ロストケアのレビュー・感想・評価
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社会派映画の存在意義
予備知識は殆どなく評判が良さそうなので観に行きましたが、いやぁ~引き込まれましたよ。私好みの作品で当たりでした。
原作は未読ですが、原作はもう少しサスペンス寄りの作品だそうで、映画は社会派寄りに敢えてしたという情報を見たのですが、それも私の好みに合っていました。
で、95歳の母親と二人暮らしである68歳の私には切実過ぎる物語というか生々し過ぎる作品なので、作品自体の感想(自分の感情)は書けそうにもないのでパスしますが、その代わりにこういう作品の社会的意義の様な事を今回は書いて行こうと思っています。
まず本作の前田哲監督作品って、あまり多くの作品を鑑賞した訳ではありませんが、本作の尊厳死も含め『ブタがいた教室』の食文化とか『こんな夜更けにバナナかよ』の健常者と障害者の日常での関係性とか、倫理観だけでは解決不可であり、本来答えのない人の考え方や対応に対しての少し意地の悪い問題提起をする監督という印象があります。
誰しもが人生に於いて逃げられるのであれば逃げたいし、見たくも考えたくもない問題を、だからといって有耶無耶にも出来ず、人間として生まれた限り必ずぶち当たる問題であって、こうして映画として突きつけられ考えさせられることの意義は大きいと思います。
本作では主人公が「社会の穴」という言葉を使っていましたが、私も今後この言葉を頻繁に流用しそうな深く的を得た表現の様に思えました。
“理想の社会”というのは、本来この穴は少なければ少ないほど良い筈なのですが、逆に言うとこの穴がなければ社会は成立しないという捉え方も出来るのかも知れません。
“社会の穴”の他にも“社会の隙間”という言葉も社会ではよく使われています。
あくまでも、私の考え方ですが、“社会の隙間”というのは“悪事の隠れ蓑(場所)”だと思っています。
理想の社会というのは悪のない社会ということですが、現実の社会には悪が充満しています。何故かというと権力者や成功者の悪事は見逃さないと人間社会は成立しないからです。
そして“社会の穴”というのは、社会の矛盾であり不条理であり、真面目に生きようとする人間を不幸にする落とし穴です。
最近観たばかりの作品では『夜明けまでバス停で』、『夜を走る』や多くの社会派映画は全部“社会の穴”に落ちてしまった人たちの物語ばかりです。
というか、最近の日本の社会派映画の殆どが、そのような“社会の穴”を見つけ出し問題提起しているという事なのですが、現実社会は穴ぼこと隙間だらけで、それを埋めようともしない(いや、出来ない)
恐らく、今の社会力(造語)の限界であり、隙間や穴が埋められないのは何かのバランスを保つ為の必要悪としての存在であり「人は見たいものしか見ない」という、それは政治だけなく人間としての限界なのかも知れません。
ただ、本作にもありましたけど、役所などの対応の不親切さや不備などについても様々な作品で取り上げられ、パッと思いついた作品だけでも『生きる』『恋人たち』『護られなかった者たちへ』『岬の兄妹』等々で度々見かける光景ですが、溺れかけた人間に対しての命綱であるべき部署の現実は、何度か役所に行った人間なら決して誇張ではないと理解は出来る範疇の演出であって、“社会の穴”が最も可視化し易い場所というのも哀しくも皮肉な話です。まあ個人としては、穴に落ちないことを祈るしかないのですけど…
だからこそこういう問題を知らない(見ない)ままにせず、知らせる(見せる)媒体が必要であり、それを自ら見ることも重要で、それが出来るのは今や映画や小説くらいしかない様な気がしています。本来なら報道機関がすべき仕事なのでしょうが、そこが隙間だらけで腐ってしまっているので仕方ないですね。
過去の関連作品との異同と自分自身への戒め
"PLAN75"を観たとき、『楢山節考』以来のいわゆる安楽死問題に関わる議論の中間的総括として、社会的孤立のために安楽死や自死の選択に追い込まれたり、推奨したりする空気を撥ね返していく風を吹かせ続ける風土を培う作品の制作が今後とも期待される、と考えた。しかし、本作ではむしろ家族の絆からの解放のために第三者による嘱託殺人が肯定されても良いのではないかという提起があった。まさに"PLAN75"が取り上げ損ねた2019年の ALS(筋委縮側索硬化症)患者嘱託殺人事件、そして"PLAN75"で暗示しようと試みた相模原殺傷事件の加害者の実相とも極めて似ていると思われた。けれども本作の原作は、相模原殺傷事件の発生より3年前に書かれたものなので、その慧眼には驚く他ない。戸田菜穂氏演じる美絵が、親が死んだことで重荷から解放され、宗典に対する信頼を残しているかにみえ、ひょっとすると減刑嘆願を申し出る一人になることさえ想像したが、そうはならず、殺人者への正当な感情を表明できていた。親による障がい児殺しに対して、かつては同情的な世論が沸き起こった時代もあったけれども、相模原殺傷事件の被害者の親たちは、施設に預けていたけれども、その子の生きる未来にまだ希望を強く持ち続けていた点で、宗典を演じた松山ケンイチ氏が想定したような、本人と家族の救いの実現とは大きく異なると言わなければならないであろうし、そこに相模原殺傷事件の加害者の誤算があったとも言えるであろう。
善の顔と悪の顔とを兼ね備える役柄は、様々な作品に存在するので、本作での松山氏だけが適任というわけではないだろうけれども、松山氏なりの持ち味が表れているのは確かであろう。相対する検察官の秀美を演じた長澤まさみ氏は、本作では女性であるがゆえに揺れ動く価値観を表現していると思われるけれども、"MOTHR"では、悪役に徹した演技をしていたので、女性の役者だからこのような展開になっていったとは言えないだろう。
少し前にやはり孤立した高齢者を犯罪で救うという試みを描いた『茶飲友達』でも最後に処罰されたし、そこでは殺人は行われなかったことが救いではあった。随分前の『日本の悲劇』は、引き籠もり親子をめぐる暗部を描いたものであり、その系譜も感じられる。本作を制作した前田哲監督が少し前に制作した『老後の資金がありません!』は、その題名にもかかわらず、少しゆとりのある階層を取り上げていたが、本作では、どん底に追い込まれた階層と少しゆとりのある階層とを対比的に描いていることでも秀逸であると言えよう。
洋子演じる坂井真紀氏とやす氏演じる登とは、外見上は年齢的に釣り合わないようにみえたが、実年齢は1歳しか違わないので相応なのであろう。宗典は秀美に対して、「裁く」という表現を使っているが、裁くのは裁判官であって、検察官ではないはずであろう。
本作だけでなく、『日本の悲劇』の主役の演じる局面は、自分の実生活にも切実な問題であるので、改めて戒めとしていきたい。
尊厳について考えたい
犯罪なのか…?
メンタル鬱の時に見る映画じゃねえ笑
みんながどの立場で見たのか気になる。
親の介護とはまだ縁がない年齢なのと毒親持ちなのでロストケア側に救われたい立場で見たけれど、
帰り道重たすぎて心がしんどくなった。
絶対に避けて通れない親の介護とその子のしんどさ。
監督がコメディ寄りの方で終わった後びっくりしましたが、中学生が介護をしていたり、服が徐々に汚れていったり、部屋が散らかっていったり風俗落ちてたり、女性の髪がボサボサだったりリアリティありすぎてびっくりしました。
もう本当に現実突きつけられた。
年金7万円だと家賃と必要経費で消えるよね。家族の絆は強いからこそしんどいよね。
日本の福祉にあやかっている側なので年金は涙出た。
本当に現実。メンタルやられてる時に見るもんじゃねえ笑
追いつめられた人々。本作が訴えてるものとは。
本作を観て思ったのは、いったい斯波はどうすれば良かったのか、どうすれば彼はあのようにならなくて済んだのかである。
介護疲れで年老いた夫が介護していた妻を殺害して逮捕、あるいは無理心中したなんて事件をニュースで見るたびに思う。他に方法はなかったのだろうかと。
間違いなく言えることは斯波が大友のように父親の介護を他人に任せられる境遇であればこのようなことは起こらなかったということだ。
介護に限らず、誰にも悩みを打ち明けられず、一人で問題を抱え込み孤立化することはかなり危険だ。
以前自宅の小屋に精神疾患の息子を長年監禁していた両親が逮捕されるという事件があった。息子の精神疾患の度合いはかなりのもので、暴れると手が付けられないほどであり、両親は役所などに何度も救いを求めた。しかし、施設でも預かってもらえず苦しんだ末の監禁だった。長い監禁で息子は失明し、体も変形していた。世間はそれを酷い虐待と非難した。
村社会の伝統が色濃い日本では家族のことは家族で何とかすべしというのが暗黙の了解としてまかり通って来た。しかしそのせいでおこる悲劇、家族間での殺人は殺人事件の中で一番多い。
他者に頼ることもできず追いつめられた果ての悲劇は今でも起こり続けている。大切なのは一人で抱え込まず助けを求めることだが、今の社会はそんな助けをよしとしない風潮がある。本作でも語られる自己責任論である。
貧困や家族の問題は自分たちの至らなさが原因、だから人様に頼るなということである。日本人にはこういう考え方が昔からあった。それをうまく政治家が利用し、生保のネガキャンが行われた。
本来、生保などのセイフティーネットは我々の納めた税金を原資とするもので、なにか生活に支障ができた時には誰でも利用できるはずだった。これは憲法25条で当然保障される権利である。しかし、近年ごく少数の不正受給者を殊更に取り上げて国民同士の憎悪を煽り、制度自体が標的にされた。まるで生保は怠け者が税金を使って楽をするための制度だとネガキャンが張られたのだ。
生保はあくまでも保険と同じだ。みなが保険料を出し合い、誰かが困ったときには保険金で助けてもらうという。だからこそ国民は税金や保険料を支払うのである。保険金が誰かに支払われてそれが無駄遣いだという人がいるだろうか。不正受給は生保に限らず補助金でも保険金でも起こっている。それ自体は制度とは何ら関係ないのに不正受給イコール生保は悪とされてしまったのだ。
悩んだ末に頼ったセイフティーネットからも見放されてしまい、社会から孤立して追い詰められてしまった斯波は自分の手で父を殺めてしまう。しかし彼はその後、介護士の資格を取り更に多くの高齢者を殺めてゆく。
愛する父を殺めたことで彼は苦しんだはずだ。自死にまで追い詰められるほどの強い罪悪感。だから聖書の中の一節に彼は救いをみいだしたのかもしれない。罪悪感に押しつぶされそうになる自分を守るため、自己防衛本能から自分の行為を正当化する必要があったのだ。自分のした行為は正しかったのだと、あるいは本当に自分の行為は正しいと思っていたのか。
ただ、彼は父を殺めたとき涙を流した。やはり彼はあんなことをしたくなかったはずだ。自分にあんなことをさせた境遇、社会を恨んでいたかもしれない。
本作は斯波の行いが正しかったのか間違っていたのか単純に判断するのではなく、彼がなぜそうせざるを得なかったのかを観る者に突き付けてくる作品。
確かに斯波の行為は法的に殺人である。だが、もし彼が被害者や被害者の家族の依頼でやっていたならどうだろうか。国によっては尊厳死が認められている国もある。
斯波の父がもし尊厳死を利用できたなら、死を自分で選択できたなら、そもそも斯波は罪をおかさずにすんだのではないか。
フランス映画「すべてがうまくいきますように」でも描かれていた尊厳死の問題。日本もこの問題を避けて通れないのではないか。
私自身は介護の経験はまだないが、高齢の両親がいる身としてはある程度覚悟しながらも一人で抱え込むことはないよう心がけようと思っている。使える公共サービスや周りの手を借りて自滅しないようしなければならない。介護で自滅するならば、ゆくすえは本作の斯波となる。
介護の問題、尊厳死の問題、本作が観る者の心を打つのは誰しも他人事ではない問題を描いているからだろう。主演二人の演技も素晴らしかった。ただ、セリフで自己責任とか出てくるのは少々唐突。作品テーマをセリフで言わせるのではなく、そこは観客に感じ取らせるべきだった。この辺は日本映画の悪いところ。
神にはなれない
刑務所で大友検事が斯波に母の事を告白しているシーンはキリスト教の「告解」をイメージしているのだと気づいた。
斯波は一人の人間であり、神になることはできなかったが、キリストのように利用者家族の罪を代わりに背負い、自ら犠牲になる(殉教する)事を望んだのだと感じられた。
正しいか正しくないかの問題ではない
迫真につぐ迫真
いい青年は
いい人間であるとは限らない
いい職業についている人も
いい人間であるとは限らない
大事な事はどの本にも書いてない
極端な面もあるが
どれも迫真につぐ迫真
実は全てを見透かしてるのは
ケアセンターのおばさんなのかも
しれない
憧れの先輩が事件をおこして
いなくなったとしても
3ヶ月で風俗にいく見習いの子も
諦めの早い今の子を写している
のかもしれない
いい映画だ
ロストケアを肯定的に捉えてしまうが…果たしてそれで良いのか…
小説を読んでから映画を鑑賞。小説と相違点はかなりあったが、メッセージのコアの部分はしっかり残しながら、周辺エピソードを削ぎ落とした感じか。小説ではグッドウィル事件を題材にした介護業者の不正問題も物語の重要な部分を占めていたが、映画ではその話は一切なかったため、国策の間違いに対する指摘は映画ではだいぶ薄れていた。その分、ヒューマンドラマとしての印象が強くなり、介護する側とされる側にとっての「救い」としての殺人であったというところがより強調される結果になっていたように思う。
松山ケンイチと柄本明のベッドでのシーンは迫真の一言。どちらも表情を1分間以上カットを入れずに流し続ける演出で、登場人物の心の葛藤や心情の変化などをじっくりと感じながら見ることができた。
裁判のシーンを見て、「ロストケア殺人」を小説よりも批判的に表現しているのかと思った瞬間もあったが、最後のシーンを見て、原作よりも「この殺人は仕方のないもので、介護する側もされる側も幸せな結果になった」という肯定的なメッセージ性を残していたように思う。でも見終わった後、「果たしてその感想で良いのか?」と悩んだ。きっと誰かと議論してもずっと平行線をたどりそうな答えの出せない問題だと気づいた。
私は、介護する側、される側⁉️
貧しき者は介護においても救われない
演技に魅せられる
厳しい現実を突きつけられるような映画でした。 主人公がしたことは許...
フィクションの意義の一つはこういうテーマを描くこと。
介護と家族、そして切り離せない貧困。
現実を直視すると重いこのテーマを正面から描いたとても良い作品だった…。
モチーフになっている事件はあれど、フィクションだからこそできる社会的タブー(社会がなるべく目を逸らしているテーマ)への切り込み。フィクションの力と意義を感じる。
サスペンスというより、社会派ドラマ(しかもかなり骨太なやつ)と呼んだ方が良さそう。
訪問介護施設の職員による利用者(要介護者)の大量殺人。
斯波のしたことは事実だけ切り取るなら社会的に許されないことだ。
でも、彼の行動や思想といった背景を見ると斯波がただのシリアルキラーではないことがわかる。
彼がこの行動に至った経緯、この辺の積み上げや描写が本作は本当に丁寧で、だからこそ私たちは正面から斯波のしたことの是非を問うという、本作のテーマに向き合わざるを得なくなる。
本作では斯波の行動に救われた(とは作中で明言されないけど、そうと観客にそう感じ取らせる)被害者家族、斯波の行動を糾弾する被害者家族、斯波の(特に父親殺害に関する)心情、それを裁こうともがく司法、という様々な視点から問題が描かれていたのが素晴らしい。
なんというか人物に対する描き方がフラットであろうと努められていたのを感じた。
法律と社会通念の面から斯波を裁くなら彼はおそらく死刑になるのだろう。
でも斯波の人となりや彼の過去、彼の行動を見れば、彼がただの大量殺人をおこなった狂人であると、私たち観客は言えなくなる。
そして本作で斯波を裁くことに1人の人間として苦悩する大友検事と共に苦悩することになるのだ。
私がこの作品を観て改めて思ったのは、法律や司法は社会全体をスムーズに回すためのもので、それ以上でもそれ以下でもないということ。
法律は私たちが安心して暮らすために大切なものだけど(例えば殺人が許された世界では私たちはスムーズに暮らしていけない)、個人の救いにはならないこともままあるのだ。
そして「法律でそうなってるから」と思考停止し、やむをえず追い詰められている人々(セーフティネットからこぼれ落ちてしまった人々)の実情を知らず、知ろうともせず、そこで踏ん張る人たちの叫びを黙殺して、断じてしまう人間にはなりたくないな、と思う。
今は安全圏にいても、いつ私たちは同じ状況になるとも限らない。
直視するのが辛くても、自分事として社会で向き合わなければいけないのだろうなと思う。
(本作が作られた意図もそこにあるのだろう。)
演者の皆さんもとても素晴らしかったのだけど、やはり本作は終始静かで理知的な態度を崩さない斯波を演じた松山ケンイチさんが良かったし、そして斯波の父を演じた柄本明さんが圧巻だったな。
私の亡くなった祖父母も認知症で要介護だったのだけど、祖父母の様子を鮮明に思い出した。認知症で身体が自由に動かせない人間の様子をなぜあんなにリアルに演じられるのだろう…。
そして斯波がアパートで父の介護をしながら2人で暮らしているシーン、どんどん部屋が荒れ、斯波がやつれていき、でもたまに穏やかに語らう瞬間がある、あの一連のシーンは本当に胸が苦しくて苦しくて、忘れられないと思う。ずっと嗚咽をこらえながら観ていた。
斯波の父が斯波に「殺してくれ」と言うシーンなんてもう劇場なのに嗚咽がこらえきれなかった…。
本作でも描かれてたけど、認知症の方って行動や言葉で周りを傷つけることもあれば、フッと以前の優しくて理性的な姿や意識に戻る瞬間があって、だから介護してる家族は苦しいんだよね…。
思い出もあるから憎みきれない、見放せない。
そういうのもエグいくらいにリアルで、だからこそ観ていて本当に辛かった…。
観ていて本当に辛くもあるのだけど、目を逸らしてはいけないテーマを真摯に描いた良作だと思う。
強いインパクトは残った、ただ介護に苦しむ人達の唯一の解決策が殺人にも思えてしまう、それで良いのかとの疑問は残った
前田哲 監督による2023年製作(114分)の日本映画。配給:東京テアトル、日活。
原作は読んでいないが、犯人不明のミステリー作品の様であり、介護により地獄の様に苦しんでいる多くの人々が存在しているという問題に光を当てたものかと思われる。しかし、映画は、早々と犯人は分かり、松山ケンイチ演ずる斯波宗典が主張する介護する人及び介護される人、その両者を救済するための殺人、映画自体がそれをまるで理解・肯定しているとも思える様な作りとなっていて、驚いてしまった。
松山ケンイチが勤めるケア施設の介護対象者が他施設に比べとても多く亡くなっていること、更にも特定の曜日に多く死んでいることを、数学が得意な検察事務官の鈴鹿央士が発見して物語が動いていく展開は、とてもワクワクとさせられた。
また松山をとても尊敬していた新人介護士の加藤菜津は、殺人を知ってショックを受けたせいかケア施設を辞め風俗嬢になってしまう。そんなこと現実ではないだろうと思ったが、調べてみると、掛け持ち風俗嬢で最も多い職業が介護職だそうで、他人をケアという共通性からか、実は親和性が有る職業移動らしい。
長澤まさみ演ずる大友検事は、救済のための殺人を当初は全面的に否定していたが、自分が会いたがっていた父親を見捨てたまま死に至らしめた経験もあり、松山ケンイチ斯波の考えを否定しきれなくなってしまう。さらに一歩進み、共感・納得してしまった様にも見えた。何だかとても怖い映画だが、脚本の不備により、そう見えてしまったところはあるのかもしれない。
法廷では松山のことを「人殺し、父を返せ」と叫ぶ戸田菜穂の声もあったが、彼の殺人により坂井真紀演ずる母と彼女の娘は救われて、新しい恋愛相手まで見つけてしまったエピソードが強く印象に残り、叫び声が製作者たちのアリバイ的なものに思えてしまった。
松山と長澤の移りゆく表情を超クローズアップで迫る映像が特徴的で、印象に残った。確信犯で自信に満ちた松山ケンイチの表情に狂気を秘めた説得力があり、それに飲み込まれていく長澤まさみに、リアリティの様なものを感じた。
まあ、監督・脚本家をはじめ製作者たちの問題意識は強く感じた。殺人方法提示も含めて、誤解を恐れない潔い、ある意味勇気ある映画とは思った。ただ、解決の方向性は見せず、唯一の解決策が殺人であったとも解釈されかねず、その点では残念な気もした。
現実的には難しいかもしれないが、またインパクトは少し弱まるかもしれないが、介護を1人で背負い込むな、社会にSOSを発信しよう、といった別解決策のヒント提示があっても良かったのかもしれないとは感じた。
監督前田哲、原作葉真中顕、脚本龍居由佳里 、前田哲、製作鳥羽乾二郎、 太田和宏、 與田尚志 、池田篤郎 、武田真士男、エグゼクティブプロデューサー福家康孝、 新井勝晴、プロデューサー有重陽一、ラインプロデューサー鈴木嘉弘アソシエイトプロデューサー、松岡周作、 渡久地翔、撮影板倉陽子、照明緑川雅範、録音小清水建治、美術後藤レイコ、衣装荒木里江、装飾稲場裕輔、ヘアメイク本田真理子、音響統括白取貢、音響効果赤澤勇二、編集高橋幸一、音楽原摩利彦、主題歌森山直太朗、VFXスーパーバイザー佐藤正晃、助監督土岐洋介、キャスティング山下葉子、制作担当村上俊輔 、松村隆司。
出演
松山ケンイチ斯波宗典、長澤まさみ大友秀美、鈴鹿央士椎名幸太、坂井真紀羽村洋子、戸田菜穂梅田美絵、峯村リエ猪口真理子、加藤菜津足立由紀、やす春山登、岩谷健司柊誠一郎、井上肇団元晴、綾戸智恵川内タエ、梶原善沢登保志、藤田弓子大友加代、柄本明斯波正作。
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