山歌のレビュー・感想・評価
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小向なるの目力が素晴らしかった
高度経済成長期の1965年、東京で暮らしていた中学生の則夫は、受験勉強のため田舎の祖母の家へやって来た。ある日彼は、山から山へと旅を続け生活している流浪の民・山窩(サンカ)の家族と出会った。偏った価値観を押し付けられることにうんざりしていた則夫は、自然と共生する彼らの姿にひかれていった。
父とぶつかりながら、自己主張が出来る様になる則夫とサンカのハルの関係はどうなるか、てな話。
1964年の東京オリンピックの後にもまだサンカのような民がいたことに驚いた。
基本的には自給自足で、昔から山を駆け巡り暮らしていたのに、勝手にここは誰のもの、なんて線引きし、物を盗ったとインネンをつける方がおかしい気がした。
サンカの父役の渋川清彦はさすがの存在感だった。
娘のハル役の小向なるが目力が有って可愛くて素晴らしかった。
そして、雨に打たれてる時の表情がなんとも言えない輝きが有った。
【”山に溶け込んで生きる。”山窩の民と、孤独な都会の少年との素朴な交流を、山窩の民への蔑視や、第二次世界大戦後は”下”に下りて、その姿が消えて行った山窩の家族の姿と共に描く。】
ー 三角寛による山窩小説や、民俗学的見地に立った柳田邦夫の文章は、学生時代に読んだ事はあるが、山窩の民の生き方をテーマにした映画を観るのは初めてである。-
◆感想<Caution! やや、内容に触れています。>
・山窩の民は、第二次世界大戦後、高度成長期到来により、多くが”下”に下りて来たと言われている。つまり、昭和40年を舞台にした今作に登場する山窩の家族は、最後の山窩になるのであろう。
・山窩の男(渋川清彦:似合い過ぎである。)が、)東京からやって来た、受験に疲れた中学生の則夫(杉田雷麟)に魚釣りを教えるシーン。
ー 山窩の民は、劇中でも描かれているが竹細工で籠などを作り、川魚を採り、売る事で生計を立てていたのである。”下”の民も、その恩恵を受けていた。
だが、高度成長期に入り、そのバランスが崩れていくのである。-
・山窩の娘ハナと、則夫とが徐々に交流を深めて行くシーンの数々も良いし、山窩の男の礼儀正しい姿も良い。
ー 則夫が既成概念に捕らわれずに生きる彼らに、惹かれる理由が良く分かる。-
・そして、ラスト。ハナも新品の制服に身を包み、則夫と畦道を、駆けていく姿も良い。
<ハナが劇中、脈々たる遥かなる山脈を観ながら時折口にする”あるんだよ、人間には見えない世界が・・”という台詞が印象的な作品である。>
<2022年6月4日 刈谷日劇にて鑑賞>
山窩はわからないけど山歌はいたんだよ、本当に。
期待を裏切るような面白さもなければ、実態とかけ離れた大袈裟な表現で脚色されたサンカ像を押し付けることなく、ちょうどいい、わたしの想像する山歌に近かったので、笹谷監督がこんな美しい映像にしてくれて嬉しかった。
もちろん、創作だけど、ドキュメンタリー映画と呼んでもいいレベルかもしれない。
映画だから変な期待をしがちだけど、こうしたデリケートなテーマを扱う場合に限って、期待は禁物なのだ。
海外の映画に出てくる変な日本人像みたいに、外側の人間が想像力豊かにイメージすると、当事者から見たらとんでもない誤解や差別による屈辱を感じることにもなりかねない。
逆もしかり。
あまりきも美化しすぎて、実像とまったくかけ離れた描き方をすることで誤解したイメージが定着してしまう。
まさに、山窩を売り物にするかのように、かつての研究者や小説家が良くも悪くも様々なイメージを膨らませすぎたせいで、実像がぼやけた虚像の塊のような存在に成り果ててしまったからだ。
山窩がいたとかいないとか、もう本当にそんな議論などどうでもいい。
そういうサンカと呼ばれるような山の民がいたことは特別なことでなく、逆に居なかったことを証明する方が遥かに難しいのだから。
それを、差別的な侮蔑語として名付けられた山窩とは書かず、山歌としたこの映画タイトルが秀悦すぎる。
籠を編む女の子が唄うシーンが、とてもよかった。
そのシーンがもっとも山窩をイメージさせるピークなくらいで、映画の見どころとしてのサービスカットなのかな、と思ったりして。
他にも地味だけど、いいシーンがいっぱいあった。
特別ではない、日常の中のささいな、それでいて贅沢で特別な時間の連続するような暮らしているシーンが、わたしがこの歳になってから山に入って感じている感覚ととてもよく似ている。
あの巨木のシーンもよかった。
望んでいたように虫けらのように死んで、土葬されて土に還るばば様とか。
わたしは少年時代から成人するまで、金華山の麓で育ち、まだ両親がそこに住んでるけど、金華山こそが偉大なる母のような存在だと感じてる。
父もこの山を愛し、死んだら金華山に散骨して欲しいといっている。
母方の故郷、白鳥六ノ里も、白尾山の麓の集落で、里と山の暮らしも少しはイメージできる。
昔から山には、黄泉平坂や野辺山や姨捨山の考えがあるように、人が死んだら行くところだった。
それはただの墓場ではなく、森には新しく生まれ変わる再生のエネルギーを秘めているから。
古墳やエジプトのピラミッドの時代は、人工の山をつくり同じエネルギーを得ようとした。
そういう山々に暮らす山歌が、豊かな森の秩序を守ってきた。
何も所有しないという究極の暮らしは、こちら側から見たら貧しい生活でも、所有しない代わりに、山という共有財産から豊かな土地と食料を必要なときに必要なだけ手に入れ、様々な生きる術を持って、芸能をしたり、職人技で籠や箕や竹細工などをつくって売るのが生業となり、里人とはお互い必要な存在として共存共栄してきた人たち。
それが、映画の舞台となってる昭和40年代にぱたっと消えた。
世の中が高度経済成長で無機質となり、山がただ同然の扱いで、豊かさの勘違いをして植林するかゴルフ場として売るか、という貧しい価値となった瞬間、すでに限界集落とか廃村レベルの存在だった最後の山歌の人たちの命までが、一瞬にして消えてしまったのだろう。
自然界は、優性遺伝などしないし、弱肉強食というのも間違ってる。
山歌は、自然に一番近いからこそ自然をよく知り尽くし、謙虚に暮らしいただけの、時代の弱者。
西洋は産業革命で近代化し、明治以降の日本もまた、同じ道を選んだときからこうなる運命だった。
戦争の絶えない時代。
原発事故して、コロナ騒動まで起きて。
今、この映画が、ミニシアターだけど映画館でロードショーされることはとても大きな意味がある。
なんでもっと早く、なんでもっとたくさんこういう映画が今まで無かったのかが不思議なくらいだけど。
誰かが先にやらないといけないから、それが偶々、今だったというだけのこと。
そんな笹谷監督に、ありがとうをいいたい。
謎のサンカ
サンカって、色んな呼び方(漢字の読ませ方?)や起源説もあるみたいだけど、物語では、その辺りはさらっと流していく。
かつてはたくさんいた人々が、様々な理由でどんどんいなくなる…。
その終焉を描いた作品だろうか?
そういう人たちがいなくなっていくことは、良いことなのか、どうか?といったことを問いかけているように思えた。
どっちとも言えないけど、明らかに文化の多様性は低下したんだろう…。
山の歌を歌う人々への賛歌か?
難しく、考えさせられる話だった。
あるんだよ、見えない世界が。人間だけが見えない世界。
「山歌」と書いて「サンカ」。つまりそれは山の民、山窩(さんか)。今のご時世にあって、どれほどの人が彼らが存在していたことを知っているのだろうか。史料と言うのものは施政者の側に立った記録であって、民衆の生活の記録と言うものは少なく、ましてや、戸籍もなく、定住もせず、人別帳にも記載がなく、まさに"山に溶けるように"暮らしていた彼らの存在は、存在としてさえ認められなかった。自分も、三角寛や沖浦和光の作品群、「カムイ伝」などに目を通すことがなければ知ることがなかった。それ以前に、宮本常一や柳田國男に出会わなければ興味さえわかなかった。第二次大戦を経て、それまで細々と生きてきた生き残りさえ絶えてしまった。そんな彼らを取り上げる意義は大きいと思う。ただ、この映画でどこまで理解が深まるのかな。世間から虐げられ煙たがられて生きていた人たちがいた、とそれだけでも認識してもらえれば小さな一歩だと思う。
近現代、人間は自然をも科学によってコントロールしようとして、ときおり手痛いしっぺ返しを食らっている。地球がちょっとくしゃみをしただけなのに未曽有の大地震だの、大きな台風がやってくれば悪天候だの、それは人間様からみたエゴなんだけどなあ。だってそのくらいのことは長い長い地球の歴史の中でずっと繰り返してきたことなのだから。人間は、地球の上で自然と一緒に生活させてもらっている、と自覚と感謝があれば、被災による痛みこそあれ、恨みの感情は起こらないなずなのだ。で、そこをちゃんと理解しているのが彼らなんだよな。
人間だけが見えない世界、と劇中で言うが、見えないんじゃなくて、見ようとさえせずに目をそらしてきた世界がここにある。少女ハナの役の子、ワイルドでありながらも情緒の機微の表現が絶妙な、いい表情をしていた。そしてノリオ。サンカに惹かれ、それでもサンカとは共生することが叶わないジレンマを抱えた少年のナイーブさが瑞々しかった。
ただ、ちょっと演出が雑だったかな。例えば、山の頂上まで走ってきたのなら、息を切らした演技はしてくださいな。なんか、縁側からひょいっと庭先に飛び降りたような駆け込み方じゃ軽すぎる。そもそも中学生には見えないけども。
映画はそこそこ良かったけど 主人公が中学生に見えなくて気になった ...
映画はそこそこ良かったけど
主人公が中学生に見えなくて気になった
それとあの当時の中学生が
大人に対してあんな言葉遣いだったのかなって気になった
サンカを扱うこういう作品が増えれば良いと思った
テーマは深いが
何せ役者下手すぎないか?脚本も洗練されていない被差別の民であるサンカの実態をもっと丁寧にわかりやすく訴えるべきでは、民俗学や文化人類学かじった人は知っているが現代の若者たちには全く知られていない世界観でしょ。
予算のなさがいいテーマを台無しにしている。
残念。山で孤高に生きていく家族の実態とその自由や精神性を深掘りしてほしかった。
期待はずれ。
知られざる流浪の民
里に馴染めず、山の中で暮らす山窩と呼ばれる(厳密には本人たちがそう言っているのではなく、あくまでも里側の人間がそう呼んでいた)流浪の民が、主人公の受験生と徐々に距離をつめ、交わっていく姿を大自然の脅威と対比させながら描く。
里側の正義が、必ずしも山側の常識ではない、というジレンマが終盤で爆発するまで続くが、若い二人の主人公の瑞々しさにただただ救われる。
人間だけが見えない世界
昭和40年、東京から群馬の祖母の家にやって来た中学生が、サンカの家族と交流するようになる話。
受験勉強という言い訳で父親の実家にやって来た主人公が、芋泥棒の少女を追い家の裏山に入りサンカと出会い巻き起こるストーリー。
サンカと呼ばれる人達が居たということは知っていたけれど、それをメインに描いた作品は恐らく始めて。昭和40年代でもまだいたんですね。
ゼネコンで働いているらしいエリート意識の高い父親や、そういう「下の人」の社会や意識に嫌気を憶える少年が、生きることや強さや人間らしさとは何かを感じ成長していく物語で、派手なものはないけれど、なかなか面白かった。
共存のバランスが崩れるとき
大切なことは全て映画から教わってきました。
『砂の器』や『瞽女GOZE』と併せて見ておきたい。
日本にも流浪の民がいたことを初めて知りました。
彼らの暮らしぶりや文化、コミュニティの規模も知りたかったのですが…
映画が描いていたのは「ラストサムライ」ならぬ「ラストサンカ」。
サンカ達がなぜいなくなってしまったのかが、主人公の葛藤を通して描かれていました。
高度経済成長でインフラが整備され便利な生活を手に入れた時代、“豊か”の価値観が統一されたのと引き換えに、多様性の“豊かさ”を失ったのかもしれないと思えました。
お互いのテリトリーを侵さず共存できていたものが、一方の価値観の押し付けでバランスを崩してしまう。
それはサンカに対しての限られた話しではなく「人間と自然」「国と国」も同じ構図に思えて、今の時代に考えさせられるテーマでした。
警官から受ける圧力は、サンカの生活や文化を否定するもので、とても暴力的に感じました。
みんなが一つの価値観に統一されるのは恐ろしい。
監督は「1965年を境にサラリーマン社会になった。」とおっしゃっていましたが、その代表のような主人公の父親は、ホワイトカラーになるのが息子にとっての幸せだと信じて疑わない。
豊かさをお金ではかる時代になり、日本という国家に連なるにも納税の義務が伴う。
財産を持たないサンカには、生きづらい世の中になってしまった。
土地や山も誰かの所有物となり、立ち入ると不法侵入。
山で採れたものや細工品を里山の人に売るにも行商には届出が必要となり、押し売り扱いで警察沙汰になるしまつ。
その昔、里山の人にとってサンカは外の世界の情報を運んでくれる存在であり、歌や踊りの非日常をもたらしてくれる存在であっただろうに。
自然の描写が素晴らしく、かつては大勢のサンカが集まった大木によりかかるシーンでは、木と人とが一体になっているようでした。
渋川清彦さんの気軽には寄せ付けない野生動物を感じる佇まいがすごい!
杉田雷麟さんの鬼気迫る演技。
小向なるさんの野山を駆ける身軽さとしなやかさ、真っ直ぐな目ヂカラも印象的でした。
そして、蘭妖子さんの存在に興奮しました。
1980年代から90年代にかけて、「サンカ研究会」というグループが...
1980年代から90年代にかけて、「サンカ研究会」というグループがあり、参加していたことがあります。そのグループが母体となって、「マージナル」という雑誌も発行していました。10冊で完結しました。80年代には五木寛之「風の王国」「戒厳令の夜」で三角寛の再評価が興ったのです。五木作品ではイメージとしてのサンカが、日本という国家の枠組を壊してくれました。その後、三角寛の娘婿の三浦大四郎氏が監修かプレデューサーとなって萩原健一主役の映画もできました。それ以来ですね。この映画ではイメージとしての「サンカ」と現実のサンカがごっちゃになっているのが気になりました。差別問題も。西日本では、いまでもサンカ部落は被差別だったりします。世間師(ショケンシ)という言葉もいまでも通じます。西日本では。また時代設定に無理があるように思います。ゴルフ場と結び付けたかったのでしょうが、大東亜戦争で日本人は全員戸籍が紐付られて、本当の意味で放浪民は、なくなったと考えてよいと思います。サンカの娘が「春駒」の唄を歌いますが、おそらく沖浦和光氏の本からのイメージでしょう。尾道のSさんが情報源だと思いますが、たぶん楽しい想い出につながる歌ではないように思います。いろいろ思い出させてもらって、刺激になりました。
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