私のはなし 部落のはなしのレビュー・感想・評価
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3時間半という長さを感じさせない、自分事として部落問題を捉えられる作品
昨年見損ねていた作品を本日ようやく鑑賞しました(しかも今日が最終日)。部落問題を扱ったドキュメンタリーです。タイトルの通り、「私のはなし」として、党派や団体から切り離した個人の実感、肌感覚、「肉感」として部落問題が語られています。関東ではもうやっているところも少ないのですが、機会がございましたら、是非ご高覧あれ。
この地域ならではのポジティブさってもっとあると思うんだ
部落問題に関することは理解出来ました。 ただこの歴史ある地域だからこそ、先祖から受け継いだポジティブな伝統や文化や習慣があるはず。 差別と抵抗にスポットが当てられている一方で、この地域ならではの魅力がわからなかったのがちと残念ではありました。 なお、差別をなくすにはこの地域から ①総理大臣を出す ②国会議員を多く輩出して地域に有利な法案をガンガン通す ③大企業を作って高額所得者を増やす ④子どもの有名大への進学率を増やす&他地域で活躍させる(=故郷のイメージ向上) とかどうだろう、と思ったりしましたが。いや、論点はそこじゃないことは理解していますが。
「破戒」に感動した方はぜひ…‼️
休憩を挟んで3時間半、こんなに長い映画は初めて見たし、ドキュメンタリーになっているのも初めて見ました。 「破戒」の頃より、部落差別が世の中に混ざっていて、もう、箸で摘んで取り出す、というようなことはできないのだとわかりました。 どの人の話も重かったし、同じ当事者でも考えが違うことがわかりました。 差別する側にも話を聞いていましたが、血が大事だから、って、何を言っているのかと唖然としました。 「破戒」では、人は弱いから差別する、と、言っていましたが、それだけでは無さそうです。 長くて重くて、二度見たいとはとても思いませんが、見てよかったです。監督は、どのように思っているのかがちょっと分かりにくい感じはしました。 当事者ではないから、関係ないから、で済ませたくないし、綺麗事かもしれないけれど、やっぱり差別は無くしたい。 自分にできることを精一杯やっていこうと思います。
私のはなし、となって来ているのに、。
「部落差別」は、いかにしてはじまったのか なぜ私たちは、いまもそれを克服できずにいるのか? 残念ながらこの映画では答えはなかった。 そして、この映画を観てあの頃の奇妙な新聞報道を思い出すと、あの様な壮絶な報道も無くなりこの問題は終わりつつある様に思える。 それを今更取り上げる、寝た子を起こす、あの「部落地名総鑑 復刻版」裁判があるからなのか? しかし、この問題以上の奇妙な事件がこの国には続発して、地域地名の問題ではなく、 「私のはなし 」、と言う個人の問題、課題になりつつあることは間違いないと思う。そう、風化しつつある。 そしてそれが、下の人間は下を作る、 と崇仁の老女が言っていた様に、 この国の社会構造が阻害された邦人、外国人労働者や難民等の人達から想定外の事件が派生して新たな同類の問題があることに気付いてしまう。 そんなことで、この映画は、監督の私のはなしではなく、リベンジであってもらいたい。 それは、屠場とそこで働く人々を捉えたドキュメンタリー「にくのひと」で第1回田原総一朗ノンフィクション賞を受賞した満若勇咲。 でも、屠場とじょうとそこで働く人々を写した『にくのひと』(2007年)は各地で上映され好評を博すも、劇場公開を断念せざるをえなかった。 そんなことでこれからも多くの語り部が私の生の記録を多く残して風化して消滅させないでもらいたいのだ。 それにしても、この問題の研究者黒川みどり先生の俯瞰した説明には驚いた。 著書も多くあり読んでみたい。
差別はする側は意識がなくてもされる側は気にするもの
江戸時代の日本には士農工商の下に穢多と非人と呼ばれる賤民が存在した。1871年に明治政府が発した解放令により賤民身分は廃止されたが、それ以降も彼らが住んでいた地域は、部落、と呼ばれ、差別は残った。現在、法律や制度上は、部落や部落民は存在しないが、少なくない日本人がいまだに差別意識を持っているのが現状。 部落差別の起源・変遷から現状までを、差別の歴史と背景を描いたドキュメンタリー作品。 被差別部落といっても屠殺や死刑執行人の穢多の事だけで、非人は描いていない。 差別はする方は何も意識してなくてもされる方はすごく覚えているものだと改めて思った。 広島も被爆者の差別があり、自分が被爆者だと言えずに過ごした人が多いのでよくわかる。 ただし、今回の被差別部落については、小学校でも授業で習ったし、隣の集落が被差別部落だったから、同和対策と言って広くて綺麗な道が整備されたりと、逆差別を感じた経験が有るから、いちがい共感は出来ない面もある。 三重、京都、兵庫で実名を出して自分の体験を語る人が出てて凄いと思った。 内容は知ってる事ばかりで、特に目新しいものは無かった。 金持ちと貧乏人、役職の上下、公務員と民間人、差別意識はどこにでも存在するものだと思うし、人種や肌の色の違いなど自分ではどうしようもない環境下での差別も多く存在する。 いくら綺麗事言っても差別は無くならないと思う。
タイトルなし
昔受けた研修で啓蒙教育が却ってバラまいているという説が有ると聞いた それ以来あまり耳にしないので、授業には入れないのが主流なのかと思っていたのですが それにしても皆さん実名でしょうか?具体的な地名もバンバン出てきます 関西の方ばかりだけど… 更に部落の写真をネットにあげたり、本を出版しようとしている張本人の宮部氏も顔も隠さずインタビュー応えているのでびっくりしてしまった 彼には彼の言い分があるのだと思った デリダ(このような問題に関心持ってたのね いや松阪牛が好きだっただけか?←中上健次という方と松阪牛の弁証法で論じた内容のようです 後で調べた)の文化遺産になってしまっていて政治では解決しないって言葉が残念だけど言い得て妙なのか
日本人の原罪か?
なにしろ日本人というものは、潜在意識の中に、神道を抱えて生きている。 神道は兎に角ケガレを嫌う。何かというと浄めたり祓ったりする。ケガレの最たるものは死や血である。そこに触れたら浄めないと気が済まない。今でもそうでしょう。 だから、常にケガレに触れる仕事をしている人は一ヶ所にまとまって離れて暮らして貰いたい。「助かるなあ」とか「ありがたいなあ」とか思う反面、「怖いな」「近寄りたくないな」と思ってしまう。それが共同体の意識じゃないかな。想像ですけど。 そうやって江戸時代までやってきたのに、明治政府が無理矢理新平民なる身分を作って、差別するべからずという。しかも、我々にケガレを忌む心を植え付けた、神道の最高祭祀である、天皇の名の元にである。急に同じ人間ですよと言われて、同じ立場や仕事に就かれても、そりゃ混乱したのだろうな。少しはリスペクトしていたはずなのに、穢らわしいという気持ちだけが増長したのではないか。 別に、身分制度が有った方が良かったというわけじゃない。ここは日本国民どうし、歴史を冷静に見つめて、何十年何百年経っても人間というものは中々成熟しないものだなあと俯瞰的に自らを省みることが、この問題を乗り越える為には必要なんじゃないかな、なんて思いました。
貴重なインタビュー映像、体験の実感
自分のなかで大学生くらいの時に初めて知り、問題把握が不十分単純になんだかよくわからない理解したいのにわからない厄介な問題であった部落問題。日本のことであるのに翻訳通訳が必要なレベル感のわからなさと、対峙し立ちはだかる[子どもの頃から実体験実人生に部落が身近にあった人]との隔絶感距離拒否反応、などを克服し少しでもという入口を求め映画館へ。そしてまさにそのことを体験した三時間余であった。 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず 福沢諭吉 であるからして、部落差別は何の相違もない人々差別するから、人が人の上と人に下を作り差別したものである。当たり前のことだが、まず前半ここが腑に落ちる。差別される側は何でかわからず、差別する側はファクト的なものは一切ない意図的に恣意的に作り出し、その後も、同和なる謎の言葉による差別の見える化をおそらくあえて継続してきたのだろう。同和ということばの成り立ちも理解。 黒川みどり先生の、板書が素晴らしく理解を、核心を掴ませてくれた。 今2022年においても、同和という言葉が行政でも使われているのか、もはや、貧困対策貧困問題でよいのではないか。 知らないことをそのままでよしとしない、因習や慣習や刷り込みやそういうものに取り込まれず騙されずまた自分を騙さない理性と知性を持って考えていく気持ちを改めて強く持つことができ、入り口を示してくれた素晴らしい真摯ななドキュメンタリー作品。そもそもフィクションであった部落差別、部落という存在をノンフィクションに丁寧に解き明かし掘り起こした作品。感謝しかない。 以下は 上映後の、監督と黒川みどり先生のトークを拝聴した。 聞いた文言通りではないがその時のメモ備忘のため。 社会構造の問題と捉える イコール 自分の問題と捉え返す タブーを作らず広範な取材をしたこの作品がメディアにも大きく取り上げられた、社会の反応という現象を創出したことの凄さ 天皇制と部落差別の問題、 制度としての天皇制を廃止しても部落差別はなくならない という話 昨今の天皇制に対する受容の変化があることも関与している 天皇制と部落差別は密接に結びついている。 明治4年の解法令はありがたいものという受け止めら、、 天皇制は思考停止させてしまうという局面があるのであれば、天皇制に囚われている、そうなりがちな私たちは、知性を持って取り組むべきだ、 血筋のこだわりが差別の理由、根源となっているなら血筋の最たる頂点にある天皇制との関わりは否めない なぜ近代社会に差別が存在してきたか、 運動史や政策史では捉えきれない、 運動史を突き抜けて、なぜ差別が存在してきたかしているかを問い続ける研究 取材の過程でも自然と天皇の話が出てくる場面が多かった。 部落問題の一側面しか描けていないという認識ある、作品ができたから完成ではなく上映しながらさらに勉強、問いかけを続けていかねばならない
作品を観てから、周りの人との会話で話題にした。 表面的な偏見はまっ...
作品を観てから、周りの人との会話で話題にした。 表面的な偏見はまったく感じさせないが、言葉の端々に感じるこびりついた払拭しきれない何かを感じた。 でも、どうせ、やっぱり、語尾の言葉に根深さと人間の本質が見え隠れする。 簡単には考えを口に出来ないなと思う。
舞台挨拶も聞いて...
途中でトイレ休憩がある映画を見たのは初めてでした。しかし、長さを感じなかったです。現代における部落で生まれ育った人からの視点、同じ校区でクラスメイトに部落出身の友達がいるという友達からの視点が丁寧に描かれていたと思います。また、隣の家と部落と言われてるエリアの家...現在境界線も何もないのに、昔からの 目 としての境界線...また監督が以前作った映画も放映出来なかったというエピソードもあり...色々考える機会になりました。
寝た子を起こすな。
この手の話を知るたびに、自分はつくづく幸せだと感じる。今思い起こせば酷いことだが、小学生の時に貧乏人をバカにする側の人間ではあった。子供は残酷だと心に痛みを伴って振り返る。だけど、ここまで地域ぐるみでの差別は存在しなかった。実際、その差別の多くは西日本に存在するせいもある。「部落」と言えば、単に集落を意味する単語でしかなかった。だから運動会でも部落対抗リレーとか、普通に使っていた。それがあるときから、「地区」という名称になった。大人に訳を聞くと、それは差別を意味する言葉だから、と返ってきて、あまり触れるなという空気を発していた。それまでの自分たちには、集落ぐるみに差別を受けている人たちがいるなんて知らなかった。だから、「同和教育」という授業の内容もちんぷんかんぷん。そんなことはつい最近まですっかり忘れていた。 ここ数年、宮本常一の本やら中上健二の小説やら読むようになり、カムイ伝に触発を受け、またハンセン病の歴史を知ったりと、明らかに存在していた負の社会を実感するようになった。先日観た「山歌」も同様だ。だけど、それを身近な人に話しても、たいていはやはり皆なんの知識もなく、ちんぷんかんぷん、だ。 随分前の音源だったが、ある落語家(故人)が「アイツ(名を伏せます)が言うんだよ、差別と黒人が嫌いだって」と笑いをとっていた。客にも受けていた。差別する側は、自分たちが差別していることの罪を一つも恥じないのだろう。だから笑えるのだ、人を馬鹿にしていることを気付きもせずに。 たしかに、明治4年の解放令以来、明確に特定されてきた被差別のひとたち。それをこうして映画にすることで「寝た子を起こす」ことになりかねない。実際、そうとも知らずその地に引っ越してきた人もいるようだった。ただ希望は、新興住宅地が増えた大阪の地では「それがどうしたの?」という雰囲気になりつつあることだ。もう、差別してきた世代は歳をとり、いつしか過去のことと気にしていないせいなのだろう。地域によっては、いまだ根深く残る差別は存在するものの、こんな差別はいつの間にか風化していくことが望ましいと感じる。そうは言っても、隠すのではなく、例えばそれを打ち明けられた恋人が屈託なく「あなたはあなた」と言い、また、新しくやってきた住人たちも「昔のことでしょ」と気にも留めなくなることが、彼らにとっての未来かな。 休憩はさんで3時間半、見応え十分。差別をなくすのは、知ることから。ブルーハーツ「青空」を陽気に歌えるその日まで。
鑑賞後、深く考えさせられる映画でした
部落問題について、特定のイデオロギーや団体の主張を押し付けることなく、 この問題について一人ひとりが深く考えるヒントや材料を、 優れた撮影技術とドキュメンタリー形式で冷静に、多面的に提供するような作品でした。 大上段の俯瞰ではなく、あくまで一人称の目線で、 部落問題に関わった(もしくは関わらざるを得なかった)方々の自分史や貴重なインタビューが 重層的にミルフィールのように重なり、不思議な余韻がありました。 特に崇仁地区の80歳くらいのおばあさん(高橋さん)のインタビュー、林さん?の息子さんの語り、黒川みどり教授の解説、が心に残りました。 上映時間は4時間弱ですが、途中休憩もあり長いという印象はありませんでした。 ぜひご覧になることをおすすめします。
部落差別という「鵺(ぬえ)」を探して
この映画は、教科書的解説だけでは容易に正体を現さない部落差別という社会的心理的現象を、関係者の会話や語りを積み上げることで浮かび上がらせようとしている。その結果、被差別部落出身者・(元)解放運動家・研究者・差別心を抱く者たちの言葉や語る姿から、徐々に部落差別の複雑で多様な様態が浮上してくる。 研究者(黒川みどり氏)の話で興味深かったのは、天皇を仰ぎ見る心性と被差別部落出身者を蔑む心性は同じ所から生まれている、その一方で、戦時中は国民総動員の必要性から「一君万民」が強調され部落差別は厳しく批判された(この場合、敵国人が差別の対象にされたのだろう)という指摘である。 部落差別がなくならないのは、この社会で公認されている、少なくとも否定されていない価値観(〝血筋や家柄は大事〟のような)に部落差別が組み込まれているからかもしれない。それが、部落差別をする者に寛容な社会(〝俺はしないけど、差別する奴はいるよね〟的な)を存続させているのかもしれないと、映画を観て考えた。だとしたら、部落差別は、〝血筋や家柄は大事〟的な価値観を否定する社会にならなければ解消されない。それは、〝立派な〟血筋や家柄などに繋がらないほとんどの日本人にとっても生きやすい社会のはずである。 映画の中で特に心を揺さぶられた場面は、20歳の若者3人が自分たちの住む地域について語り合う場面と、20代半ばの青年が地域を離れた友人と電話で会話する場面だった。どちらも繊細で優しく相手を傷付けないように配慮しながら話しつつ、それでも誠実に差別と向き合い自分なりに闘う生き方を模索している姿が伝わってきた。これも、語りや会話をなるべくそのまま作品に残そうとした監督の手法の成果だと思う。そのため映画は3時間半という長さ(途中に休憩あり)になったが、冗長な印象はまったくなかった。
バラバラな人間の言葉が一つになる奇跡
三重、京都、大阪に存在している 被差別地区と言われた場所で今を生きる人たちの言葉を丁寧に紡いでいる。差別がなぜ生まれたのか?、差別はなぜ続いたのか?、差別はなくなったのか? 差別とともに誇りを持って生きている人たちの言葉が その問に答えを与えてくれる。また、歴史文献の朗読、引用が、とても説得力があると感じた。差別は今もある、とはいえ、数十年前、例えば昭和の時代なら、私が幼い頃だったら、このような作品は絶対にできなかっただろう。そういう意味では、今はいい時代だと思った。差別をなくそう、という言葉の虚しさは、すべて不勉強が原因だと思った。長編ではあったが、途中休憩があったのと、最後に監督とプロデューサーのトークが聞けたのは良かった。
上映時間が長すぎて 内容だけに気が抜けないし ずっと緊張感を持って...
上映時間が長すぎて 内容だけに気が抜けないし ずっと緊張感を持って見られるか躊躇したけど 見て良かった これから用語や事象の名前を思い出しながら復習して 人に説明できるくらいの糧にしたい
日本のタブーを語るドキュメンタリー
学校でも同和教育としながら触れられない部分を、現代の若い世代の考え方も取り入れながら、過去の歴史を振り返りながら進む、本格的ドキュメンタリー。監督がフォトグラファーが本職とは思えないデキ。勉強になりました。
教材にするには長過ぎるかも
前々から関心があった「部落差別」ですが、この問題を様々な立場の人達のインタビューを通して考えさせるドキュメンタリーでした。この問題の成り立ちから丁寧に説明しており、大変共感が持てる描き方で、ところどころそのまま学習会等で学べる内容になっていますが、いかんせん3時間半の上映時間は教材するには難しいと思いました。
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