「時間もしくは出来事が少し足りない」ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地 HAPICOさんの映画レビュー(感想・評価)
時間もしくは出来事が少し足りない
◎同じフレーミングの固定カメラでルーティンを反復的に捉え続け、ルーティンの綻びをサスペンスとして見せていく映像的表現が見事
◎観客の体感がジャンヌの日常と同化するような長回しによる各シーンの時間経過
◎リズムが狂い始めてからの非対称的な構図や、閉塞的なブロッキングも効果的にジャンヌの心情を語っていると感じた
◎家事という日常の所作の美しさ、子気味良さ
◎「子気味良さ」から徐々に「神経質」「支配的(と同時に被支配的)」な面が見えてくる。ゆっくり見え方が変化していき、ゾワゾワとした違和感で目が離せなくなる。じっくりしたテンポなのに充分に引き込まれる。
◎ほとんど止まることなく常に動いていたジャンヌが、リズムが狂って以降はたまに止まる。ただ1分間座っているだけでも強烈な違和感。常に時間に支配される自分への反抗⇄精神が保てずルーティンがままならない、を行ったりきたり、という風に初見では感じた。ラストでは7分間静止する。
× 小さな綻びが積み重なり、ジャンヌの中で大きくなっていってあのクライマックスに辿り着いたということだと感じたが、何年も(夫が亡くなって6年)同じような日々を繰り返していて、映画の「2日目」の最初の綻びから、「3日目」のあの状態になることへの納得感が、本作の尺をもってしても自分には足りなかった。
最初にジャンヌのルーティンが崩れたと感じた2回目の売春行為のシーンで何か見逃したかと再見したが、特になさそう。その後の息子との会話も、ジャンヌの精神を壊すほどとは思えず。
では、家事などの日常において自分のコントロールがとにかく及ばない気分になっていき、最後の売春で相手にのしかかられオーガズムを感じてそれが最大化したという方が監督の意図には近いのだろうな、と思ったが、それでもやはりクライマックスの納得感には不足を感じた。
監督の発言*を読んでみて、「2日目の売春時にオーガズムを感じたことが最初のしくじりだった」とあったが、それでもやはり納得できず。初めてオーガズムを感じたのではないだろうし、そこから家事のしくじりを通常よりは幾分多く繰り返した24時間後のオーガズムによりあのクライマックスが引き起こされるか。「何年間もの日常が爆発した最後の24時間」とも思えなかった。
*アケルマンの発言: 「儀式とルーティンがあったからこそ、ジャンヌはやってこられたのです。判りますか。最初は儀式が押し付けられます。でもその後は儀式のお陰でやって行けるのです。だから、オルガズムを感じてしまうことが最初の「しくじり」(actes manques)となるのです。その後は「しくじり」が続いていきます。なぜなら、彼女は自分と無意識とのバリアーを守っていくほど強くなくなってしまったからです。(中略)そうして、ジャンヌは原因を抹消することで結果も殺せると考えたのかも知れません。でも実際は、原因は彼女自身なのです。というのも、そのことが起こるのを彼女自身が許してしまったからです。もちろん意識的ではなく、そうなると判っていたわけでもありませんが」