「さりげなく込められた宗教的側面についての覚え書き」セイント・フランシス 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
さりげなく込められた宗教的側面についての覚え書き
この映画については当サイトの新作評論の枠に寄稿し、その中で「題名を含め、宗教的な要素は本作の要所要所で認められるものの、さらりとフラットに扱われている」と書いた。実は鑑賞してから執筆前の下調べの段階で、初見では気づかなかった宗教的な要素を知り興味深く思ったのだが、残念ながら評論枠の字数の都合で詳しく言及できなかった。そこで、このレビュー枠ではそうした宗教的要素について補足してみたい。
前置きをもう一点。このレビューにストーリーに関するネタバレはないが、作り手(脚本と主演のケリー・オサリバン)が役名などに込めたであろう意図について触れるので、鑑賞前に読むと予備知識がある種の先入観になり、まっさらな状態で映画に向き合うことの妨げになる可能性はある。そんなわけで、鑑賞後に読んでもらえるとよりありがたいかなと思う。
では、ようやくここから本題。まず、自身の体験を映画中のエピソードに反映させたオサリバンは、アイルランド系カトリック信者の移民家系に生まれ、8年生(14歳頃)まで「無原罪の御宿り」という教義に基づく学校に通っていた(ブリジットも幼稚園から8年生までカトリック校に通ったと話す)。“御宿り”とは聖母マリアがイエスを身籠ったこと。妊娠、出産という要素は本作とつながりがある。なお、ブリジットがマヤたちの家の廊下で目にするのは、「絶えざる御助けの聖母」という宗教画。
日本の人名や行事などに漢字文化と仏教的価値観が浸透しているように、欧米にもラテン語・ケルト語などを含む印欧語族の文化とキリスト教的価値観が根付いている。映画の主要人物2人、フランシスとブリジットの名前についても、調べるといくつかわかることがあった。
まずフランシス(Frances)は、男子名Francisとともに、古くは「自由な人(free man)」を意味する名前。また、「アッシジの聖フランチェスコ」(英語表記はSaint Francis of Assisi)という12~13世紀の有名な聖人がいて、その思想のひとつに、人類すべてと森羅万象が天の父とマリアを母とする兄弟姉妹だとする「万物兄弟」があるという。映画のフランシスの家族も、男性の父親と女性の母親という伝統的な家族の形式にしばられず、現代の多様性尊重に通じる“自由な”家族の形を体現している点も、「フランシス」の含意と通じるように思われる。
もう一方のブリジット(Bridget)は、ケルト語派で「力、強さ」を意味する言葉に由来する女子名で、アイルランド系に多い名前だそう。やはり同じ名を持つ有名な聖人として、5世紀頃にアイルランドで慈善活動を行った修道女「キルデアの聖ブリギッド」がおり、別名は「ゲール人のマリア」(ゲール人は今のアイルランド人やスコットランド人の祖先にあたる)。聖ブリギッドは乳児や私生児の守護聖人として崇敬されているという。父親がいない6歳のフランシスの子守りをし、またマヤが産んだ乳児のウォーレスもあやす主人公に、オサリバンがブリジットという役名をつけたのは偶然ではないだろう。さらに、ウォーレスの洗礼式後に教会の庭で参加者らが会食する終盤のシーンには、マリア像に見守られる位置でブリジットが赤ワインを飲んでいるごく短いショットも挿入されている。
以上、散発的ではあるが、本作の宗教的側面について理解の助けになるかもしれない情報を書き出してみた。キリスト教に詳しい研究者や宗教家なら気づくであろう、象徴的な要素や示唆的なエピソードが作中にまだまだあるだろうし、誰かが書いていたらぜひ読んでみたい。