ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地のレビュー・感想・評価
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伝説の映画を作り上げた天才っぷりにおののく。
伝説の女性監督シャンタル・アケルマンの特集が企画されたことで、アケルマン作品がまとめて観ることが叶った。その上映作品の中でも、アケルマンの代表作として知られてるのが本作。3時間かけてある主婦の日常を淡々と負い続けるのだが、次第に見ているものが静かな闇に囚われていくような、閉塞感の映画である。
一方で、家事という日常の作業の所作の、リズミカルな美しさを捉えた作品でもあり、その行為をルーティンとして繰り返す作業こそが主人公のセイフティネットになっている。しかしギリギリのところでそのネットが千切れて弾ける瞬間が大きなクライマックスになっていて、その点を見ても女性を抑圧する社会を告発した映画なのだと感じる。
さりとて何が是で非なのかを追求するのではなく、人をグレーゾーンに放り出す作風であり、これを20代で撮ったアケルマン恐るべしという凡庸な感想に収まってしまうのは、まあこちらが凡人だからなのだろう。
ただひとつだけ残念だったのは、作品のコンセプトを事前に知識として知ってしまっており、やはりこの映画の驚きとは初対面で出会いたかったと思う。伝説の映画だからこそ、お勉強として観てしまうというもったいなさ。なのでこのレビューはネタバレありにチェックボックスを付けておきます。
何の予備知識もなく、見てほしい。
シャンタル・アケルマン映画祭2023で観賞、3時間20分、少しも退屈することはなかったが、極めて強い集中力と緊張感を持って撮影されているからだろう。
夫を戦争で失い、息子と二人で質素なアパートで暮らす、主婦ジャンヌの日常が淡々と固定カメラで撮影される。日常生活の中心になっているのは、日々の糧(Pain Quotidien)の材料を買い出しにゆき、台所で調理し、後片付けする家事にある。食事の中心は、茹でたジャガイモと肉料理。特に、ジャガイモはドイツや英国を含む北ヨーロッパの日常食。コーヒー一つ淹れる時も、必ず豆を挽くところから。全てが念入りで、しかも規則的であり、完成している。その他、起床から就寝するまで、身繕いし、ベッドを畳み整え、服のボタンを探し、カナダの妹に思いを巡らし、リセに通っているらしい思春期の息子と勉強し、新聞と本を読み、ラジオの音楽を聴く。糧を得るためのジャンヌの仕事も、その一環のようで、その後、簡単に沐浴する。近所の赤ん坊の面倒を短時間見て、買い物の時は、近くのカフェに寄って、いつもと同じ席でコーヒーを飲み、夕食のあとはゴミ捨てを兼ねて散歩にゆく。
これらの動きを繋いでいるのは、古いエレベーターを呼び、ドアを開けて乗り降りするところ。ところが、家事の中でも出てこないことがあり、それは床掃除と洗濯など。また、日々の糧から強く連想される宗教(おそらくユダヤ教)に関わることも、神への祈りを含め、一切出てこなかったように思う。
固定カメラのロング・ショットから考えて、小津の撮り方に間違いなく影響されているが、日常生活の緊張感が異なる。個人の物語と家族や知人たちとの交流では違いすぎるのではないか。
ただ、二日目には、綻びを見せる。何よりも、髪がわずかに乱れていた。しかも、それを帰宅した息子に指摘される。息子は、母の仕事を知っていることになる。三日目には、完全に破綻する。
おそらく、この作品は、定型的な家事を中心とした女性の日常生活の奥底には、どんなにそれらを完璧にこなしたとしても、家族や宗教などでは到底、埋め合わせすることができない、深い闇が広がっていることを、初めて示したのだろう。
是非、何の予備知識もない状態で、できれば映画館で見てほしい。そのためには、この文章もまた「ネタバレ」とするしかない。
「“劇的なもの”でないもの」の威力
3時間に渡り、寡婦の日常を段々と描く。不穏な要素ーー思春期の息子、カナダにいる妹、そして何より売春らしき行為ーーが散りばめられているが、そこには最後までフォーカスされない。それよりも、ルーティンとしてこなしている日常的な行為が描かれる。起こることと言ったら、毎日茹でているじゃがいも茹でに失敗する(日本でいうとご飯の水加減に失敗する感じ?)、靴磨きのブラシをすっ飛ばす、ボタンを掛け忘れるなど細やかなズレ。(そういったズレが描かれていくことで、この人の人生がちらりと垣間見えるのも印象的。)それでもルーティンに軌道修正しようとするが、次第にズレのほうが大きくなり……。
常にソワソワとしている主人公だけに、座り込んでいる場面に重みがあった。
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