LOVE LIFEのレビュー・感想・評価
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誰にも感情移入出来ない。 妙子にも、二朗にも、元旦那のパクにも、二...
誰にも感情移入出来ない。
妙子にも、二朗にも、元旦那のパクにも、二朗の両親達にも。
自分勝手の究極を描いた作品か?
しかし、見入ってしまう。
「喪失 孤独 近くて遠い 事故マンション系 家族映画」で、パクさんの前の息子さんだけがいい人に見えた。
時間の無駄。
無茶苦茶な映画。登場人物の大半が自分勝手なクズばかり。死んだ息子が可哀想。日本語が話せない韓国人(おまけに聾唖者)の元夫と韓国語の手話で話す主人公が元夫に対して持っていた気持ちは愛情ではなく同情なのか?しかし同情が韓国語の手話を勉強するモチベーションになるのか?彼女は思いつきで韓国行きフェリーに乗ったように見えたのだが常にパスポートを携行しているのか?色々疑問が湧いてきたが馬鹿馬鹿しくてやめた、この映画を観たこと自体時間の無駄だった訳だし、、、
いるようなあ、こういう人たち。
矢野顕子の楽曲「LOVE LIFE 」をモチーフにしたストーリーだそうですが、
どう結びついているんでしょう? 「どんなに離れていても愛することはできる」
「悲しみさえ よろこびに変わる」そんなフレーズが綴られていますが、
この夫婦の愛ではなく、前の夫との愛にも思えるのですが、どうなの?
登場人物は、自分の感情に従って行動する正直な人たちばかり、それを言い換えれば
まわりのことを考えない、自分勝手な人たち。嫌な言い方をすれば、
ダメな人間はダメな人間に惹かれるという、リアルでも見かけるよくあるストーリー。
おもしろい映画だとは思いましたが、出てくる人々はみんな嫌い(笑)
いい気分にはなれませんでした。
う〜む
敬太の母妙子の人間がわからない。
しっかり者ぽくて気が強く
義理父の言葉にも躊躇なくすぐに反応して
臆せず言い返す。
そんな面と
風呂の湯を抜き忘れ蓋もしない面が合致しない。
もちろん、誰にでもウッカリはあるにしても、不自然。
義理父の誕生日会を部下が来て外からの
あんな祝い方する人いるかな?変。
そもそも上司の誕生日を祝うか!
後半元夫が登場してくるがますます
わからない。なぜあの夫と結婚したのか。
韓国人で聾唖者とどのように知り合ったのか。
妙子の仕事上とこじつけているのか。
元夫に惹かれる要素が無く理解できない。
また、義理両親の空き家を提供するのも
身勝手すぎる。義理両親が気の毒に思えた。
二郎をほっておき、
元夫の後を追い韓国まで行く、って
現実離れ過ぎ、
パスポート持っていたの?
元夫、以前にも妻をほって逃げてる、
どうしようもないヤツ。
帰ると二郎普段と変わりなく。
何を言いたいのかわからない作品だった。
人生、山あり谷あり
愚かな行動をして、人を傷つける言葉を吐く。
それが人間です。
心が波立ち、ザワザワして、イライラする映画でした。
が、余韻は残る、そして後味も良かったです。
深田監督は矢野顕子の「LOVE LIFE」から発想したと聞きます。
「どんなに離れていても、愛することはできる。
「もうなにも欲しがりませんから、そばに居てね。
「ほほえみくれなくてもいい、でも生きていてね、ともに。」
発想から遠くへ発展したのかな?
子連れで再婚した妙子と初婚の二郎。
二郎の両親ははじめ反対したが押し切る形で結婚式を挙げて、
3人(6歳の啓太と、)は仲良く暮らしていた。
義父の誕生日の日、啓太は風呂場に落下して溺れて死ぬ。
啓太のいない夫婦はギクシャクしていきます。
二郎は悲しいことは悲しいけれど、妙子と抱き合い共に
泣くことは出来なかった。
後になって、
「早く2人の子供を持とう」
そう思った自分を人で無しだと思った・・・。
そう言う。
義父の何気なく発した「中古」
啓太の遺体の安置を、
「私の思い出の家だから嫌」と拒む義母。
葬儀では4年も蒸発していた妙子(木村文乃)の元夫のパク
(砂田アトム)が現れて、イキナリ妙子を殴りつける。
パクは韓国籍の韓国人で聾唖者だ。
(何故、韓国人でしかも聾唖者?)
この設定は後に韓国へ渡るラストで意味が分かる。
(実際にパクを演じている砂田アトムは聾唖者の俳優です)
パクは生活困窮者で生活保護の申請に二郎(永山絢斗)
の役所に現れる。
そこでの手話通訳を妙子が手伝うことになる。
「放っておけない」「私がついていないと・・」
妙子は夫の留守の自宅にパクを上げて泊める。
入浴しながら、
「殴ってくれて良かった。お風呂の水を抜かなかった私を
「叱ってくれたんだね」
妙子とパクには絆があると知れるシーン。
(入浴シーンは不要と思うが、お風呂場が必要だったのかな?)
妙子と二郎の住む団地の真向かいに、二郎の両親が転居した団地が
向かい合って建っている。
妙子とパクが仲良く洗濯物を干し、ふざけたパクはシーツを被る。
はしゃぐ2人。
それを向かいの団地から二郎が目撃する。
血相を変えて駆け込む二郎。
(妙子も無防備過ぎる。衆人環視なのに・・)
パクに電報が来る。
「父親危篤の報せ」だった。
パクは二郎から旅費を借りてフェリーに向かう。
送る二郎の車を降りて、パクは手話で妙子に話す。
「啓太の死の悲しみから、立ち直らなくてもいい」
「いつまでも、いつまでも悲しんで忘れないで、絶対に!!」
泣かせる台詞で私も凄く感動したのだけれど、
ここからがコメディ。
パクの息子の結婚式からの顛末は詳しく書きませんが、
2度も妻子を捨てていたパク。
ラストに向かい監督はよくもこう大きく舵を切ったものです。
この振り幅の大きさが深田監督の腕前なのでしょうね。
パクの明るさに救われる。
観ている私もすっかり心が軽くなるラストでした。
人間それぞれで結局自分で前に進まなきゃ。
女は雨に立ち尽くていた。
韓国という異国で。
あるモノをなくして、あるモノを取り戻そうとして、
あるヒトを手放して、あるヒトを救おうとして、
信仰みたいなものを抱いて自惚れもして。
そして、時に、自分を嘲笑うように、異国で。
愛という感情もそれにまつわる葛藤も、たくさん。
不意に振り返ってみたら、全てが独り言。
人生は自分で選んで進むもの。それだけが寂しみであり、唯一の救いでもある。
『ドライブ・マイ・カー』と共通しているところもある
昨年9月のベネチア国際映画祭でノミネートされ、NHKニュースや『ハートネットTV』"#ろうなん"という番組での取り上げられ方は、当事者俳優が演じたことを強調していた。本作を観てみると、その俳優は主役ではなく、途中から出演し、主役たちの生活に波風を起こす役割を果たしていた。主演の二人は、役所の福祉課と別棟の社協のようなホームレス支援事業を担当している部署に勤務していた。エンドクレジットによると、抱樸の協力を受けているという。妻は連れ子と夫にきかれたくない内緒話を手話で行っていた。妻は夫の両親から認められておらず、息子の事故死にも感情的に拒否を受ける面があった。警察でも虐待死を疑われる面があった。妻の元夫が突然現れたが、韓国手話を使うため、コミュニケーションを取れる者が妻しかおらず、現夫も理解を示す。そのうち妻は現夫に内緒で元夫を守らなければならないと思い込むようになってしまい、韓国に帰ると言い出した元夫についていく。現夫は元夫に背を向けたまま、妻が元夫のことを心配して探し回る活動をしてきたかを説明するが、元夫にはきこえていないというコミュニケーション断絶が表現されていた。釜山行きフェリーが発着する町という設定なのだろうか。しかし、韓国に行ってみると、元夫には家族がいて、妻が付き添う必要性はなかった。韓国手話が多様なコミュニケーションの一つとして使われ、登場人物が韓国に行ってしまうという展開は、確かに『ドライブ・マイ・カー』と共通していると思った。事後に監督の深田晃司氏とアナウンサーの笠井信輔氏のトークがあり、出発点は、深田氏が20代のときに矢野顕子氏作の同名の歌を知ったときに構想をもちながら、中途で保留しておき、近年『淵に立つ』を制作したことから本作脚本の展開を考え、主演二人をオファーしてから、二人と違う言語を使う人物としてろう者に行き当たり、障がい者が出演することの必然性や当事者の考え方を取材してつくりあげていったという。笠井氏は、木村氏の気の強さの表れる場面を評価し、本人に取材して、出産後、映画での子を失うショックよりも、生まれてきた子を大事にしたいという、まさに歌詞の表すような心情を書いてくれたことを報告していた。
この映画の本質とは?
(完全ネタバレですので鑑賞してからお読み下さい)
この映画の本質とは、ものすごくイジワルな見方をすると
<例え相手がこちらを信頼のおけない裏切りの人物だとしても、助けが必要な人なら、あなたはそれでもその人に手を差し伸べられますか?>
だと思われました。
この映画が後味悪く私達に迫るのは、主人公の大沢妙子(木村文乃さん)が、耳が聞こえず在日韓国人でもある元夫のパク・シンジ(砂田アトムさん)を、同情からで手を差し伸べたのではないか?同情から結婚し子供をもうけたのではないか?の疑問をわき立たせる帰着をするからだと思われました。
大沢妙子の元夫のパク・シンジは、結局は妙子を裏切り父が危篤との嘘をついて、韓国にいる自分の別の元妻の息子の結婚式に出席します。
妙子はその光景を見るという、自らの子供(敬太(嶋田鉄太さん))を失っただけででなく、元夫にも裏切られるという終盤になります。
そこで妙子と観客の私達に突き刺さるのは、妙子は、耳が聞こえず在日韓国人という不遇な境遇のパク・シンジに同情からこれまで付き合ってきたのではないか?という偽善をはぎ取る事実の刃です。
そんな自分を裏切る相手であっても、あなたは援助が必要なその人に福祉の手を差し伸べることが出来ますか?との厳しい問い掛けの映画だと私には思われました。
そして、もちろん、その厳しい問い掛けに「イエスだ」と答える必要があるのだとも私には思われました。
この映画は、人に手を差し伸べる覚悟のリアルな刃を向けているように感じ、だからこそ、個人的には評価ある作品だと思われました。
しかし本当は、この回答は半分は間違っていると思われます。
妙子の元夫のパク・シンジは、韓国に戻るフェリーの前で妙子に、風呂場の事故で死んだ息子の敬太を君は忘れてはダメだと手話で伝えます。
例え、妙子のパク・シンジとの結婚が、彼への同情から出ていたとしても、2人のそこからの関係性と子供の敬太の存在は、同情を超えた確かなものとして存在していたはずだからです。
妙子が最後、パク・シンジを可哀そうな同情すべき自らが作り上げた存在から、相手をだまし卑怯で相手を裏切るどこにでもいる人間だと認識が変わった時に初めて、人間としてのパク・シンジに対峙出来たのだと思われました。
そして、だからこそ、子供の敬太が亡くなった事実が、同情という幻想が排除されることによって、むき出しの喪失感として妙子に迫って来るのだと思われました。
もちろん、こんなイジワルな映画を作らなくても‥とは個人的にも思われましたし、この映画が受け付けられない観客もいるだろうなとも思われました。
なので個人的にも人に勧めたり傑作の評価をするには躊躇も覚えます。
しかし、このどこまでもビターで厳しいまなざしは、どこか人間に対峙した時のシビアな現実を一方で示しているようにも感じ、個人的には評価出来る作品だなと僭越思われました。
不覚にも共感
元になった曲は知らず、事前情報もほとんど無しで鑑賞。
始まりから上手い。
登場人物同士の人間関係や日常生活に潜む不穏の種が会話や仕草でとても自然に説明される。
尚且つ、敬太と妙子が二郎に隠れて手話で会話するところが後々の伏線にもなっていてまさに一分の隙もない。
そしてほんの少しギクシャクしながら進む日常、そこに少し誠の誕生日のお祝い、敬太のオセロ大会優勝のお祝いで明るく穏やかな時間が流れている時に突然“そのとき”はやってくる。
事前情報を入れなかったからだろうか、ここが予想外でそれまでも引き込まれていたがさらに引き込まれた。
そして次にすごいシーンが敬太の葬式のシーン。
敬太の実の父、即ち妙子の前の夫パク・シンジがやってくるシーン。
スタッフの声も聞かず(正確には聞こえてないのだが、ここではまだわからない)、妙子を一発平手打ちする、止める二郎、自らを何度も殴りながら泣くシンジ、それに応えるかのように泣き始める妙子、2人の間で立ち尽くす二郎。
たかだか30秒程度のシーンだが、このシーンが後々まで効いてくるし、その時点での3人の立場を端的に表していて秀逸。
そこから何やかんやあるのだが、その過程にも深く共感する。
いや、そんな実体験はないのだが、なんというか悪い時はどんどん堕ちていく。
妙子は子供を失った悲しみで、二郎は敬太は実の息子ではなく葬式でも泣けず妙子と本当に繋がっていないような不安から、堕ちていく。
こういう堕ちていく気持ちは不覚にも共感してしまった。
そして終わりは唐突にやってくる。
この終わりには正直「えっもう終わり?」と感じた。
よく言えばそれまで時間を感じさせなかった、悪く言えば中途半端だろうか?
韓国から帰ってきた妙子と二郎が目を合わせただけで果たしてもう一回歩き始めれるのかに関してはなんとも言えない。
それまでのマイナスが0になって終わるのは余韻があるようにも思えるし、狡いようにも思えてしまう。
だけど何故だか見終わったあとスッと清涼感があり、余韻の中に疲れながら浸っていく。
とても不思議な感覚だった。
相手の顔を見て話すということ
冒頭、息子のオセロ大会優勝のお祝い、兼ねて父の誕生日祝いのサプライズと、晴れやかな日のはずなのに、どうも不穏な空気に満ちあふれている。一連のシークエンスで、夫婦と息子の関係、それぞれの職場、親との関係、さらにはキーアイテム(オセロ、手話、ベランダのCD)を描いてみせる手際は鮮やか。そして、不慮の事故で息子が亡くなり、葬儀会場に行方不明だった実の父である元夫が突然現れ、狼藉を働く。
さあこれからどうなる、と本編に入るわけだが、どうもその後の展開が甘い。作者はあえて登場人物の言動に感情移入させないように作っているとしか思えない。元カノのシーンとか要るかな…
元夫は聾唖者であるため、手話を使い、互いに相手の顔を見て感情を読み取りながら会話する。一方、現在の夫は、相手の顔を見て話すことができない。人と人がどうしたら理解し合えるのか(そもそも理解することができるのか)がこの作品のテーマで、ラストシーンに繋がっていくことはわかる。それにしても、手話以外のセリフや独白は、上滑りな感じがしたが、それも作者の狙いどおりか。
「ドライブ・マイ・カー」に続き、韓国手話が使われていたが、元夫を韓国人に設定した意図や効果はわからなかった。妻が韓国行きフェリーに飛び乗ったが、パスポートはあったのだろうか…
役者陣は頑張っていたが、微妙なところ。永山絢斗の役は、誰がやっても難しかっただろう。
ラスト、タイトルが出るタイミングとその後の長回しにじんわりときて、後味は良かった。
ただ描けばいいというものではないのでは
物語への入り方がうまいね。「みんな何やってるんだろう」って感じで観てると、目線だけで関係性を分からせて、「これ、何か起こるな」っていう不穏な空気を漂わせて。
それで色んな事情が明らかになったところで、子供が死んじゃうんだよね。「そこまでやるか深田晃司」って感じなんだけど、やるよね、作風として。
それで、そこからは、ひたすら人物を描いてる感じなんだけど、良く分からない。
いきなり我が子を失った人が、どう感じて、どう動くか、想像もできないからね。だから『こうなんだ』と描かれたら「そうなのかな」とも思うけど、納得感はないの。提示されるものを、ただ受け取るしかないのね。
それで『これでもか』と二転三転して、まあおさまってなんだかなって感じなんだけど、「でも子供が急に死ぬ経験をしたら、これぐらいバタバタしないと、次へは進めないかな」と思いました。
途中の『誰か怒らなきゃいけなかったのに怒らなかった。あなたは怒ってくれた』で元夫に惹かれるところは、「なるほどな」と思ったな。なるほどと思ったの、そこぐらい。
ひでえ話!でも希望あり。
ドライブマイカーに続く、障がい者、外国人とのコミュニュケーションを盛り込んだ、21世紀型映画。
木村文乃が、一瞬で、この人が主役だ、とわかって貫禄十分。
でも、ダメンズウォーカーか?これじゃラブライフといえるか?と感情移入してしまった。
嘘ついて、韓国への旅費ださせちゃダメだろ、子供失った人に!
最後に夫婦が再会するところで、ラブライフのテロップが出て、ようやく画面が締まる。
それにしても、一度でいいから、木村文乃のような美人に、彼は弱いから私がついてなきゃダメなの!といわれてみたい!
それより、あなたは目線を合わせないね、と女性から言われたことは数知れず・・・。
設定は現代的だが、内容は古典的だと思いました。
イタカッタ~全部(≧◇≦)
はじめて観ました深田作品・・・。この監督・・・変態です。。。
※あくまで個人の妄想です。
ほんとこの映画と監督の醍醐味は黄色い風船と
雨の中・・・踊っている妙子のシーンだと勝手に感じています。
後ろ姿だけで演出して・・・。
観客の想像に全部、表情もなんもかんも丸投げる演出♫
観客のみなさん・・・この話、勝手に想像してくださいね(⋈◍>◡<◍)。✧♡
・・・って監督の声が聴こえるようでした。
優しい笑顔で心臓刺してくるような映画
周りの映画好きの評価があまりに高いので、それに背中を押されて鑑賞しました。予告編すら観ていないため、内容に関する情報は一切ありません。
結論ですが、事前に予想していた内容とは全く異なり、非常に重い人間の裏表を描いた作品でした。間違いなく今上映されている作品の中ではトップレベルにクオリティが高いと感じましたが、内容が内容だけに万人にオススメできる作品では決してありません。
観ていて辛いシーンも多いので、鑑賞には体力が必要な作品です。鑑賞後は数日引き摺るタイプの作品です。それでも、間違いなく観る価値はある作品です。
・・・・・・・・・・
優しい夫である二郎(永山絢人)と再婚した妙子(木村文乃)。蒸発した前夫との子供である連れ子敬太(嶋田鉄太)と3人で幸せな生活を送っていた。敬太がオセロ大会優勝と二郎の父親である誠(田口トモロヲ)の誕生日祝いを兼ねて、ホームパーティが執り行われる。幸せなパーティの最中、少し目を離した隙に敬太が風呂場で溺死するという事故が起こってしまう。悲しみに沈み意気消沈の妙子の前に、敬太の死を知った前夫のパク(砂田アトム)が突然現れる。
・・・・・・・・・・
ある人物の死をめぐって周りの人たちが繰り広げる物語と言えば、昨年公開の吉田恵輔監督作品『空白』を思い出す方も多いと思います。それぞれの登場人物たちが加害者でもあり被害者でもあるという二面性が話の軸になっている部分も似ていますね。『空白』も結構重い内容の作品ではありましたが、本作の重さは『空白』をも凌駕している気がします。
本作の登場人物たちは、表面的には良い立ち振る舞いをしているのに、時折醜い裏の顔が覗くような感じで、そこが観ていて顔を顰めてしまうほどに生々しいんです。登場人物たちが自分の体裁を保とうとして良い人を演じているし、その言動がちょっと理解できてしまう分、身につまされるような気持ちになります。
『空白』の古田新太さん演じる添田が自分の感情を露にしていたのとは対照的です。『LOVE LIFE』では全員が真っ黒な腹の内を隠して良い人ぶっているのがたまらなく不快ですね。観客の心を押しつぶすような脚本とか撮影とか構成が上手すぎる。
また、長回しが多用される撮影も、映画の中で非常に効果的に使用されていると感じました。
敬太が風呂場で転倒して溺れている様子をこれでもかと丹念にじっくりと描写したり、ラストシーンで妙子と二郎が散歩に出かけるようすをベランダから見せたり。役者陣の演技の素晴らしさも当然あるんですが、長回しシーンはどれも素晴らしかったと思います。
そして個人的に一番気に入っているのが、タイトルの出るタイミングです。
本作は映画のラストでタイトルが出るタイプの映画なんですが、このタイミングが実に素晴らしかった。個人的な経験則ではありますが、「タイトル出るタイミングが良い映画はだいたい面白い」という法則があります。本作は私が今まで観た映画の中でもとりわけタイトルが出るタイミングが完璧で、尚且つ本編も面白い映画でした。
丹念に複雑に作りこまれた映画故、私の気が付いていない良さがまだまだたくさんあると思います。重くて鑑賞するだけで体力が失われる映画なのですぐにもう一度観るのは無理だと思いますが、いつか必ずもう一度鑑賞したい映画です。オススメです!!
オッパ
深田監督作品
淵に立つ
よこがお
しか観てないのですが、
爽やかに良かった映画とは言えない
ずーんっとする映画を作る監督ですよね
でも前作より
パワーアップしている
長回しとか
アングルとか
素敵な角度で撮られていたと思います
進化している気がする
一般人からみても
内容は
本当に
なんというか
パクー!!おまえーって内心思うのと、元旦那に依存しすぎな木村文乃
内心引いた
今の旦那が可哀想だけど、今旦那もちゃっかり元カノに会ってるし
もともと連れ子、再婚でギクシャクした関係からの、息子が亡くなり、それをきっかけに周り出す人間関係模様が良く描かれていて素晴らしいと思いました。
あのあと二人はどうなるんですかね
ホームレス支援のNPOで働く30歳過ぎの妙子(木村文乃)は、4年前...
ホームレス支援のNPOで働く30歳過ぎの妙子(木村文乃)は、4年前に失踪した夫との間にできた息子・敬太(嶋田鉄太)を連れて、役所の福祉課に努める大沢二郎(永山絢斗)と一年前に再婚し、大規模団地で暮らしていた。
3人が暮らす部屋は、かつては二郎の父母(田口トモロヲ、神野三鈴)が暮らしていた部屋で、次郎の父母は隣棟に越していた。
近い距離である。
その日は、敬太の少年オセロ大会優勝を祝う日であったが、二郎の父は、息子の結婚をこころよく思っておらず、わだかまりがあり、敬太の祝勝会への出席を渋っていた。
が、どうしても二郎は父に来てほしかった。
なぜなら、その日は父の65歳の誕生日でもあり、二郎の同僚たちとともに父の誕生日をサプライズで祝おうと準備をしていたから(二郎の父は元福祉課の部長であった)。
わだかまりが解けようとしたその日、楽しい雰囲気の中、悲劇が起きる・・・
といったところからはじまる物語で、悲劇は敬太の事故死である。
その後、葬式の場に失踪してた妙子の前夫(砂田アトム)が現れ、家族間に不穏な雰囲気が流れる・・・というのは、前2作『淵に立つ』『よこがお』とよく似た雰囲気。
妙子の前夫パクは韓国籍で聾唖。
妙子の「彼を助けなくちゃ・・・」という思いが沸き立ってくる。
息子事故に責任を感じていることの埋め合わせ、代償のようなものである。
このあと、二郎の母のキリスト教への入信、父母の引っ越しがあり、二郎はかつての恋人(山崎紘菜)に対して熾火が再燃するような気持ちになる・・・と出来事が展開します。
ストーリーを書くのはこれぐらいにして、個人的にはこの映画、とてもおもしろかった、興味深かったです。
映画は、コトと登場人物たちのココロによって展開していくのですが、コトとココロの両輪のバランスがとてもよい。
ただし、登場人物のココロについては、誠実/不誠実の間を常に揺れ動いていて、不誠実な方向でコトが動いていきます。
妙子の前夫パクへの思いは、愛とも言い換えることができるかもしれないが、弱者への支援をすることでの自己の存在証明のよう。
二郎の妙子への思いは、中盤、セリフでも語られるが、「前夫を必死になって探す妙子の姿に胸を打たれた」とのことから元カノを振ってしまうので、妙子の前夫パクへの思いと似たようなもの。
ふたりの心は、ともに互いに寄り添っていない、互いの方を向いていない。
いわば、不誠実な、共犯関係のような後ろめたさがつきまとっている。
この共犯関係的後ろめたさがあるからこそ、終盤、危篤の父親のもとへ駆けつけると言うパクの後を追って、パクに随行して渡韓する妙子を、二郎は黙認するのだろう。
互いの方を向いていないのは、二郎の「敬太の死の直後に思ったことは、はやくふたりの子どもをつくらなくちゃ、だった」というセリフや、互いが互いの目を見て話さないという所作に表れています。
不誠実なのは、二郎の母も同様で、当初は二郎の妙子との結婚を祝福しているが、敬太の死後、実は二郎の父以上に毛嫌いしていたことが示される。
(敬太の遺体を、思い出の部屋へ戻してほしくない、と強硬に反対する)
その意味では、はじめからわだかまりや不快感を露骨に示す二郎の父は誠実ともいえるでしょう。
自身が感じている不安なこと不快なことなどのネガティブな感情を素直に表すことを誠実というならば、啓太の葬式で怒り、妙子をなじり殴るパクは誠実な人ということができるかもしれませんが、最終盤では妙子を裏切るので、誠実とも言えません。
そして、パクは、妙子が思うような「守られてしかるべき人」でないことがわかる最終版は、なんだか可笑しくて笑いがこみ上げました。
『淵に立つ』『よこがお』ではサスペンス仕立ての崩壊劇を描いた深田晃司監督は、本作では一歩踏み込んで、どうしようもない人間の愚かさ、業のようなものを描こうとしたように感じました。
(最終盤、雨に打たれながら韓流ポップスに身をゆだねて踊る妙子の後ろ姿に、森崎東監督作品を想起しました)
もとの部屋へ戻った妙子と二郎が互いに向き合い、妙子が二郎に「ちゃんと目を見て」と言ったあとに「LOVE LIFE」と出、映画のモチーフとなった矢野顕子の曲が流れはじめ、長いエンディングのワンショットとなります。
このあとのふたりの生き方(LIFE)に、誠実な気持ち(LOVE)は訪れるのかどうか・・・
ここまでは「LOVELESS LIFE」でしたからね。
<追記>
ベランダにつるされた鳩のフン除けのCDが演出効果を高めています。
いわゆる、「おまじない」ぐらいで、効果はわからない、と妙子が言うとおり、心の平安を願う「魔除け」「お守り」の暗喩。
そのCDが、外の光を反射して部屋の中を照らしたりもして、「神の啓示」とも受け取ることができますが、「ただただ反射しているだけのモノ」とも受け取ることができます。
映像効果を高めるとともに、相手の心の中の「反射」、自身の心の中の「反射」の暗喩かもしれません。
もう離婚しかないだろ
・・・と思ったら、最後の感じだと続いていきそう。
幸せにはなれないと思うけど。
端的に言って、登場人物全員クズでした。
といっても、“そういう煽り”の映画に出てくるようなキャラの濃いそれではなく、非常にリアルなクズ。
優勝祝いでの義父や、警察署での義母はまだマシ。
妙子は、相談もなく義父母の部屋にパクを住まわせたあたりから、ダメ男を助長する共依存が顕著になる。
二郎は、ハグで止めてたら一番共感できたかもだけど。。
パクは、フェリー乗り場での台詞などから(失踪の理由次第では)まともに思えそうだったのに、韓国に行って急落。
台詞通りなら、山崎は責任感じてていいコなんだけど、現実を考えるとあざとさ無しとは見られない。
総じて「こういう人いるな」と思わせる力はすごいのだけど、それ以上ではなかった。
リアリティのある描写から、現実の無常感や遣る瀬無さは強く感じたが、タイトルとは結びつかないし。。
何というか、掴みどころのない作品でした。
劇中で一番の、というか唯一の笑顔が出る場面が非常に皮肉。
それにしても、ああいう楽しくやってた裏側の悲劇ほど、行き場のない後悔が消えないんだよなぁ。
近くの家族より遠くの他人ってこと?
終始陰気な妙子としょーもない二郎。常に不機嫌な誠と一番タチの悪い明恵。そんな中、唯一子供らしさをひた走る敬太が、彼らのクセの強さをより一層際立たせる。
決して強く結びついているとは言えない、彼らの関係性と対照的に、関係が終わっているはずの妙子=パクと二郎=山崎、明恵=キリスト教がやけに濃い。
LOVE LIFEとはそういうことなのか?と、矢野顕子に聞いてみたい。
終始どんより重く辛さが支配する中、猫の気ままっぷりが効いてる。
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