ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地のレビュー・感想・評価
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伝説の映画を作り上げた天才っぷりにおののく。
伝説の女性監督シャンタル・アケルマンの特集が企画されたことで、アケルマン作品がまとめて観ることが叶った。その上映作品の中でも、アケルマンの代表作として知られてるのが本作。3時間かけてある主婦の日常を淡々と負い続けるのだが、次第に見ているものが静かな闇に囚われていくような、閉塞感の映画である。
一方で、家事という日常の作業の所作の、リズミカルな美しさを捉えた作品でもあり、その行為をルーティンとして繰り返す作業こそが主人公のセイフティネットになっている。しかしギリギリのところでそのネットが千切れて弾ける瞬間が大きなクライマックスになっていて、その点を見ても女性を抑圧する社会を告発した映画なのだと感じる。
さりとて何が是で非なのかを追求するのではなく、人をグレーゾーンに放り出す作風であり、これを20代で撮ったアケルマン恐るべしという凡庸な感想に収まってしまうのは、まあこちらが凡人だからなのだろう。
ただひとつだけ残念だったのは、作品のコンセプトを事前に知識として知ってしまっており、やはりこの映画の驚きとは初対面で出会いたかったと思う。伝説の映画だからこそ、お勉強として観てしまうというもったいなさ。なのでこのレビューはネタバレありにチェックボックスを付けておきます。
時間もしくは出来事が少し足りない
◎同じフレーミングの固定カメラでルーティンを反復的に捉え続け、ルーティンの綻びをサスペンスとして見せていく映像的表現が見事
◎観客の体感がジャンヌの日常と同化するような長回しによる各シーンの時間経過
◎リズムが狂い始めてからの非対称的な構図や、閉塞的なブロッキングも効果的にジャンヌの心情を語っていると感じた
◎家事という日常の所作の美しさ、子気味良さ
◎「子気味良さ」から徐々に「神経質」「支配的(と同時に被支配的)」な面が見えてくる。ゆっくり見え方が変化していき、ゾワゾワとした違和感で目が離せなくなる。じっくりしたテンポなのに充分に引き込まれる。
◎ほとんど止まることなく常に動いていたジャンヌが、リズムが狂って以降はたまに止まる。ただ1分間座っているだけでも強烈な違和感。常に時間に支配される自分への反抗⇄精神が保てずルーティンがままならない、を行ったりきたり、という風に初見では感じた。ラストでは7分間静止する。
× 小さな綻びが積み重なり、ジャンヌの中で大きくなっていってあのクライマックスに辿り着いたということだと感じたが、何年も(夫が亡くなって6年)同じような日々を繰り返していて、映画の「2日目」の最初の綻びから、「3日目」のあの状態になることへの納得感が、本作の尺をもってしても自分には足りなかった。
最初にジャンヌのルーティンが崩れたと感じた2回目の売春行為のシーンで何か見逃したかと再見したが、特になさそう。その後の息子との会話も、ジャンヌの精神を壊すほどとは思えず。
では、家事などの日常において自分のコントロールがとにかく及ばない気分になっていき、最後の売春で相手にのしかかられオーガズムを感じてそれが最大化したという方が監督の意図には近いのだろうな、と思ったが、それでもやはりクライマックスの納得感には不足を感じた。
監督の発言*を読んでみて、「2日目の売春時にオーガズムを感じたことが最初のしくじりだった」とあったが、それでもやはり納得できず。初めてオーガズムを感じたのではないだろうし、そこから家事のしくじりを通常よりは幾分多く繰り返した24時間後のオーガズムによりあのクライマックスが引き起こされるか。「何年間もの日常が爆発した最後の24時間」とも思えなかった。
*アケルマンの発言: 「儀式とルーティンがあったからこそ、ジャンヌはやってこられたのです。判りますか。最初は儀式が押し付けられます。でもその後は儀式のお陰でやって行けるのです。だから、オルガズムを感じてしまうことが最初の「しくじり」(actes manques)となるのです。その後は「しくじり」が続いていきます。なぜなら、彼女は自分と無意識とのバリアーを守っていくほど強くなくなってしまったからです。(中略)そうして、ジャンヌは原因を抹消することで結果も殺せると考えたのかも知れません。でも実際は、原因は彼女自身なのです。というのも、そのことが起こるのを彼女自身が許してしまったからです。もちろん意識的ではなく、そうなると判っていたわけでもありませんが」
何の予備知識もなく、見てほしい。
シャンタル・アケルマン映画祭2023で観賞、3時間20分、少しも退屈することはなかったが、極めて強い集中力と緊張感を持って撮影されているからだろう。
夫を戦争で失い、息子と二人で質素なアパートで暮らす、主婦ジャンヌの日常が淡々と固定カメラで撮影される。日常生活の中心になっているのは、日々の糧(Pain Quotidien)の材料を買い出しにゆき、台所で調理し、後片付けする家事にある。食事の中心は、茹でたジャガイモと肉料理。特に、ジャガイモはドイツや英国を含む北ヨーロッパの日常食。コーヒー一つ淹れる時も、必ず豆を挽くところから。全てが念入りで、しかも規則的であり、完成している。その他、起床から就寝するまで、身繕いし、ベッドを畳み整え、服のボタンを探し、カナダの妹に思いを巡らし、リセに通っているらしい思春期の息子と勉強し、新聞と本を読み、ラジオの音楽を聴く。糧を得るためのジャンヌの仕事も、その一環のようで、その後、簡単に沐浴する。近所の赤ん坊の面倒を短時間見て、買い物の時は、近くのカフェに寄って、いつもと同じ席でコーヒーを飲み、夕食のあとはゴミ捨てを兼ねて散歩にゆく。
これらの動きを繋いでいるのは、古いエレベーターを呼び、ドアを開けて乗り降りするところ。ところが、家事の中でも出てこないことがあり、それは床掃除と洗濯など。また、日々の糧から強く連想される宗教(おそらくユダヤ教)に関わることも、神への祈りを含め、一切出てこなかったように思う。
固定カメラのロング・ショットから考えて、小津の撮り方に間違いなく影響されているが、日常生活の緊張感が異なる。個人の物語と家族や知人たちとの交流では違いすぎるのではないか。
ただ、二日目には、綻びを見せる。何よりも、髪がわずかに乱れていた。しかも、それを帰宅した息子に指摘される。息子は、母の仕事を知っていることになる。三日目には、完全に破綻する。
おそらく、この作品は、定型的な家事を中心とした女性の日常生活の奥底には、どんなにそれらを完璧にこなしたとしても、家族や宗教などでは到底、埋め合わせすることができない、深い闇が広がっていることを、初めて示したのだろう。
是非、何の予備知識もない状態で、できれば映画館で見てほしい。そのためには、この文章もまた「ネタバレ」とするしかない。
「“劇的なもの”でないもの」の威力
3時間に渡り、寡婦の日常を段々と描く。不穏な要素ーー思春期の息子、カナダにいる妹、そして何より売春らしき行為ーーが散りばめられているが、そこには最後までフォーカスされない。それよりも、ルーティンとしてこなしている日常的な行為が描かれる。起こることと言ったら、毎日茹でているじゃがいも茹でに失敗する(日本でいうとご飯の水加減に失敗する感じ?)、靴磨きのブラシをすっ飛ばす、ボタンを掛け忘れるなど細やかなズレ。(そういったズレが描かれていくことで、この人の人生がちらりと垣間見えるのも印象的。)それでもルーティンに軌道修正しようとするが、次第にズレのほうが大きくなり……。
常にソワソワとしている主人公だけに、座り込んでいる場面に重みがあった。
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