WANDA ワンダのレビュー・感想・評価
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1970 Indie Treasure
Barbara Loden directs and stars in this Bonnie & Clyde-esque road movie that echoes some of the crossroads energy from Badlands, The Brown Bunny, or a Takeshi Kitano movie. Perhaps it wasn't intentional at the time but it certainly stands out today as a feminist masterpiece. I'm curious why they decided to release this film in Japan 52 years after the fact, but it sure is a classic you can't miss.
潜在的タブーテーマの衝撃作
一昨年位に公開された時に気になってはいたが見逃して、やっとAmazonで配信されていたので早速鑑賞しましたが、劇場で見れなかったことに凄く後悔しました。
失敗したなぁ~、予想を超えた傑作であり問題作でした。
1970年ベネチア国際映画祭最優秀外国映画賞を受賞したバーバラ・ローデン監督・脚本・主演のロードムービーで、当時アメリカ本国ではほぼ黙殺された作品だそうです。
1970年といえばアメリカンニューシネマのムーブメントの真っ只中であり、本作もその様な作品なのかと予想していたのですが、全く違っていましたね。
私自身アメリカンニューシネマの影響を受けて育てられたので余計に分かるのですが、テーマの核になるモノが全く違っていました。
所謂今に残るアメリカンニューシネマの傑作作品群は、当時の社会性というか時代性から生み出された作品ですが、本作は(ルック的には似通っていますが)時代性よりも、人間の普遍性を描いた内容になっていました。だからこそ半世紀以上経った今になって発掘されたのだと思います。本作の持つテーマは今でも(いや、今の方が)切実に感じられる問題だからです。
見終わって感じたことなのですが「本作の様な問題を扱った映画って、あまり見かけないよなぁ~」って事ですかね。
上記した様にアメリカンニューシネマなどの作品でもその時代の社会の問題を扱っていますし、昔から映画というモノは差別や暴力や犯罪や戦争などの社会問題は扱っても個人の能力的な優劣を問題にした作品は殆ど無い。ひょっとしたら、業界内でタブー視されているのかも知れませんが…、しかし現実社会では何よりもこの問題が、この社会で生きる人々にとっては一番大きな問題になって来る。
だからこそどんなに優れた作品を鑑賞しても、映画は何処か夢物語であったり、現実社会との乖離を感じざるを得ない。
当時の社会批判真っ只中のアメリカで何故黙殺されたのか?の原因を考えると、本作が余りにも普遍的人間性の真実を突いているので観客にも敬遠されたような気がします。
もう少し具体的に考察すると、最近You tubeでインフルエンサーのホリエモンがよく口にする表現ですが「境界知能」を扱った作品だと思えます。
大雑把に説明すると、知能指数分布を五つに分割して下から①“知能障害:5%”②“下位境界知能:15%”③“平均:60%”④“上位境界知能:15%”➄“天才:5%”(あくまでも目安の数値)に人間の知能的な優劣が存在していて、①と③~➄は映画の素材としても取り上げられますが、②については殆ど取り上げられません。
“社会不適合者”という言葉はよく使われ、①~➄まで全ての分布の人間にそのような要素はあるのですが、特に①と②は社会生活をする上で確実に社会的なヘルプが必要になるのです。それが、①の場合の支援は誰にでも理解できるのですが、②位の場合が国や社会や状況によって理解されない場合が多く(②と③の区別が表面上分らない為)、社会も一般人も見えないフリをしたがる(虐げる)存在になりやすく、社会自体がその存在から自ら目隠しをしたがる、かなり深刻な社会問題だと個人的には思っています。
本作の主人公が完全に②に位置するキャラクターなのは確実なのですが、この様な人達にスポットを当てた作品など今まで殆ど見たことが無かったし、社会そのものが見えないフリをしている存在自体をテーマしている作品という事で、個人的には非常に衝撃的な作品となりました。
追記.
少し前に見た『冬の旅』も非常に衝撃的な作品でしたが、本作とは対極の作品であった様に本作を見て思えました。
あちらの主人公は④の「境界知能」を持った“社会不適合者”が主人公の物語であり、どちらにしろ見ないフリをするだけでない、社会に適合できない人間に対する認識を一般人ももっと持つべきなんだと、両作を見ながら思いましたね。
フランス映画の『仁義』をリスペクトしているんじゃない!?
映画の冒頭、石炭を積み込む雑音と子供の鳴き声。
つまり、雑音に悩まされる。聴覚の衰えた僕でも五月蠅く感じた。その他にラジコンの音とか。
さて、だから何?
離婚した当日に浮気(?逢瀬を)をして、誰も居ないスペイン語の映画館に一人で入り、誰も居ないのになぜかスリにあって、たまたま、飛び込んだ酒場に強盗がいて、その男とも一夜をともにするが、そいつがパワハラ野郎で、無理やり買い物に行かされて、行かされた店がたまたま休みで、買ってきたハンバーガーに『玉ねぎが入っている』と殴られて、安易に車が盗めて、1日しか経っていないのに、新聞に犯行の詳しい状況まで載せられ、挙げ句の果てに銀行強盗?
そんなの数学的に考えてもありえない確率。
男社会に翻弄されるか弱き女性?ではないですね。
まぁ、製作者が女性の名前で作った映画だ。25歳年の離れた女性の名前を使って作ったキャッチーな作品でしょ。若しくは、駄作ただと製作者が思ったので、女性の名前を使ったって事さ。
具体的に駄目だなぁって思った所。
主人公の女性の人物設定だね。おしゃべりになったり、無口になったり
それは共演の男も同じ。
監督の女性は綺麗な映画が嫌いだそうだが、充分に汚いし、五月蝿いし、矛盾だらけで寝覚めの悪いボケた感じがする。そうさ!
素人ぽく撮った映画てある事は直ぐに分かる。
さて、どっちの監督作品なのだろう?どうでも良いが。
二度とお目にかかれない1001本の映画だね。
『ボニー&クライド』と言うよりも
フランス映画の『ジンギ』をリスペクトしているんじゃない!?
ひょえー!問題作〜!
社会の暗部、発展から取り残された人々、搾取する強者たちに立ち向かう術のない悲しき庶民。とでも感動すればよかった?ワンダはさ、境界知能ってやつだよね。どう考えてもやらないほうがいいこと、どう考えてもついていかないほうがいい人にじゃんじゃん絡んでいってしまう。というくらいダメな人。これは何だろうなー後世に残すべき映画なのかい?私は別に見なくても一ミリも悔しくなかった映画だぞ。でもなんか素晴らしいでしょ空気がプンプンするので、なんとなく星2つつけてみました。
バーバラ・ローデン監督&主演の佳作
下高井戸シネマにて鑑賞。
1970年作品であり、「死ぬまでに観たい映画1001本」にも選ばれている作品なのだが、今年(2022年)ようやく日本初公開されたバーバラ・ローデン監督作品🎥
ようやく観た!
序盤は「何か起こるのか?」と思わせるほど、淡々とした描き方の映画で、どこかに泊まらせてもらった女性が延々と炭鉱現場を歩いていくが、これをロングショット長回しで撮っているものだから「あの女性がどこかに行くのか?」と思う。
その後も、ビールをご馳走してくれたオヤジとベッドを共にするが、さっさと逃げるオヤジ。
しかし、その女性ワンダ(バーバラ・ローデン)に悲壮感などは無い。
更に、家庭を捨てて夫と離婚して子供を失い、仕事も貰えず、映画館で映画を観るワンダ。
このシーンが、[【映画館で映画を観るシーン】を映画館のスクリーンで観ている私たち]という実に不思議な空間に感じるアングルで撮られていて、見事な映像体験だと感じた。
そんなワンダは、映画館で眠ってしまった時に、有り金を盗まれてしまう。
そして、バーで出会った男(マイケル・ヒギンズ)と犯罪の共犯者に巻き込まれるワンダだが、最初は抵抗するものの、すんなりと犯罪に加担するようになるのだが……といったクライム映画となっていく。
この作品を撮ったバーバラ・ローデン監督は、エリア・カザン監督の妻だったが、本作1本を撮ったあと、ガンのため死去されたとのことで、彼女が遺した唯一の映画となってしまったのは惜しい。
今回の上映では、冒頭に「本作は2010年にリストア&修復した映画であるが、本作が生み出された当時の低予算映画の雰囲気を残すようにリストアしたもの」とのことで、本当に「これって本当にリストア版?」と思わせる画質の粗さを見せる。
ただ、これが本作の良さであろう……というのは、観終わった時に思うこと。
また、本作は2022年日本初公開の外国映画なので、キネマ旬報ベストテン応募用の[投票可能作品]となっており、こうした映画が製作から52年の時を経て[キネ旬ベストテン選出]されたら奇跡的であろう。
アメリカンニューシネマ(『俺たちに明日はない』など)に近い内容ではあるものの、それらとは一線を画したインデペンド系映画の佳作。
ワンダはハードボイルド
さまざまな制約の中で、強かに、
真っ直ぐに、そしてしとやかに生きる
ワンダの姿は、同情を誘う種類のもの
ではなく、血気盛んで、傍若無人な
出演する男性以上にハードボイルドさを
感じさせ全編を通して魅力的だった。
あわよくば続編か?と思わせるほどの
尺の長いラストシーンに、オトナの
スケベ根性を垣間見たのは私だけ?
【”底辺に流されて行く私の人生・・。”WANDAを演じたバーバラ・ローデンが、WANDAと被って見えた作品。WANDAの俯く瞬間を切り取ったフリーズフレームのラストショットは、忘れ難い作品である。】
ー 資料にも記載されているが、バーバラ・ローデンは、今作で主演、脚本、監督を担当し、1970年、ベネチア国際映画祭で外国映画賞を受賞するも、米国映画界では評価されず、今作から10年後、一作も映画を制作する事無く、僅か48歳で癌で世を去っている。
今作を観ていて、どんどん底辺に流されて行くWANDAの人生がバーバラ・ローデンの人生に被って見えてしまった作品である。-
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・冒頭から、WANDAは人生に諦観したような態度をとる。夫から離婚を申し出されても、表情を変えずに了承し、子供はどうするという問いにも、”夫の再婚相手に育てて貰った方が良い”と淡々と話す。
・彼女は当てもなく、彷徨い町のバーで、強盗をしていたデニスと出会い、流されるように彼と行動を共にし、ついには銀行強盗に加担する。
ー デニスの言いなりになって、食料を買いに行ったりするWANDA。何処か切なさを漂わせた表情を屡浮かべながら・・。
<取分け、デニスが銀行強盗に入るも、自分が途中で交通違反で警察に捕まり助力できないシーンでの彼女の泣き出しそうな、哀切な表情は印象的だ。
更に、全然楽しそうでない知り合いとの飲み会でのWANDAの哀切な表情と、俯く瞬間を切り取ったフリーズフレームのラストショットは、忘れ難い作品である。>
<2022年9月11日 刈谷日劇にて鑑賞>
あんまり…
鑑賞後、あまりにも鬱々としてしまって
いい映画だった、とは思えなかった
無抵抗であるワンダに自分を重ねて
まるで自分まで暴力を受け搾取されるような
そんな感覚に陥ってしまい
映画だから非現実に行きたかった
のかもしれない
抜け出せないなんて辛すぎた
当時の女性たちには響いたのだろうか
まさに忘れ去られていた伝説の「天才」発見!
こ、こ、これは… もの凄い才能…
まるで殆どドキュメンタリー。
実際、50年代に本当にあった銀行強盗の話をベースにしているのだが…
なんでこんなリアルに撮れるのか…
ローデンは勿論のこと、出てくる役者みんな、なんであんなにリアルで上手いのか…
エリア・カザンも協力していたので、ほぼ全員無名のアクターズ・スタジオ出身者かと思っていたが、Mr.デニスを演じたマイケル・ヒギンズ以外は皆地元の素人だったようで…
裁判所での夫の振る舞いなんか完璧なメソッド演技にしか見えない…
たぶん演技指導の方もカザンの助けがあったのかもしれないが…
(ゴッドファーザーに出てたリー・ストラスバーグなんかより、ずっと上手いぞ!)
脇役も皆んな完璧(エキストラも含めて)
もう本当に奇跡のようだ。
これだけの作品、そりゃ当時、ベネツィアで賞も獲るよ。
脚本も素晴らしいが、とにかくフレーミングも天才的。
なので、画面だけで、ずっと惹きつけられる。
ラストの粗い絵画のような暗く孤独なフリーズショットも本当に残酷なまでに美しい。
今まで観た16mmの中では最も印象的なラストショットだった。
ちなみにローデンご本人、曰く「綺麗な映画が大嫌い」だったらしい。
綺麗に洗練されれば、される程(音楽や編集も全て)綺麗なだけの内容となり、登場人物までもが上辺だけになってしまう…とのこと。
実際この映画は、類型化された洗練さとは全く無縁なのだが、あまりに誠実で、独自の表現としては見事なまでに洗練されている。
まさにアートそのもの。
90年代のケリー・ライカート『リバー・オブ・グラス』は、間違いなく本作へのオマージュに違いない。
上手く生きられない我々のために在る作品
離婚し、子供を失い、職を得られず、僅かな持ち金をすられ、体を許した男には逃げられ、あげくは犯罪者との道行。
居場所を消し込みながら堕ちていく。
体の価値まで曖昧になってしまう。
ジョン・カサヴェテスの諸作、「バッファロー'66」、そして昨年出会ったケリー・ライカートの作品を思った。
当時、エリア・カザン監督の奥方だったバーバラ・ローデンの監督・脚本・主演作。てか、唯一の監督作がこの傑作とは、、、
自分はこんな作品に出会うために映画を見続けているのだと思う。映画が上手く生きられない我々のために在って欲しいといつも思う。
1970年
ダルデンヌ兄弟、ワン・ビン監督の作品をみているようなドキュメンタリーと映画の垣根を感じさせない映画つくり、同時代のアメリカンニューシネマを意識しながらもそうならない自由さ、1970年にこの映画が生まれていたことに驚いた!女性の手によってこの作品が作られていたことが素晴らしい!!!
どこにも行けない、ワンダの旅
最後のシーン、途方に暮れたワンダが、楽しそうなパーティーに混ぜてもらう。その同じ空間にいる一員のはずなのに、とても孤独に見える。人間が最も孤独を感じる時は、たいてい、大勢のなかにいて、自分だけがその誰とも違う、と感じる時だ、とおもう。そんなとき、周りの人はみんないい人で、意地悪なんかしたりしない、だけど、あの、どうしようもない疎外感、わたしの居場所はここではない、でも、どこかにはあるのだろうか、どこにもないかもしれない、というはてしのなさ。だけれど、そのうちどうでもよくなって、考えることもやめてしまう、ワンダの目の前の酒とタバコのようなものだけが、じぶんの全てみたいに見えたりもする、
ワンダの感情とは真逆に楽しい音楽が流れ続ける、ワンダだけが、ストップモーションで止まってしまって、音楽は流れ続ける。ワンダは世界に置いていかれる、
ワンダは、なにも成してこなかった人生で、はじめてなにかを成し遂げる(それが犯罪だったのだけれど、)。嘔吐を繰り返していて、自身が変化することに拒否反応があることがわかる。普段は感情なんてほとんど表出しないのに、「できない、できない!」と激しく抵抗する。それでも、自分と似ている男のために、はじめてやり遂げる。それによって、男も死んでしまうのだけれど。そうすると、いままで、男たちに簡単に身体を預けてきたのに、激しく拒否することができるようになる。
それでも、最後はもう、何かを成すことも何かを拒否することも、ワンダにとって何の意味も持たないみたいだ、もうワンダには、目の前の酒を飲むこととタバコを吸うこと、しか残されていない、ワンダがこれからどうするのか、わたしには皆目検討がつかない。それでも、ワンダは死んだりはしないような気がしている、
映画館をでて、渋谷の街を歩いていると、この街から疎外されているような気がした、わたしとはぜんぜん生き方も空気感も違う人々の中に、ひとりだった。ゴミが散らばっていて汚かった、水溜りのなかでぐちゃぐちゃになったタバコの吸い殻をみて、またワンダを思い出した、
ボニー&クライド?
うーん…(苦笑)
ビミョー(笑)
今頃わざわざ公開するからには名作だろうと期待してたんだけど…
最後まで観て、
で?って感じです。
当然、小物ひとつひとつ当時のモノですから、車や自販機、看板、ハンバーガーまでも、当時のモノが拝め、
アメリカ文化が大好きな僕は、それだけでも楽しいのです。
でも話は…って感じですね(笑)
趣旨は類推しやすいけど、字幕が不親切…(補足入れてます)。
今年225本目(合計501本目/今月(2022年8月度)1本目)。
大阪市では3週間遅れという状況で公開です。
多くの方が触れられているように、また作内では一切言及はありませんが、おそらく、いわゆる軽度知的障害などがテーマにあるのではないか…と思えます(発言がオウム返しになっていたり、(日本でいう)中学英語しか用いていないなど)。
作内での時代背景からして今日(2021~2022)のように理解が進んでいる社会ではないので(どこの国でも)、(日本でいう)重度に相当する方は別として、軽度に該当しうる方はこの作品のようにひっそりと、そして奇想天外な発言をすることで(ただ、不愉快にさせる発言はない)暮らしていたのだろう、ということがわかります。
この関係で、テーマをそちらに大半よせた関係で、この年代のころからアメリカで盛んになったフェミニスト思想に関する描写も一切ありません。時代背景としては当然ありますが、それを扱う映画ではないので…。
ただこの作品、最初に「フィルムを修復したものです」など表示されることからして、いわゆるリマスター版なのかな?と思わせる一方で実はそうではない(日本では2022年公開)というのがポイントで、その観点では字幕の不足がすごく、理解するのが結構難しいところがあります。
こうした点は補足を入れました。
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(減点0.3) この作品それ自体は「おそらく」軽度知的障害などをかかえた当事者の当時の生き方を論じた映画だと解釈することができます。もちろんそれ以外の見方も可能ですが、映画のストーリーの展開的にその関係で「することやること」支離滅裂な部分があり(ただ、明らかにムチャクチャではない)、おそらくその筋ではなかろうか…と思えます。
ただ、その一方で2022年公開ということを考えても、字幕は原則主人公など登場人物に着目したセリフの字幕「しかなく」、映画内では実にいろいろなそれ以外の表記(特に、物語6割ほどで登場する、地下墓地の話)が何もなく、ここがとにかく激ムズな状況で「何をいっているのかわからない」「何がいいたいのかわからない」状況が発生する類型はおそらく存在しそうに思えます(趣旨的に、TOEICよりも英検寄りな知識を要求される)。
その意味で「なぜかしら」英語力勝負(特に文法)という不親切な部分があり、その解釈もかなりの前提知識を要求される割に補助字幕も何もないので、見る方によっては???になるのではなかろうか…と思えます。
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▼ Our friends, who art ... って何?
・ 物語6割くらいのところで墓地にいく話が出ますが、墓地というのは古典表現が普通にみられる場所で、また(当時も今も)ラテン語なども見られます(映画内ではフランス語まで出てくるが、字幕は一切ない…)。これは墓地という場所と宗教との融合によるものです。
ただ、この Our friends, who art... はかなり不親切…というか、わかる方はいないのでは…というところです。
このカンマつきのwhoの用法は、非制限用法の関係代名詞であることなどはもう前提知識です(そして高校英語では、仮定法とならんで苦手にする方が多い関係代名詞…)。
ところが art って何?というのがハマリが発生しやすいです。art には「アート作品をつくる」という意味があり、ここは主格の関係代名詞なので、Our friends に呼応して三単現の-sもついていないその art (動詞用法)かな?と一瞬思えますが、それではほかの文章とつじつまがあわなくなります。
実はシェークスピアの時代のころの中世英語のころは、be動詞などは今の活用と若干違っていた部分があり、これらは聖書や特に古典などでは古典用法を重んじてそのまま用いることがあります。英語では、be動詞の活用のひとつ are は、こうした聖書など特定の文脈では art に活用することがあります。つまり、 art = are という関係になります(逆の方向、つまり、are を art に書き換えることは(聖書など、特異な文章を作るのでない限り)しないのが普通。
ただこうした用法は、(日本でも)聖書など、カトリックなりプロテスタントの方なりが聖書を「原書で読む」場合にはじめて出てくるようなレベルで、これをいきなり求められるのは正直つらいです(英検でもこんなの扱わないし、ロイヤル英文法など百科事典クラスの英文法書にしか載っていないです)。
これに字幕がないので「何がなんだかわからない」のがこの墓地の部分で、ここで理解が力尽きる方が続出するのではなかろうか…という部分です(ほか、文字数関係で省きますが、この墓地シーンの英語の字幕のなさがすごくて、理解しようと思うと英文法に精通していないとどうにも無理な状況になる)。
しかし、2022年のレベルでなぜここまで「日本の英語学習に配慮しない」謎の字幕になったのかは正直謎です…。誰でもかれでも英文学科卒とでも仮定したいのでしょうか…。
生きることがただただ下手くそな女性が受け身に過ごす無味乾燥な現実... 無気力・無関心・無感動な根岸季衣さんと無謀・無計画・無思慮な大竹まことさんとの行きずりの旅路をご照覧あれ!!
出演した映画はさほど多くないもののブロードウェイの舞台でも活躍し、エリア=カザン監督の奥方としても知られる女優さんのバーバラ=ローデンが監督・脚本・主演した野心作です。
本作の主人公であるワンダは、一応は美人ではあるものの常に眉間に皺が寄っていて自然と不幸を招き寄せ、若くは無いものの(当時演じるバーバラは30代後半)言動に幼さが目立ち、何事に於いても意志薄弱で意欲の無さゆえに他人に邪険にされたり体良く利用されてしまいます。幸せになろうという意欲が空回りする破滅型の女性とは丁度コントラストを為すような、不幸を回避するだけのバイタリティーの無い女性です。
ラストで見せていた彼女の涙が芽生えた彼女の自意識であり、能動的な生きる意志だと信じたいところですが、それすらもそうとでも考えないとやり切れない傍観者ゆえのお仕着せに過ぎないかもしれず、当初の観客のモヤモヤをモヤモヤのままに、物語的な主人公の成長を描かないままに、純文学的な味わいを残してエンドロールが淡々と流れていきます。
ヒロインの作中常に不安と焦燥が入り混じったような表情とエラの張った特徴的なフェイスラインが個人的に根岸季衣さんに見えてしょうがなかったわけで。
そして行きずりの相手の銀行強盗がオールバックに口ひげにサングラス、ぶっきらぼうな口調からして個人的に大竹まことさんに見えてしょうがなかったわけで...。
ニューシネマだった
アメリカンニューシネマな時代に、
ほんとは結構アメリカンニューシネマもエグく男性優位的であったのだなと不覚に、改めて思ってしまった、ワンダという秀作。
この時代に作られた映画の、不条理に不幸な哀しき人達。今の事態なら適応障害とかなんとかなんかもしれない人達。いずれの時代にも病名や診断があろうとなかろうと概ね不幸のままだろうと思う。そんな世の中。しょぼい犯罪でなんとかその日暮らしをしている男、ワンダが感情移入してしまうくらい、ダメな男。アメリカ人の信仰、男の父親、それでも親子の絆を互いに感じる、ワンダの離婚する夫もその愛人もまここでは少しまともに見えるけど適応できてないよね、、、
最後の、ワンダの取り乱し警察の生死を乗り越えようとする必死な姿。生きるということに、何らかの意味があると強く感じた。
素晴らしい作品。スクリーンで見る機会をいただき感謝。
60年代末頃の米国ペンシルベニア。 大型ダンプが行き交う炭鉱の外れ...
60年代末頃の米国ペンシルベニア。
大型ダンプが行き交う炭鉱の外れの粗末な小屋に大家族と暮らすワンダ(バーバラ・ローデン)。
夫との間に子どももあるが、家事は疎かで、夫からは離婚されることになった。
行く当てのないワンダは、ちょっとしたことで知り合った男と懇ろになるが、男にはすぐに棄てられ、寝る場所に困って入った映画館では、寝込んでいる間に有り金すべてを盗まれてしまう。
トイレを借りようとして閉店間際のバーに入るが、そこでまた怪しげな男(マイケル・ヒギンズ)と知り合う。
「叩き」に入った小悪党だということが後々わかるが、ちょっといい男だし、行く当ても金もなく、そのまま盗んだ車に同乗してついていくことにした・・・
といった物語で、16mmの低予算製作で、冒頭の炭鉱場の長廻しからワンダの暮らす小屋への繋ぎなどドキュメンタリー映画風で、なかなか良いところもあるが、中盤、男と知り合って、夜中に玉ねぎその他全部抜きのパテとバンズだけのハンバーガーを買いに行けと男に命じられるあたりから、ちょっとまだるっこしくて退屈します。
その後、男に同行したワンダ、男は父親とカタコンベ(地下墓地)で再会し、父親に金を渡そうとするが、金の出どころを察した父親は受け取りを拒否・・・という一幕を挟んで、終盤になだれ込む。
男が計画したのは、第三ナショナル銀行の支店の支店長を拉致し、彼に金庫を開けさせて大金を奪おうとするもの。
ひとりでは無理と思った男がワンダに片棒を担がせようとするあたりの口論のシーン(男「You can do it.」 ワンダ「I can't do it.」の繰り返し)は、ジョン・カサヴェテス映画のワンシーンのよう。
支店長を拉致した男の車の後を、ワンダが運転する車が尾けていくシーンは、ヒッチコック作品でもありそうなシチュエーションなのだが(間に別の車に割り込まれ、道を知らないワンダは先行車からはぐれてしまう)、エンタテインメント作品と違って、ハラハラという感じではない。
どちらかいえば、「ありゃりゃ、はぐれちゃったのね・・・」と呆れる感じに近い撮り方。
支店長を盾に行内で強盗行為に及ぶ男と、道に迷ってUターン禁止の場所でターンして警官に停められるワンダのクロスカットは、Uターンシーンを俯瞰で捉えていて面白い効果を発揮しています。
続く、男の強盗失敗、銀行へ走って駆け付けるワンダのクロスカットもうまく撮れています。
その後、バーのテレビで男の死を見、知り合った警官と町はずれまで同乗。
警官に襲われ、逃げ出すワンダ・・・
というところで終わる手もあったかもしれませんが、あまりにも映画映画していると感じたのか、もうひとつ日常描写を描いて映画は終わります。
70年製作なので、米国ではアメリカンニューシネマの時代で、主人公が最後に死んだりする映画も増えて来ており、それすらも「映画の虚構」というのがバーバラ・ローデンの思いだったのかもしれません。
リアルを追求した結果として、映画としてはまだるっこしい部分も多々あり、感心しないところもあるのですが、後のカサヴェテス作品、初期のスコセッシ作品に通じるところがあり、シン・アメリカンニューシネマといった位置づけの作品でしょう。
個人的には、ワンダという女性には共感できないなぁ。
若い女性観客も多かったのですが、若いひとの眼にはどのように映ったのかしらん。
『わたしは最悪。』の主人公よりも、「最悪」感が強かったです。
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