東京2020オリンピック SIDE:Bのレビュー・感想・評価
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風くんの曲なしだ!なんで!
なんのために見に行ったかわからない!
一言、日本だから、今回のオリンピックは出来た。
他の国では、無理だったろうな。
全ての、選手、スタッフに感謝!
膨大な資料あるんだったら、全て公開して
好きな人が、好き勝手に編集して、
コンペみたいのやればいい。
競技団体別でも、面白いしさ。
もう、とことん様々な視点から、映画作れる世の中だ。
全方位を敵に回す尖った傑作
序盤、SIDE:Aの様なキレが無くて期待外れかと思ったら、中盤で森喜朗氏がバッサリやられてて笑ってしまった(インタビューでカッコいいこと言ってからの釈明会見)。
他にも随所に政治家やデモ隊に対してチクチク攻撃的なショットを入れてきてて、この監督は本当に底意地が悪いなと思うのだけど、冷笑的ではなく社会の分断にマジで心を痛めている感じがして、ちょっとウルッしてしまった。
あと、森喜朗氏との対比もあってバッハ会長の好感度が爆上がり(笑)。
歴史改竄のための映画
河瀬直美監督の魂が籠った映画。
魂全てを手に込めた。
その手で持つのは森のミコシ。
それ以外の何物でもない。
大会開催者をクローズアップした絵にしているのは、意図があってだ。
周囲は映さない。
他には感情を向けない。目も向けない。
言い訳程度に映して見せるのも、大会開催への力をより強めるため。
本当に苦しまされた人たちの話なんて一切出さない。
これはオリンピック委員会のプロパガンダ映画に他ならない
記録には程遠い
前作『SIDE:A』よりも、さらに「オリンピックの公式記録映画」ではなくなりましたね。
「河瀨監督が見た五輪、五輪を見て思った心象風景」でした。
フィルムには事実すらなく。
一つ一つの証言は短く切り取られ、否定も肯定もなく、政治色を隠して印象も残らないように加工され。
なんの記録にもなっておりませんでした。
また、スポンサーに対する忖度が過ぎて醜悪。
私はどんなオリンピックかを観にきたのであって、バッハや森らマウントおじさんたちの顔のアップを見にきたわけじゃない。
挙句、その戦犯ともいえる連中に対し、後に評価されるだろうと賞賛する人々のインタビューを挟さまれても…
また、けつをまくった安倍晋三を筆頭に……
国立競技場デザインの二転三転、 ロゴの盗作騒動、JOC経理部長の自死疑い、小山田圭吾の開会式演出降板等には一切触れておらず、欠片も出てこなかった。
一応、萬斎さんの電通へ名指しの批判・一喝は写っていて、見どころはそこだけ。
これが「映画監督としての全て」なら、「記録」という行為に向き合う姿勢そのものが稚拙だと言わざるを得ない。
編集がひどすぎて眠かった。
リレーの失敗とJOC関係者のシーンなどには、悪意しか感じなかったし。
なんでこんなにつまらないのだろうと考えたら、あるトゥゲッターのまとめを思い出しました。
>映画監督「なぜ大学生のつくるものがつまらないのか」→大人にも直撃しまくる至言だった「思い当たりすぎて死ぬ」
>是枝裕和監督の対談本を読んでいたら「なぜ大学生のつくるものがつまらないかというと、内側が豊かでないのに自己表出しようとするからです」という一節がサラッと出てきてギョッとしながらストンと腑に落ちた。
このまとめそのものは、本来なら真摯に映画制作に取り組んでいれば当てはまらないはずなのですけれども。 作り続けていくうちに技術が培われていくし、人生経験が豊かになること(多くの体験、読書、映画作りだけでも大人数と関わり資金面でのやりくりなどをしているうちに鍛えられ蓄積された経験)で内側が豊かになり、面白さを生み出していくことが多いので。
自己陶酔と承認欲求と、小手先の編集技術からは何も生まれず、人としての底の浅さを露呈したにすぎないなぁと。
人道、人権、人格に関わるテーマなら、私的観点は切り口としてありですが、記録がテーマに私的視点は相容れないと思いました。
主題歌は藤井風が降板。
エンドロールに「作詞・作曲:河瀬直美」のみの表示。
歌がだれなのかクレジット無し。
まさか、監督本人?
空虚な感じがした
2021年に開催された東京2020オリンピックの公式ドキュメンタリー映画2部作の2作目。大会関係者や一般市民、ボランティア、医療従事者などの非アスリートの人々にスポットを当てたとの事。
そう言いながら、リレーのバトンパスミスを映したり、瀬戸や桃田らアスリートも追っかけてて、???だった。
コロナ禍でのボランティアの難しさ、医療従事者の大変さ、テロ対策の警備の大変さも通り一遍には映していたが、深掘りしてるわけではない。
森元会長の女性蔑視発言、彼はいまだに何がいけなかったのかもわかってないのだろう。
組織委員会の事務総長を担当してた武藤元財務事務次官の存在感は大きかったのだとわかった。
バッハ会長もよく出てたし、こんなにジジイばかり映しても観る気がしない。
そして、観終わって何も残らない空虚な感じがした。
これは何なんだろう?河瀬直美、こんな感動もないオリンピックの裏側をオフィシャルに映画化するなんて、貧乏くじ引いたのかな?
やはり河瀨直美作品だ
評価が低くどうなのかと思っていたが、始まるや10分程でやはり私には、河瀨直美作品で期待通りの出来に思えた。SIDE:Aは少し偏った、しつこい感が出ていたが、こちらはどちらかというといつもの河瀨作品で嬉しく思えた。10年、20年、100年と時が過ぎた時に評価してもらえるように、少し意識を強くして制作されたと思うが、他の誰でもない河瀨作品と思えた。
もともと商業的にはそんなに成功する監督ではないと思うが、ものを作ったり表現したりする人にとっては、影響をもたらしてくれる重要な一人であると思っている。映画はスポーツドキュメントではない。脳内ストレッチはできた。
【異例ずくめの東京オリンピックを無事に開催し、終了させた多くの裏方スタッフの頑張りに素直に敬服した、忖度無きドキュメンタリー作品。】
ー アスリートの姿を追った「SIDE:A」から、一転し今作では異例ずくめだった東京オリンピックに向けて準備する人々の姿が、描かれる。
組織委員会を始め、様々な大会関係者の苦悩や、葛藤、懊悩・・。-
・序盤、メダルが有力視されていた男子400mリレーのバトン受け渡しの失敗シーンが描かれる。又、バトミントンの桃田選手や、水泳の瀬戸選手の敗退のシーンも描かれる。
- このシーンから、このドキュメンタリー作品の製作意図が感じられる。真実を伝えるという姿勢である。-
・大会がコロナ禍により、一年延期となり状況が日々変わる中で、右往左往する組織委員会の幹部たちの苦悩する姿。又、調理担当スタッフ達の懊悩も、生々しく描かれる。
・森喜朗会長が、”いつもの”女性蔑視問題発言により辞任に追い込まれる様は、本人の証言も含めて生々しい。
- 森会長が頑張っていたのは分かったが、この方の根本的思想は変わっていないのであろうな。完全なる人選ミスである。-
・開閉会式チームの女性を多数登用した、再編成が決まり大会を去るメンバー。無念さと怒りと少しだけ安堵する気持ちが、綯交ぜになっていたのではないだろうか?
- 取り分け、野村萬斎氏の険しい表情は印象的であった。彼だけは確かに組織委員会の舵取りへの激しい怒りを表していた。-
<招致が決まった段階では、喜びに沸いていた人々のその後のコロナ禍による予想もしなかった混乱や、哀しみ、懊悩、苦悩。
この東京オリンピックから、私達は何を学び、実施の有無を決める過程を含めて、未来に何を残したのか・・。
エンドロールの100年後の子供達と思われる声を聴くと、色々と考えさせられる作品である。>
■その他
・SIDE:Aのレビューでも敢えて記載したが、日本を代表する河瀬監督は、巷間で噂される件に関しては、一切コメントを直接していない。
事の真偽をキチンとご自分の口で説明すべきではなかろうか。
そして、邦画界の旧弊を、是枝監督たちと共に改革していく立場ではないかと思うのであるが。
何故に、このような事を記載しているかと言うと、私は、本作を、本日日曜日の午前中というゴールデンタイムに鑑賞したのであるが、観客がたった2名であったことに驚いたからである。
ドキュメンタリー作品という事を差し引いても、(基本的に、ドキュメンタリー作品はミニシアター系が多く、観客動員数は限られている。)少なすぎる。
SIDE:Aにしても、SIDE:Bにしてもメッセージ性のある作品であり、見応えある作品だと思った故に、敢えて記載する次第である。
ザ・マスゴミショー。
「女性の話は長いと揶揄する方もいるが、女性を委員にした事は成功だった。これからも能力のある女性をどんどん採用して行きますよ」から「女性の話が長い」だけを切り取られ、趣旨も180度変えられてしまった森元首相。まぁ、森さんの発言全文を知っていながら、あの報道姿勢は凄いよな、って思う訳で。見ていて思うのは、マスゴミは本当にゴミだって事でしょうかw
SIDE:Bも公開にこぎ着けましたが、SIDE:Aに更に輪を掛けて「散漫」です。
組織委員会のゴタゴタの取り上げ方も、どえらく中途半端です。この森さんの発言にせよ、なんで発言全文を入れないのか、サッパリ分からないしw
もう、開会式の演出チームの件についてはですよ。これじゃ、野村萬斎の感性を万人が受け入れなかったから、になってしまってますけどね。違いますやろがw
これは、あまりにも残念な出来でした。
はっきり言うと。
見るに値しないw
なんで、こうなる?
もっと重要な事が、、
ドキュメンタリーは大好きなんですが、猪瀬の疑惑からエンブレム問題、炎天下での競技の問題、なぜ10月開催から8月開催になったIOC の都合。復興五輪の意味。
そしてコロナ禍での延期、そして強行。辞退続出したボランティア。医療従事者の描写。そして第一次世界対戦で東京オリンピックが中止になった過去。ここら辺が重要問題でアスリートの描写よりもっと重い内容を描くべきです。
壮大な茶番劇
淡々と描いて、解釈は観る方に委ねる面白い作品だったよ。どう観るかは、観る人がどの立場にいるかで、かなり違うんじゃないかな。
いろいろな芸術や知的遊戯と一緒で、スポーツも世の中にあった方がいい。色んな人の人生が豊かになる。でも、なきゃいけないとか、なかったら死んじゃうってものじゃないんだよね。
東京オリンピックに向けて長い時間を掛けて準備した人たちが描かれるんだけど、その人たちは「もう、やるしかない」「それが使命です」って盛り上がってるの。そりゃ、そうだよね。
オリンピアンたちも「オリンピックは素晴らしいものだ」「なんとか開催したい」って、それも、そうだよね。自分たちがその中で育って来たんだから。
でも、例えば、飲食店を持つのが夢で、長い期間をかけて頑張って来た人たちが、緊急事態宣言でその夢を諦めざるを得なかったりしたと思うんだよね。その人たちの夢が潰れるのはやむなしなんだけど、アスリートや東京オリンピック関係者の想いは実現させなきゃいけないって、そこの違いはなんなんだろう。
オリンピックやりたいって言ってる人たちは「オリンピックは、オリンピックで、オリンピックだから、やりたい。やらせてください」って言ってるだけなの。その想いみたいなものを、もっと、開催反対派の人たちとぶつけて対話しなきゃいけなかったんだよね。
もちろん、切羽詰まった状況で、そこに時間を割けなかったというのもあると思う。でも観てて思うのは「もう、押し切るぞ」って決めたんだよね。「俺たちがやるって決めたんだから、お前らは黙って従え」っていう強者の理論に行っちゃった。
いろいろな芸術や知的遊戯がコロナによって制限を受ける中で、オリンピックがやれたのはなんでかというと、世の中で力を持ってる人たちの嗜好品だったからだね。だから強者の理論で押し切ったんだなあと思ったよ。
そしてアスリートはその辺に無自覚。水泳選手が「延期が決まったときに、ものすごいショックを受けた」って言ってるんだけど、まあ、コロナでショックを受けた人はいっぱいいるからね。自分たちだけ特別扱いになるわけはないよ。
別の水泳選手は「本当なら今はヨーロッパ遠征で強い選手とやってるはずなんです」って被害者っぽく語るんだよね。ものすごく分かりやすく批判すると『その金、どこから出てんの?』って感じなの。あったらいいものだけど、なくても死なないことをやってるのに、その自分が優遇されないことを嘆くのは何故なんだろう。
河瀬監督は野村萬斎たちが開会式・閉会式のプロデューサーから締め出されたことも描く。ここも強者の理論がまかり通ってるんだよね。権力に近い電通が勝ってんの。
そして宮本亜門の、超訳すると「なんでオリンピックだけ特別視すんの?」って感じの発言を入れてくる。
河瀬監督のまわりでも、創れるはずだった作品を創れなかった人たちがいっぱいいたはず。でも、河瀬監督はこの映画が撮れて、公開できた。それはなんでかっていうと、河瀬監督が力を持った人たちの嗜好品の一つになったからだね。その自覚を持って、この作品は作られたと思ったよ。
開会式のセレモニー映像には、日本の伝統的な映像を重ねる。野村萬斎が「日本の伝統というものをこれっぽっちも考えてないということが分かった」と批判して抜けたんだよね。日本の伝統を考えてない人達が伝統もどきのものを世界に発信してんの。
そしてラストは「100年後にこのオリンピックはどう評価されるのか」で締めくくられる。
100年経っても明らかであり続けるのは「権力におもねるものは優遇される」ってことだろうね。
そんな祭典いらないな。
オリンピックには建前と本音があるけど、今回はあまりにも建前がなおざりにされすぎて、本音が見え過ぎちゃった。東京オリンピックは中止した方が良かったなと思ったよ。
【注意】 SIDE:Bでは藤井風さんは歌っていません
本作はオリンピックの記録映画で
SIDE:Aはアスリート視点の内容
SIDE:Bは非アスリート視点の内容らしい
個人的にAのほうも観たが
あまりにも退屈に感じてしまったので
レビューでも酷評してしまった
個人的にBのほうが
有名なアスリートや組織委員会の人が出てきて
馴染みのある人物が多いので
Aよりも観やすいが
会議のシーンとか解説がなく
ただ、映像を垂れ流しているので
やはりわかりにくい部分が多い
驚いたのは非アスリート視点の映像といって
「名も無きボランティア」とか普通の人の映像を期待していたら
トーマス・バッハとか森喜朗とか
組織委員会のトップの映像が多く
期待していた内容とは違っていた
ただ、内村航平、瀬戸大也、桃田賢斗など
日本人の有名アスリートも多く出ていて
SIDE:Bに分ける必要があったのか疑問だった
それに内村航平選手が
「オリンピックを中止よりもどうやったらできるか考えてほしい」
というシーンは、内村選手のファンには申し訳ないが
正直失望した
コロナ禍で中止になったイベントがいろいろあったなかで
なぜオリンピックをなぜ開催するのか
「政治、メディア、スポンサー企業がバックについているから」以外の理由が
内村選手から個人的には聞きたかった
また、瀬戸大也がコンディションが
延期されたオリンピックに合わせらせない
と悔やむシーンがあり
日本でソーシャルディスタンス、マスク、検査隔離を徹底していると
練習がまともにできないと不満を漏らす人もいた
外国ではコロナ禍でも
普通に練習をしているらしいが
そのあたりが各国の新型コロナの認識の違いだろうと思ったが
アメリカとかと同じ練習をするとなると
コロナ感染者は大幅に増えることになる
この映画では
押谷仁教授やエマニュエル・トッド、オードリー・タンなどの
専門家たちがコロナ禍に対してのコメントをするシーンがあるが
おそらく彼らは「コロナによる過剰な自粛によって、若者が犠牲になった」
という意見が透けて見えてしまう
これは河瀨直美監督の意見と同じかはわからない
また、途中で東日本大震災の映像が流れたが
これは復興五輪ということを表しているのだろうか?
オリンピックに対する不祥事については
森喜朗の女性蔑視発言だけだったが
発言そのものよりも、「面白おかしく書くんだろ」とか
メディアに嚙みついたことが騒動を大きくしたように感じる
ただ、小山田圭吾などほかの問題については語っていなかった
この映画は途中で
子どもや風景の映像を挟むが
時間が無駄に長くなるだけど、正直それはいらんだろと思う
オリンピック反対派については
デモの映像を映しているくらいで
バッハ会長が反対派を軽くあしらうという映像があり
この映画ではオリンピック反対派は「声が大きいだけのイヤな奴ら」
という部分を強調しているように思った
また、熱中症が理由なのか、
マラソンのスケジュールを一時間前倒しにすることで
スケジュール変更のために奮闘するシーンがあったが
そもそも、真夏にオリンピックをする自体
熱中症リスクを考えなかったのか
この映画のラストで
100年後に子どもが『東京オリンピック2020』を語っているシーンがあったが
約1年たった今でも、エンブレム問題とか含めてもう完全に語られてないので
100年後は跡形もなく忘れ去られてるんじゃないかと感じた
国民はオリンピックを受け入れていた!!・・・のか?
ちなみに公式サイトで調べてあとでわかったが
藤井風さんの曲はこの映画ではありませんでした
未曾有のオリンピックを後世に伝える労作
アスリートたちをマイナーな視点で捉えた「SIDE:A」はやたら感情を揺さぶる感動作だった。
そしてこれは大会関係者など非アスリートに視点を移した「SIDE:B」
開催に至るまでの山積みの問題をこれでもかと詰め込んだ労作だった。
思えば開催延期、無観客開催とまさに未曾有のオリンピック。公式ドキュメンタリーということでとてつもない制約があったろうに、つくづくよく完成させたと思う。
ちなみに反対派はあっさりと。しかし「Olympic kill poor」と書かれた垂れ幕をしっかりと捉えるのも河瀬流。シンプルだが何と雄弁なこと。答えは出ないとしても巨額を費やすことの是非を考えることは必要だ。
そして誰もいなくなった
SideAは6人のアスリートに注目する、ということでなんとか映画の「コア」は作れたけども、ざざっと50人は関係者が出演された事もあって、コアが消えた。
東日本大震災のシーンで、あ、これは復興五輪だったんだ、と思い出す始末だった。
オマケに虚偽字幕の一件を思い出して、はたしてその発言が如何なる背景があって、本当に不当な切り抜きや誘導が無かったかどうか考える暇を与えてくれてない。
いったい東京2020オリンピックは何処で「結局は分断を明らかにさせてしまった」という失敗(森氏や佐々木氏がこれで辞任に至った)をやらかしたのか、をワザと考えさせたくは無かったのでは?と邪推したくもなる。(時系列も滅茶苦茶だし)
そもそも。五輪は何処を間違ったのか?を言い出したら竹田五輪理事や小山田圭吾氏が辞任に至る件もやっていない。
記録映画は娯楽映画に馴染まないのは解るけれども、これほどまでに五輪やスポーツのワクワクが全く無いというのは、正直辛かった。
森喜朗やバッハが主役の映画を、誰が観たいと思うだろうか?
非アスリートのドキュメンタリーなのかと思いきや、男子400メートルリレーの面々や、水泳の瀬戸選手、バドミントンの桃田選手らが出てきて戸惑う。そうか、敗者に焦点を当てた映画なんだと納得しかけると、震災からの復興五輪のシナリオどおりのバドミントン混合ダブルスのエピソードになって、混乱する。そもそも、SIDE:AとSIDE:Bのコンセプト自体がよく分からない。
森会長の辞任劇を描くのは当然として、辞任を惜しむかのようなインタビュー映像を続けて、それをフォローするのは、いかがなものか?女性蔑視を問題にするのであれば、電通の佐々木氏の辞任劇の方も、しっかりと描くべきではなかったのか?それ以前に、国立競技場のデザイン変更や、エンブレムの盗作問題などのゴタゴタにまったく触れないで、本当に東京オリンピックの記録映画と言えるのか?沖縄や広島のエピソードも、必要性があったとは思えない。
これは、国民が見たかったものではなく、明らかに、IOCが見せたかったもの。公認記録としては良いのだろうが、わざわざお金を払ってまで観るものではない。
五輪の人命軽視の記録
沖縄戦、広島原爆、福島震災、そしてコロナと、たくさんの災害にも打ち勝つ日本というフレームが作り上げられる。
一方で、死んだ人たちや意見が違う人の存在を拒絶、排除し自己肯定だけを続けるやつらが歴史を記録し語る。サイドAもBもまとめてこんなにひどいドキュメンタリーはみたことない。
バッハ、森喜朗、橋本聖子、警備、調理、建築のスタッフらがいかに苦労したかという自慢話だけがひたすら続いていく。泣きながら話すものまでいる。
コロナ禍で亡くなった人、それだけではなく前述の沖縄戦や原爆、震災で亡くなった人たちの声を聞くことはできない。しかし勝手に「やってほしいはずだ」と決めつけるな。
コロナ対応に充てられるはずの病床や医療人員を盗み、強行開催したのは、助けられる余地のある人を見捨てたことになる。
沖縄戦、広島原爆、福島の津波もまた国がやるべきことをやらなかったせいで人が大勢死んだ。コロナもしかり。回復した人にインタビューで「医療に感謝、分断されてはいけない」と言わせていたが、その人は生き残れたからそう言えるのだ。死んだ人は語ることができない。「分断してはいけない」と分断している側(映画製作者)が回復者の口をつかって言わせる。最初に殴っておいて、反撃されたら暴力反対と言ってるようなものだ。
五輪なんかやってる場合ではなかった、不要なのだとこれからも語り続ける必要がある。先日五輪委員会が解散したが予算や使途については不明なままだ。完全なやり逃げだ。検証もさせない気満々。
なお、あの寒々しい開会式と入場はほぼカット。AでもBでもほとんど流れません。ドローン、大坂なおみ、森山未來くらい。がーまるちょば、劇団ひとり、真矢みき竹中直人も全部なし。特に小山田圭吾問題など不都合なものはまるっきりカットされています。それでも見栄えがしない開会式と入場の場面は後世のひとが「なんでこんなに照明暗いの?」「引きの絵少なすぎてなんだかわからない」となること必死。
重層的な困難の記録
地方に住み、新型コロナに直面する中、東京オリンピックについては、いいとか悪いという程の感慨も持てないまま過ごし、河瀨直美監督のファンということもなく、なおかつSIDEAを見漏らした者ですが、なぜかこのSIDEBは見ておいた方がいい予感がして、コロナ後初めて映画館に足を運びました。オリンピックを介した壮大な困難の記録映画を目の当たりにしたんだなというのが、見終わった感想です。
IOCのバッハさん、JOCの森さん、橋本さん、開会式・閉会式に関わるはずだった野村萬斎さんやMIKIKOさん、無念を抱えたバトミントンの桃田選手や、400メートルリレーの選手たち、開催が危ぶまれるまま裏方として新型コロナに対応する医療従事者、選手村の食事を支えたり、会場の芝を管理したり、バスケットの臨時会場を設営したりする現代的日本職人の皆さん…そういった困難の背後に、沖縄戦、東日本大震災、原子力災害、先の東京オリンピックの円谷選手の無念も織り込まれていました。選手や現代的職人衆の困難に対し、政治的なドロドロした困難への評価は人それぞれでしょうが、そこから目をそらしたらここまで重厚な困難の記録はできなかったと思います。
河瀨監督自身、そのような困難に巻き込まれた一人として、SIDEBという普通はないオリンピック記録映画を作らざるを得なかったのでしょう。そして、その背後に東大寺という動乱や疫病に対し鎮護国家をめざした先行国家プロジェクトを置いたのは監督の慧眼だと思いました。そこには芸術の鎮めの力も描かれ、萬斎さんの無念もありながら、森山未來さんの舞踏により、最低限その役目をつなげたことがしっかり描かれ、胸に迫りました。
監督、およびこのBの制作を許した関係者の方々に敬意を表します。封切り日にかかわらず、観客5人という寂しさでしたが、この映画は歴史に残るし、歴史の記録としても残ると思います。
疑似体験じゃなく、様々な困難を実体験として経験したことのある方には、この映画の重みが分かって頂けるのではないかと思います。
修行映画。
2部作観てからどうか?
だった今作。
賛否あるんだけど、
これをドキュメンタリーとするなら
どう感じるか我々次第。
東京2020は確かに前代未聞だったかもしれない。
そういう意味でも今作はただの公式じゃなくて。
完全に我々への挑戦だったと思う。
良かった。悪かった。
ではない。
ただただ、我々が試されてるんだ。
大会関係者、一般市民、ボランティア、医療従事者
がメインですよね!
なぜ、選手がクローズアップされてるの?
なぜ、また森さんが登場するのだろうか?
橋本聖子さん、本当にお疲れ様でした。
東日本大震災がクローズアップされる意味がわかりません。
Aよりは、よかったです。
『どうやったらできるか』、これも記録映画である
このオリンピック開催前年11月の体操の国際大会閉会式の中で、体操の内村公平さんが「国民の皆さんの『五輪ができないのでは』という思いが80%を超えているのが残念というか、しょうがないと思うけど、『できない』ではなく、『どうやったらできるか』を皆さんで考えて、どうにかできるように、そういう方向に変えてほしい」と、日本を代表するアスリートとして、意を決して自らの思いを公の場で発言された。
この映画は、後にこの2021年に、東京オリンピック・パラリンピック2020が、”どうやってできたのか“を伝える、ひとつになると思う。
エンブレム問題、国立競技場設計コンペの結果が変更された問題、最終演出責任者交代問題など、映画に取り上げられなかった、他にもいろいろ話題になった問題はあるものの、この東京オリ・パラ2020の記録として見直す意味はあると感じられました。
招致の段階では、東日本大震災の被災地への支援に対する謝辞・復興指標とすることが、東京・日本で開催される意義として大きく取り上げられていたが、開催直前にはコロナ禍での開催の方が注目が移ってしまい、この東京オリ・パラ2020の結果として、非常に残念に思っていますが、2013年アルゼンチンのブエノスアイレスで、2020年のオリ・パラ開催都市に東京が選ばれる為の招致準備(招致表明は2011)から考えると、この2021年の大会閉会式が終わるまでの約10年、この東京オリ・パラを『どうやったらできるか』考え・取組んでくれた方々(主催・協賛・ボランティア、会場作りに関われた方々、アスリートを育てられた方々、医療関係者、その他いろいろな関係者)のおかげで開催出来た大会でした。
この大会の開催にあたり、反対や中止を求める考えがあった事、この映画の中では取り上げられなかった、商業主義で大きくなってしまった問題も、オリ・パラにはあります。
ただこの映画は、今回『どうやったらできるか』を考え・取り組んだ方々によって、アスリートは目標・体現出来る場を持て、悔しい結果に終わった方々、うれしい結果をつかむ事が出来た方々、その経過や結果により感動を受けた方々がいて、そして次のパリのオリンピック・パラリンピックへの”バトン”をつなぐことの出来た”東京オリンピック・パラリンピック2020”の記録映画にはなっていると思います。
余計、アスリート中心のSIDE-Aの映画の出来が残念に思われます。
全39件中、21~39件目を表示