「圧倒的な映像美と中世的呪物の誘惑。チェコスロヴァキアが生んだ「中世の闇」映画の金字塔!」マルケータ・ラザロヴァー じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
圧倒的な映像美と中世的呪物の誘惑。チェコスロヴァキアが生んだ「中世の闇」映画の金字塔!
イメージフォーラムで、春ごろに予告編が流れたときから、直観的に、これは必ず観に来ないといけない映画だ、というのがあった。
とにかく、ヴィジュアル・イメージが鮮烈だ。
断片的なショットからも、監督が絵づくりに命をかけているのがひしひしと伝わってくる。
そして、身体じゅうにまとわりついてくるような、立ち込める「中世」の気配。
こりゃ、すごい映画がかかるぞ、と。
僕は、もともと「中世の闇」を扱った映画に目がない。
もちろん、『薔薇の名前』や『裁かるるジャンヌ』のように、実際に中世を扱った映画のなかにも傑作は数多くあるが、それは、必ずしも歴史上の中世が舞台の映画である必要はない。
具体例をあげれば、『神々のたそがれ』(2013、アレクセイ・ゲルマン監督)なんかは、まさにまごうことなき「中世の闇」映画の大傑作だ(僕のなかでは2000年代に撮られた映画のなかではダントツのベスト1)。
それから最近観たのだと、『異端の鳥』(2019、ヴァーツラフ・マルホウル監督)あたりも、ホロコースト映画の皮をかぶった「中世の闇」映画に他ならなかった。
両作に共通するのは、全編に刻印された、ヒエロニムス・ボスやブリューゲルを思わせる、奇怪でグロテスクで悪夢的な、それでいて澄み切った美意識だ。SF映画もしくは戦争映画かと思って観に行ったら、そこにはホイジンガの描き出すような「中世のヨーロッパ」が描かれていたのだ。
動物、死骸、あばら家、糞尿、教会、奇顔の老人、売春婦、不具者、盲人、いざり車、猥雑な酒宴にロマ風の音楽、粗野な村人、終わることのない戦闘、死体のぶら下がる樹……すべてはボスの絵画にも登場する「中世」の呪物である。こういった「中世的世界観」の怪しさ、うろんさ、えげつなさ、美しさにのめり込んでゆく映画を、僕はとにかく偏愛してやまない。
また両作は、「地獄めぐり」の映画でもある。
主人公は意図せずして、あるときは傍観者として、またあるときは当事者として、中世的世界で展開される数々の暴力と悪行と不埒と不道徳――「七つの大罪」を目の当たりにし、それらの「地獄」を順にめぐることで、遂にはある種の「浄化」に至るという、ダンテの『神曲』を祖型とする西洋独特の物語構造である。中世を扱った映画は、往々にしてこの『神曲』的な地獄めぐりの構図を採ることが多い。
『異端の鳥』のヴァーツラフ・マルホウルはチェコの監督であり、本作『マルケータ・ラザロヴァー』のフランチシェク・ヴラーチル監督もまた、チェコスロヴァキアの監督である。
両者の映像美および主題の扱いの相似性を見れば、どう考えてもマルホウルは本作を観て自作の糧としているし、むしろ本作こそが『神々のたそがれ』や『異端の鳥』の「祖型」といっていいのではないか? そう考えて、とにかく期待に胸をふくらませていたというわけだ。
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で、『マルケータ・ラザロヴァー』を実際に観た。
予告で得た第一印象自体は、決して間違っていなかった。
この手の映画のファンにとっては堪えられない、ご褒美映画であることはたしかだ。
とにかく、全てのショットに監督独自の美意識とアイディアが、ぎっちりとこめられている。
一見して忘れがたい絵づくりの面白さ、深みのあるモノクロームの美しさは、他にたとえようもない。とくに、丘の上の修道院の遠景や内部のショット、マルケータを捉えるショット、随所に挿入される動物たちのショットなどは独創的だ。
そして、舞台、セット、衣裳、小道具、メイク、演技のすべてにおいて、徹底的な意識づけのもとに再現された、今そこにあるかのような「中世」。
あたかも映画館ごと、タイムスリップして中世に迷い込んだかのような、リアリティと血腥さが全編にみなぎっている。これは、掛け値なしにすばらしい。
物語は、錯綜してはいるが、結局のところ、二組の地方豪族ラザルとコズリークの抗争に、国王が派遣した官軍が絡んだ、血で血を洗う勢力争いを描いている。タイトルロールのマルケータは、鮮烈な印象を残しはするものの、両家の「仁義なき戦い」に巻き込まれて、数奇な運命をたどる従的なキャラクターで、どちらかというと話を回しているのは、つねにロハーチェックの領主であり八男九女の父親であるコズリークと、その息子ミコラーシュだといってよい。
領主といっても名ばかりで、実体は追いはぎを主たる収入源とする野蛮で好戦的な蛮族の頭領だ。
良い感じで薄汚く裏ぶれた奇怪な登場人物たちと、とても領主の居城とはいいがたい「蛮族の砦」のようすがあまりにプリミティブで、悪い夢にでも出てきそうだ。
いまだ火器が存在せず、飛び道具が弓矢と投げ槍しかなかった時代の、どこか牧歌的でごつっとした戦闘シーンも、じつに味わい深い。ちょっと瑞牆山の富士見平小屋付近を思わせるような傾斜地でおこなわれる砦攻めのチンタラした感じなんかも、本当にリアルだ。
妙齢の女性によって股から解体される家畜や、インセストを犯したアダムの凄惨な腕斬りシーン、積み重ねられた戦死者のむくろなど、グロテスクと苛烈な暴力が、中世の風俗とともに画面を彩ってゆく。
無垢なマルケータが、両家の諍いに巻き込まれてミコラーシュに誘拐された挙句、凌辱されるものの、当のミコラーシュに恋着するという流れも、理不尽でひどい話ではあるが、中世に生きた女性の従属的な在り方から目を逸らさず、敢えて是非を問うことなく真正面から描いていて好感が持てる。だからこそ、終盤になってマルケータが「修道会」に対して示す決然とした意志表明は観ていて大いにスカっとするし、ラストで下す彼女なりの決断にも深く共感できるわけだ。
同時に、本作はまさにマルケータが体験する「地獄めぐり」の構図を採り、上記で定義したダンテの『神曲』的な悪夢的体験を経ての「浄化」と「到達」の物語となっている。
ミコラーシュも、キャラクターとしては魅力的に描かれている。
父親にはさんざん愚弄され、交渉に行ったラザルのところでは袋叩きにされるなど、いろいろ苦労しながらも、ロハーチェックのためにいつも全力でことに当たっている。かどわかしたマルケータのことをそれなりに大切にしているのも好感度大だし、最後にあの理不尽な父親のためにあれだけのことをしてやろうとするのも、男として立派だ。
マルケータの父親が、帰ってきた娘のことを「穢れた存在」として拒絶する一方で、生き残ったコズリークは、最後に息を引き取ろうとするミコラーシュを見つめて「わが最愛の息子」と声をかける。ここの対比を描くための166分の長丁場だといってもいいかもしれない。
いかにも中世らしい、禍々しくも崇高な「呪物」の数々にも、胸がふるえる。
内向きに釘の生えた拷問用の靴(プチ鉄の処女!)。
丸焼きにされて黒焦げになった子羊や兎。
自らが食い散らかした子羊の頭を掲げ持つ、物乞い修道士の嘆き。
止まり木に何羽も揃えられた狩猟用の鷹とハヤブサ(この2鳥種をきちんと分けて認識している映画を観たのは初めてかも)。
群れ成す狼(ちょっと犬っころくさいが)が野原に点在する夢幻的光景。
走る鹿の群れをローアングルで捉えた幻想的ショット。
すべてが印象的だ。
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ただ、正直に言おう。
『神々のたそがれ』や『異端の鳥』ほどに、知的興奮と昏い昂揚感に揉みくちゃにされ、打ちのめされたかというと、残念ながら、この映画にそこまでの吸引力と麻薬性を自分は感じなかった。
何が気に食わないかというと、有り体に言って「語り口がわかりにくい」。
「難解だ」とか「一筋縄ではいかない」といったことではない。
この物語は実際のところ、そうストーリーが小難しいわけでもないし、そこまで形而上学的な隠喩に満ちているわけでもない。
純粋に技術上の問題として、全編に渡ってナラティヴの常識的な作法を無視して作られているので、「今何がおこっているか」が、客の頭にすっと入ってきづらいのだ。
今、誰が画面に映っているのか。それぞれのキャラはどういう関係性にあるのか。
彼らの取っている行動の目的とはなにか。どういうモチベーションで動いているのか。
それぞれの場所の位置関係はどうなっているのか。各イベントはどこで起きているのか。
このあたりを、言葉に頼らずとも、撮り方や、目線の動きや、キャラの描き分けや、ちょっとした情報の開示で、観客にもわかるように撮る、というのはたとえ文芸映画やアートムーヴィーであっても外してはいけない基本原則なのではないか。少なくとも僕はそう思っている。
ところが、本作の場合、それがびっくりするくらいなされていない。
それも、わざとわかりにくくしているというより、監督自身がわかりやすいかわかりにくいかすらよくわかっていないというか、「わかるように語る」ことに大して興味がないというか、語りの重要さについて、あまりに無頓着な感じがするのだ。
と、ここまで書いてから、そんなこと思ってるの俺だけかもと不安になってパンフを見てみた。
すると、まず監督が「私は映画作りで風景を何より重視する。私にとって芸術とは視覚芸術で、昔から映画の風景ばかりを見ていて字幕を読むのに苦労した」と述べているのが目に入る。「私の職業は映画を撮ることだが、映画作りは独学だ。私が映画監督になった経緯は他の監督とは違い、非常に変わっていると言えるだろう」とも。映画の情報管理も、すべて文字ではなく絵コンテでおこなってきたという。遠山純生氏の解説によれば、彼はもともと画家志望で、大学で美学美術史を専攻し、在学中に映画に転向したらしい。とはいえ映画狂というわけではなく、自国の映画であれ外国映画であれあまりよく知らないとのこと。で、敬愛する作家はブニュエル、ベルイマン、ブレッソン、云々かんぬん。
うーん、やっぱりこの監督さん、「視覚」的才能に全振りの人なのでは?
もちろん、解説の有識者諸氏は皆さん、本作の語り口について好意的だし宥和的だが、僕には、情報を筋道立てて開示する「技術」の部分で、単純に素人っぽいというか、訓練がなされていないようにしか思えないんだよなあ(ヴラーチル自身、自らを「アマチュア」監督と規定していたらしいけど、まさにそういうところなのでは? まあこれしか観てないのでもちろん断言はできないが)。
「視覚に全振り」というのは、語り口の拙さの印象だけで言っているのではない。
僕の個人的感覚で言えば、本作は音楽の使用についても、あきらかに過剰でバランスを逸している。
全編を通じてのべつまくなし、ズデニェク・リシュカの手になる、中世宗教曲を模したと思しきミスティックな合唱曲がかかりまくっているのだが(言語・内容は不明)、極限の静謐さと極限の野蛮さが交錯する画面自体の放つ強大なパワーを考えれば、「絶対にもっと楽曲の使用を限定したほうがふさわしいし、そうすればもっとうまくいった」映画だと僕は思う。
それに、たとえばスコセッシみたいに、「わざとのべつ音楽を流して観客に負荷をかけること自体を意図している」わけでもなさそうだ。つまり、劇伴音楽に対するプロとしてのバランスが単純にいささか足りないっていうか、なんかすげえ良い曲出来たからもうずっとかけとけみたいな……。どこまでやったら客が「げっぷが出るくらい食傷するか」の加減がよくわかっていないのでは?
逆に言えば、それらの物足りない部分を大きく凌駕するくらい、本作の「絵の力」は圧倒的で、画面からあふれ出る視覚的衝撃性に関しては、もう十二分に堪能できたのだけれど。
なんか、あと少しふつうに手際よく作ってあれば、叙事詩的な作品としてもっと誰にでもアピールできる「王道の傑作」たり得たのになあ、と残念に思うわけだ。
そうすれば、初日第一回上映のラスト10分のあいだずっと、卒中で死にかけてんじゃないかってくらいの大いびきをガーピーかいて、周りじゅうの観客の殺意を一身に集めてた最後列の肥ったオヤジなんかも、もしかしたら頑張って最後まで起きていられたろうに(笑)。