「本格ミステリー的な「仕掛け」が物語構造に直結した、ヒキニート少年少女の救済物語。」かがみの孤城 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
本格ミステリー的な「仕掛け」が物語構造に直結した、ヒキニート少年少女の救済物語。
予告編観て、やたら胡散臭い設定語りをきいたり、「私たちは助け合える!!」とか「生きなきゃ」とかマジでいってるのをきいて、「くっそさみーな、これヤバい地雷なんじゃねえの」とかイタい映画扱いしててごめんなさい。
とても良い映画でした!!
自分の「泣ける」要素にはひっかからなかったけど、斜め前の若者は終盤「ううううう~」とか思い切り嗚咽してました(笑)。
あの予告編を観て、「うわっ」とか思っちゃった(俺みたいな)人も、騙されたと思ってぜひ観てほしいところ。観終わったときには、きっとすさんだ心も浄化されていることでしょう。
原作未読。原監督の作品も、『河童』以来、とんと観ていない。
なので、映画館でかかった予告編の内容以外は、ほぼ予備知識ゼロで視聴。
出だしは、正直かなり微妙な感じがしていた。
ヒキニートやってる人間が、突然一カ所に集められて、いきなりあんな自己主張しながらお互いしゃべったりできるわけねーだろ、とか(コミュ障や発達要因があって間合いがとれないせいでハブられるヤツが、あんなふうに「普通の人間」を「擬態」なんかできないというのは、残念ながら本当だと思う)。
ヒキニートどうしが最初に自己紹介するのに、いきなり下の名前で語り合うとかマジありえねーだろ、とか。
だいたい、みんながちゃんと前を向いて、相手の目を見てしゃべってること自体、俺の知ってるニートじゃ全然ないんだけど、みたいな。
ただ、観ているうちに、ここに集められた子供たちというのは、単に社会不適合で引きこもっているというよりは、外的な要因がメインだったり、「できすぎる」せいで集団から浮いてしまっていたりする、いわゆる「社会復帰可能」なタイプの子たちばっかりなんだな、ということに逆に気づいて(=敢えて、救済可能な子たちだけが集められている)、制作者に対する不信感はだいぶゆるんだ。
要するにこの映画は、ヒキニートのくせになんでしゃべれるんだ、ではなく、ヒキニートのなかでも救える可能性のありそうな子たちだけが「敢えて」選ばれている、その「物語内の理屈」を考えながら観る映画なのだ。
他にも、出だしでは「おかしい」と思ったことが、観ているうちに納得がいった部分が、この映画にはいろいろとある。
7人の少年少女が、異世界にあるらしき絶海の孤城に集められて、狼の仮面を被った少女に「鍵」を探して見つけられれば、なんでもひとつ「願いが叶う」と言われる――。
このなんだか出来の悪い「なろう小説」みたいな設定も、じつは、「いかにも無理やりでっちあげたみたいなイタい設定」であること自体に、とても「切実な理由」がちゃんとある。
それから、僕個人は大変気になったのだが、この映画は、背景美術がやけに簡素というか、質素というか、予算が足りないみたいにあまり描きこまれていない。
特に城の内部のシーンでその傾向は顕著で、書き割りみたいというか、薄っぺらいというか、これが新海誠や宮崎駿だったら、みっしりと「古城」っぽい要素を描き込んだんじゃないかなと思えるくらい「なんにもない」。
最初は単純に、もともと児童向けアニメ出身の監督だから、なるべくキャラクターに集中して観られるように、あえて背景はシンプルにして意識を散らせないように作ってるのかな、と思いながら観ていた。でもその割に、床への映り込みや、鏡への映り込みといった細部(かがみの孤城だしね)には異様にこだわってつくってあるし、これだけやれるのなら、もう少し「リッチな画面」でつくれただろうに、と。
でも、物語の「真相」を知って、やはり思いを改めた。
この城には、「書き割り」のようである「理由」がちゃんとあるのだ。
ぼくらでもなんとなく想像がつくようなものでしか、城を「構築」できない切実な理由が。
その理由は、先に触れた「設定のダサさ」とも、きちんと連動している。
「何がこの城を生みだしたか」から逆算して、ちゃんと全てが組み立てられているのだ。
この「逆算」という要素は、本作を語るうえで大変重要なファクターだと思う。
多くの人は、『かがみの孤城』のことを「学校に通えない子供たちの救済」を目的とする、ある種のファンタジーとして捉えるだろうし、それ自体は間違いではない。
しかし、本作における物語の組み立て方は、じつは「ファンタジー」のそれではない。
間違いなく、本作は「本格ミステリー」として組み立てられている。
幾重にも伏線を張り巡らせて、その解決によってカタルシスを生み、想像していた世界観とは異なる「真相」を呈示することで、観客の先入観を「反転」させる。
この本格ミステリー的な「仕掛け」を実現するために、「後ろから逆算して」入念に、箱根細工のように組み立てられた作品――、それが「かがみの孤城」という物語の本質だ。
だから、ネタの実現のためには若干の「設定上の無理」や「現実ではありえないこと」も、ある種の「ルール」として押し通さざるをえない。そこがクリアされないと、本格ミステリーとしてのギミックが発動できないからだ。
その意味では、本作は世にはびこる「なろう系」や「異世界もの」より、むしろ綾辻行人の『時計館の殺人』や乾くるみの『イニシエーション・ラブ』あたりに近い作品だし、漫画ジャンルでいえば、荒木飛呂彦や福本伸行に近いテイストの「ミステリー・マインド」の充溢した作品だということができる。
先に触れた、かなり違和感のある「いきなりの名前呼び」に関しても、じつはいくつかの理由で、この作品の「ネタ」を成立させるためには、とても重要な要素だったりする。
これは、そのまま「なんで1年近くも比較的みんなで仲良く付き合ってるのに、お互いのフルネームを知らないのか」とか、「なんで彼らは自分の境遇や周辺の流行りものについて、1年もいっしょに居ながら、たいして情報交換を行っていないのか」という、ある意味「致命的」ともいえる作劇上の問題とも直結している。だって、実際にそんなことはまずありえないわけだから。
でも、そこは「ルール」として押し通すしかない。
そのことで可能となる、本格ミステリーとしての「仕掛け」が、本作では何よりも優先されるからだ。
要するに、『かがみの孤城』は、「とあるネタ」を成立させるために、いろいろと無理を重ねて「人工的に構築」された、絵に描いたような「本格ミステリー」映画なのだ。
このことに思い至って、僕のなかでの本作への「マイナスの先入観」は雲散霧消したのだった。
なにせ、お涙頂戴の気持ち悪い人情噺やそれを作りたがる連中の100倍、僕は本格ミステリーとそれをあくせく作ろうと努力する不毛な作り手たちに、大いにシンパシーを感じているので(笑)。
ただ、このミステリー要素に関しては、ひとつ気になるところがある。
真相に直結する具体的な「ヒント」が、中盤も早いうちに、かなり「あからさま」に、「むき出し」のような状態で、けっこう「唐突に」呈示されるのだが、あれって原作でもああなってるんだろうか?
そのせいで、僕のなかでは「ああ、○○は○○なのか」とまずはすぐ気づいてしまい、そこから「逆算」して、この物語の仕掛けにも、なんとなく思い至ってしまったという……。
正宗が、別の仮説を語り出したときには、「ええええ? そっちに話が行くのか??」と逆にびっくりしたくらいのものでして……(結局は当初予想した方向にまた話は戻ったわけだが)。
あれ、あんな違和感の残る形で出さないほうが、映画を観ながら真相にたどり着く人間の数を大分減らせたと思うんだけどなあ。まあ、そのぶん「気づかなかった」人にとっては、「あれだけあからさまにヒントが出てたのに、なんで俺気づかなかったんだろう!?」って、逆に「傑作」評価の基盤になるんだろうけど。
出だしで多少胡散臭く感じても、そのうちに誰もが映画に引き込まれてしまうのは、登場するキャラクターたちの抱える問題にリアリティがあるからだ。
リアルだから、いつしか観客も、我がことのように心配しながら彼らの行く末を見守る気分になれる。
とくにヒロイン、こころの話は、なかなかに痛々しい。
起きている事象や「敵」のキャラも含めて、羽海野チカの『3月のライオン』に出てくるひなたのエピソードを容易に想起させる内容だが、影響関係がどうのというより、女子(女性作家)にとっては、最も「身近によくあるタイプのいじめ」であり「一番よくいるタイプのいじめの首謀者」なのだろうね。身近だからこそ、エピソードの細部が生々しいわけだ。
フウカのエピソードは『四月は君の噓』の女性版のような感じ、アキのエピソードも最近はよく漫画や小説で見るタイプの話で、それぞれ目新しさ自体はあまりないが、少なくとも説得力のあるキャラ立てにはなっていたと思う。
逆に女性作家原作だからか、男子キャラにはだいぶ「理想化」が入っているような気も……(笑)。もっと男子のヒキニートってのは、生理的な気持ち悪さを内包している生物のはずなんだが。そのなかでは、公立学校にいたら100%いじめられそうな、距離感の測れない人懐こいコデブのウレシノは、いかにもな感じでとてもよかった(ああいうタイプは、気に入っていじってくれる軍師ポジの人間がクラスにいるとうまく溶け込めるんだけど)。
彼らを「社会に戻す」――「少なくとも死なせない」ために必要なのは、家庭以外の「居場所」の確保だ。それから、近しい立場の少人数の構成員によるリハビリ的な交流。そして、長いスパンでのゆったりとした、誰からもせかされない「均し運転」の期間設定。あとは、共同作業としての簡単な「タスク」もあったほうがいい。
そう考えると、「かがみの孤城」は、彼らにとっては、まさにうってつけの場だといっていい。
そこは、二重に守られたフリースクールのようなものだ。
センシティヴな子たちのなかには、学校に行けないのと同様、現実と地続きにあるフリースクールにも、なかなか通えなかったりする子も多い。
その点、「かがみの孤城」は、現実ではない非現実の空間にある、絶対的に安全なRefuge(避難所)だ。かがみの世界に認証された特定の7人しか入れない、究極の「会員制クラブ」。なかにいる全員が「学校に行けていない」子たちだとわかっている、安心できる「秘密基地」。
これしかない、と思えるような理想的な幻想世界をあてがわれて、子供たちはそこで傷ついた心の羽根をゆっくりと癒し、新たな一歩を踏み出すための「はばたく練習」を繰り返すのだ。
一体なぜ、「かがみの孤城」が、そんな機能をもつ場所になっているのか。
それは、最後まで観て、「誰がここに招待する人間を実質的に選んだのか」に思い至ることができれば、おのずと理解できる仕組みになっている。
(多少無理はあるのだが、「かがみの孤城」は「ふたつ」の想いが交錯して成立していることを忘れてはならない。)
正直にいえば、SF的にこの物語がきちんと成立しているのかについては、ちょっと分からない部分もあるし、とあるキャラクターのCVに某人物が当てられているのは、本格ミステリー的には「ズル」だとも思う。なんで「5時を過ぎて狼が出た」あとの城にこころが行けたのかも、僕にはよくわからなかった。他にも、階段をあがるときの3Dが奇妙だとか、音楽があまりに大仰だとか、気になる細部はいろいろあるのだが、全体としてはとても丁寧に作ってあったという印象。さすがは原監督といったところか。
終盤の子どもたちの行動(腰に手を……)や台詞の応酬は、僕にとってはちょっとトゥーマッチというか、サムい感じがしないでもなかったが、「謎解き」をたたみかけるテンポの良さと、それによって生じるカタルシスの大きさのおかげで、とても充実した気持ちでエンドクレジットを迎えることができた。
声優陣も、技術的にはいろいろ拙い部分も多かったけど(とくに泣くのと叫ぶのは、非声優の鬼門だ)、声質自体はこころもフウカもアキも、いい声をあてがえていたと思う。
今年を代表する2本の長編アニメが、かたや「鍵を閉める話」で、もう一方が「鍵を開ける話」だというのは、なんとなくおもしろい符合だよね。