそがこの事件の、
この嫌悪感の(或いは総ての戦争の)
原因であると考える人はいないのか。
"経済"と"宗教"の存在する世界では
全てが許される。
"政治"や"国家"まで来たら尚更である。
お父さんは罪を犯して処刑されたのか?
その子供は大人になるまで待つ必要は無い。
スグにでもジャンヌ・ダルクになれるのである。
でも日本だってちょっと前までは
こんなだったんじゃあないのか?
第二のスパイダーキラーと第二の被害者
アリ・アッバシといえば「ボーダー 二つの世界」だ。「マザーズ」も観たけれど、社会的メッセージを含んだファンタジー、もしくはホラー寄りの作品を撮る人だと思っていた。
なので、この作品のように実際の事件をモチーフにしたサスペンスを真っ直ぐ撮ったことはとても意外に感じた。
社会的メッセージという意味では過去作よりも強烈になっているようには思えるが。
スパイダーキラーであるサイードの視点と、事件を追う女性記者の視点の2つで進み、その双方で信仰による「ズレ」を描きサスペンスフルで面白かった。
個人的に「ボーダー 二つの世界」はあまり刺さらなかったので、アリ・アッバシ監督作の中では一番良かった。
さて内容について。
まずはやはりスパイダーキラーを擁護する人々がいるという事実に誰しもがおののくことだろう。
主に宗教的な理由によってスパイダーキラーの行いが正当化されることは実に恐ろしい。
信仰に対してあまり熱心ではない(実はそうでもないが今は置いておく)日本人から見ると狂ってると感じてもおかしくない。
さすがにスパイダーキラーを擁護する気にはならないが、殺人が許される状況というのは実際にはある。分かりやすいのが戦争だ。それ以外にも状況によっては許される場合がある。
そんな特別な状況に信仰によって陥っていると考えれば、スパイダーキラーを称賛する彼らはクレイジーではないのかもしれない。
本当の問題は、娼婦に身をやつさなければならない人がいるという事実だ。彼女たちだってやりたくてやっているわけではないだろう。生きるためにやむなくそうしているのだから。
サイードが逮捕された終盤、サイードの息子は町の人々から「お前の親父はスゴイ」と言われる。彼はとても誇らしかったようだ。
父親を尊敬するような眼差しは常にもっていたように見えたが。事件によって更に尊敬を越え崇拝に変わってしまったように見える。
サイードの息子が第二のスパイダーキラーになってしまうような危うさが恐ろしい。
そして、最も注目すべきと思うところは、サイードが極刑に処されたことで、サイードの妻が生きるために娼婦になってしまう可能性だ。
妻だけではなく、もしサイードの息子が第二のスパイダーキラーになってしまい家に男手がなくなるとまだ幼い娘でさえ娼婦になってしまうかもしれない皮肉。
信仰を否定するつもりはないが、時代に合わせたアップデートは必要だと感じずにはいられない。
映画としては楽しめた
だが娼婦はダメで娼婦を浄化(殺す)ことは良しとする、と思ってる感覚や子供に殺したやり方を教えたり家で殺人を犯したりするところ等は理解できません。
「神が守ってくれる」とか、都合良過ぎでしょ。
司法もあまり良くないが、死刑判決が出たらすぐ執行するのは日本もそうであれと強く思った。
映画を見て知ったこと
裁き
一番驚いたのは、犯人もだが、
犯人の妻と息子の言動。
16.,7人殺した殺人犯であるのに、
妻は息子に
「お父さんは無実よ、何もしていないわ。町のゴミを掃除しただけよ。」と言う。
娼婦だとゴミという認識。
宗教の違いが影響するのだろうか。
娼婦なら殺害されてもいい、寧ろ、殺害してくれて感謝する人々がいるという国情。
娼婦という性を売る仕事の捉え方の違い?
娼婦も好き好んでの仕事ではなく。
さらには、
妻や息子が殺人犯である父親を毛嫌いすることなど毛頭なく誇りに思うところもチラホラ見え無実を訴える姿。
本人が、全ての殺人を認めているにもかかわらずである。
娼婦以外の殺人にならどう感じたのだろう。
多分殺人犯本人は、世間の思いとは裏腹に、ただただ娼婦を殺すことに快楽を覚えていたに過ぎないと、観て感じた。
この国の司法制度にも驚くばかりである。
アレは、油断させてジタバタさせない為か?
友人と検事が来て逃がす算段を打ち明ける。
これが罷り通るなら未来は無い。
ドキドキして処刑の場面を見守ったが、
処刑場面を見ることができる自分は非人間的にも感じてしまったが。
(我が国の数年前のオウムの時など一人を除いては、国が殺した、とジョックを感じたのに勝手なものだ。本作のは娼婦ではないが安心した)
無事、そう、この言葉が入る。
こんな人間、外に出たらエラい事になってしまう。
一応ちゃんと裁いてくれた。
ジャーナリストの勇気に感服。でも、二度としない方が良い、と思った。囮捜査は危険。
娼婦の扱い
2000年代初頭、イランの聖地マシュマドで、娼婦ばかりを狙った連続殺人事件が発生。蜘蛛殺しと呼ばれる犯人は「街を浄化する」すると声明を雑誌に送りつけ、住民は不安になる。妻子持ちのザイードは、家族に犯行を知られないようにするも、自らの行いに使命感を持っていた。女性ジャーナリストのラミヒが、警察をあてにせず事件を追う。
実際の事件をもとにした作品。娼婦ばかりを狙ったシリアルキラーは、いままで何人も実在して、そのおぞましい精神が注目されます。今作で目を引くのは、それよりも周囲の反応でした。街を浄化するするという犯人を英雄視し、息子は胸をはる。娼婦に対するあまりの扱いに、驚きました。イランの裁判や刑罰も興味深いです。
後味の悪さが残る
連続殺人事件の犯人を追う過程の中で、イランという国が抱える女性の差別問題について考えさせられた。同じ女性として、なかなか辛いものがある。宗教と国家が絡み合うことによって余計に複雑になり解決できない問題になってるんやろうな。女性の命がこうも軽いとは…
普通の家庭がありながら、浄化という名のもと自分の殺人を正当化しようとする犯人にもゾッとするが、一番最後の子どもの感想で絶望的な気持ちになる。まさに負の連鎖。誰か教えてあげる人がいないとあの子は犯罪者になるやろうな。
犯罪が無実化する寸前
メインの内容はよくありそうな殺人話しだったが、驚いたのがその殺人が許されそうだった事。家族は何もわかった上で無罪とか、息子は後を引き継ぐか迷ってるって。
頭がおかしいが、国や宗教の違いなのか、常識の違いにビックリ。国民皆んながそうではないが。
結局助けてやるって話は何だったのか?
死刑されて良かった。
実はおもしろい。
凄惨で恐ろしい映画
良かったのだけど、おっさん結局ただの変態なんじゃ、という描写が要ら...
みごと
人ごろしを英雄視する世界
主人公の女性記者こそ架空だがイランのマシュハドで16人の売春婦が殺害された実話にもとづいている。
映画の撮影中当局からの妨害に遭ったほか主演のザル・アミール・エブラヒミがカンヌで女優賞をとるとイラン文化省からフランス政府に「侮辱的で政治的動機に基づく行動」との抗議声明が発表されたという。のちにエブラヒミは何百という脅迫を受けたとCNNに語っている。
ザル・アミール・エブラヒミはもともと2000年代にもっとも人気を博したイランのテレビドラマのヒロインだったが、セックステープが出回って謹慎を余儀なくされたばかりでなく、誹謗中傷の標的になりイランからフランスに亡命したという来歴がある。──そうだ。
イスラムの男社会に蹂躙され放逐された彼女のキャリアは気骨ある女性記者を演じるのに適任で、冷たく射るような眼窩から屈強な信念を感じ取ることができる。
映画は一種のクライムサスペンスで殺害シーンなどリアルに描いているがその怖さよりも16人もの女性をしめコロした男を“聖地を浄化した英雄”と崇めるイスラム社会のほうがずっと怖い。
おりしもテロ組織ハマスの奇襲攻撃(2023/10/07)があり、ニュースは第5次中東戦争が勃発したと叫んでいるせいもあって、余計にこの映画の背景にあるイスラム世界にストレスをおぼえた。
(無知な素人の雑感に過ぎないが)宗教がらみの国家はまともじゃない。ヒジャブの問題にしろかれらは弱者を迫害するのがどう見ても好きな連中だ。
監督のアリアッバシは(ネットで拾い読みしたインタビューの中で)「彼らはセクシュアリティに取りつかれている」と言い、イランという国は当局が「女性を辱めることにある種の快感を得ている」と指摘していた。同感だった。
(真偽は不明だが)Tiktokにハマスらがイスラエル南部でおこなわれていた音楽祭を襲撃し裸にむいた民間人女性をトラックの荷台にのせて「アラーは偉大だ」と叫んでパレードする様子があがっていた。女性はたんにふせているのかシんでいるのかはわからない。親近者がかのじょの足にほどこされたタトゥーから識別・確認したそうだ。
宗教や思想下では善悪が形骸化するものだ──と考えてみても、わたしたちの日常とあまりにもかけ離れた残虐な世界線を受け容れることができない。なぜそんなことをするのか。なぜそんなことができるのか。
この映画が怖いのもわたしたちの世界との違い──あまりにもかけ離れていること──によっている。解りやすく言うと(解りやすくなるか不明だが)マシュハドの夜街頭に立たなければならなかった女性と大久保公園の立ちんぼの違い──のような。
だいたいわたしたちの世界線では勘違いした新聞記者が反体制映画を書いたとしても“当局”から叱られるなんてことはない。
名誉殺人
一族の女性が婚前交渉や不倫をしたり、あるいはレイプなどされるとそれを一族の名誉を汚したとして残虐な方法で殺してしまうという風習がイスラム教圏の国を中心として今でも行われているという。
男は女性に貞淑を求める傾向にある。そのような男の歪んだ願望が高じて自由恋愛などをする女性を否定し、宗教的教えを曲解して結び付けた結果、風習として長きにわたり地域社会で行われてきたのだろう。
本作の娼婦連続殺人もそんな名誉殺人と同じ延長線上にあったものと思われる。なぜなら犯人に対して多くの大衆は共感して賛辞を贈っていたからだ。性に奔放でふしだらな娼婦は殺してもいいんだというように。
人類史上女性は肉体的に男性に劣るという考えから女性に対する差別は古代からあった。それが特に西洋では宗教がはからずも後押しして女性差別が長きにわたり社会に根付いてしまった。
例えばイスラム教には家計は男が支えるものという教えがある。これは単に男女の役割分担を定めたものだが、この教えは家父長制と親和性が高く、女性差別を正当化する口実になってしまった。
女は男に従い、家に収まっていればいい。男の言う通りおとなしくしていろと。このような考えが根付いてしまったがために、女性の生き方や性格まで自分たちの都合のいいように押しつけてそれに反するなら殺してもいいという発想が生まれる契機になってしまったんだろう。
このように差別されてきた女性たちは男性のように自由に職には就けず、貧困の中、身を売るしかほかに方法がなくなる。つらい仕事ゆえドラッグなども手放せない。そんな状況下に女性を追い込んでおきながら、薬まみれの汚らわしい娼婦だと蔑む男たち。
連続殺人についても警察は野放し状態で本気で捜査する気もない。娼婦がいなくなれば町が浄化されて結構なことだと言わんばかりだ。
本来なら女性の地位を向上させて売春せずとも生きられる社会を作ることこそが浄化といえるだろうに。真に浄化すべきはこんな男社会だ。
宗教によって後押しされて長きにわたり社会に根付いてしまった女性差別。犯人は処刑されるもその息子が後を引き継ぐかのようなラストで終わるさまを観て差別の根深さを感じさせられた。
ちなみに夫婦選択的別姓に反対してる人たちは日本の古き伝統たる家父長制を守るべきだと主張してるけど、日本においては江戸時代まで家制度自体はあったが、家父長制のように父権が強いわけではなかったし、夫婦も別姓が当たり前だった。それを明治政府が日本を西洋化するために家父長制を取り入れて夫婦同姓を法制化しただけのことなんだけど。
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