「「お前も自分の居場所がない奴か。」」グッバイ・クルエル・ワールド 野良猫キジトラさんの映画レビュー(感想・評価)
「お前も自分の居場所がない奴か。」
まず最初に営業妨害になるかもだけど、この映画に「好きなだけ銃を撃ちまくり、嫌なヤツを倒してスカッとしたい」という期待をしているなら見ない方がいい。
そういう期待には添えない。
見た後に、「期待外れだ。」なんていうように悪く言ってほしくないからだ。
もちろん映画には色々な側面があるけれど、自分は「沈んだ、暗い」側面に反応してしまった。
感想も何だか「感傷的」になってしまった。
監督は「難しいことは何も考えないで、感じて楽しんでほしい。」と言っていたように思う。
考えないで「感じたこと」を言えば、ひたすら「痛み」を感じていたと思う。
ラブホテル襲撃の後、ギシギシと軋むように、強盗団メンバーそれぞれの世界が壊れ始めていく。
ひとりひとり破滅していく。
それだけでなく周りの他の人間も巻き添えにして。
上の人間で死ぬのは誰もいない。死ぬのは「誰かの下で働いていた」人間なのだ。
強盗団は、やがて殺しあう。
本当に撃つべきなのは、その相手なのか?
誰かの下で働いていた人間同士が、撃ち合いを始めてしまった。おそらく「同類」の、味方ではないが敵とも言い切れない、「同類」を撃ち始めた。
それが、自分の感じる「痛み」の原因だと思う。
西島秀俊が会見で、「この中の一人だけが生き残ります。」と言っていたから、これはネタバレにはならないと解釈して書くけれど、最後に生き残った「あの人」は「映画を見に来た人」の代表なんだと思う。
大森南朋演じる蜂谷刑事が口にする「自分の居場所のない奴」であり、この映画を見に来た人の代表。
生き残った意味は、果たして単なる「死までの猶予」なのか、それとも「自分の居場所を見つけることができる可能性」なのか、この物語は何の示唆も保証もしない。
そこが却って優しいように思えた。
「自分の居場所を見つける」という重荷にとらわれないようにと。
西島秀俊演じる安西は、元組員。
しかし、安西に「ある種の凶暴性」を感じることができない。一般人とは違う「狂気」や「暴力性」を感じ取れない。
それは元組員飯島の語る安西の凶暴性は、追い詰められたゆえだから。
元から持っている凶暴性とは違うから。
奥野瑛太演じる飯島は、安西の前に現れた時には既に狂気を漂わせている。
それまでに味わってきた出来事が、この飯島を壊してしまっていたのがよく分かる。
そして安西も、飯島を前にしてとうとう壊れてしまう。
安西が鉄パイプを振り下ろす一瞬、今までとは違う顔になる。
安西の妻は、それを見まいとして、摺りガラスの戸を閉ざす。
安西が居場所を失う象徴的な場面だ。
安西が離れ行く妻子を見つめる最後の表情が忘れられない。
ここまではネタバレしないように気をつけてきたけど、ここはやはりネタバレにつながりかねないから、ネタバレを気にする人は飛ばしてほしい。
ラストシーンに響く銃声は一発のみ。
実は安西と蜂谷は似ているというか深く通じる存在だと思う。
最後まであがいたけれど、「自分の居場所」を結局見つけられなかった存在同士。
だから一つの影のように、一発だけの銃声なのだと思う。
追記:
何回か観て、印象や解釈が変わった点を。
飯島と対峙する安西の目が実は時々冷たく鋭くなっていることに気づいた。
飯島の動きや勢いが止まったりするのは、目立たないやり取りが交わされていたからかもしれない。
ラストシーンの蜂谷はもしかしたら、「幽霊」かもしれないと思った。
組幹部を撃った後の蜂谷の脚が動くから、あの後立ち上がり、安西のもとに行くのかとも思えるが。
もしくは安西の見た「幻」かも、と。
だから最後の銃声は一発だけなのか、と。
パンフレットでプロデューサーが言っているように、それぞれが解釈できるのが面白い。それを読み合うのも面白い。
読解力不足、注意力散漫の明白な誤解、曲解は困るけど、解釈の違いを楽しめるのはよい。
「こっちが正解だ!」というマウントの取り合いではなく。
追記2:
確かに西島秀俊に、凶悪な元ヤクザ組員のイメージを求めるのは「違う」気がする。
なぜなら、この映画で「安西」に求められていたのは、「哀しさ」だったからだ。
ガソリンスタンドの場面で、若者二人に追い詰められ、「こんなところで血まみれになって……。俺にもお前らにも居場所なんて、どこにもねぇ!」と思いを吐く時、この映画で描きたかったのはこの「哀しさ」だったんじゃないか、と思った。
ラスト近くで妻子からの拒絶を受け、黙って帰って行く。同じく若者二人から刺され、捨てられた蜂谷と「居場所なんてなかった。」と笑い合う時、実は同じ哀しみを味わった者どうしがいる海辺の歩道に、一瞬だけ「居場所」があった。
そして一発の銃声で、その「一瞬の居場所」も消えてしまったんだと思った。