「ハカイとは?」破戒 R41さんの映画レビュー(感想・評価)
ハカイとは?
タイトルの文字に込められているのは、人の心の中に潜む「認識」や「レッテル」などによる「決めつけ」という「戒律」を破壊したいという思い。
主人公瀬川が生徒たちに話した「何が正しいことなのか? 正しいことをするにはどうしたらいいのか?」
正しいことは時代によって異なる。これは重要なポイントだ。普遍的な言葉を遣えばそれは、「今考えるべき最も順位の高いことを抽出する」とでも言おうか。
当時の社会にこびりついていた前時代からの階級と階級外の身分。
瀬川は父の強い言いつけによって、自分の身分を隠し通して教師になった。
作品は、この時代のテーマを選挙運動を通し、また人々の考え方を通し描いている。
自分の身分を公表しながら本を執筆して人々から賛否両論される猪子廉太郎。彼に対するあこがれを持つ瀬川。どうしても彼のようにできない歯がゆさと怖さ。この主人公の葛藤こそがこの作品の見どころとなっている。
瀬川は言う。「なぜ自分の故郷を語れない なぜ好きな人に思いを伝えられない なぜこんなに苦しまなければならないのか なぜ?」
告白したい気持ちと差別される恐怖。
明治になってすべての階級がなくなったにもかかわらず、旧藩士、旧商人、旧農民、そして部落民と呼ばれる旧えた。
かつての階級社会を打ち壊して国を作っておきながら、今度は「国のために」と称して子供を戦争に参加させるための教育をする。そしてその批判者を鉄槌する言動に対する是非。
瀬川は「差別は人の心から消えにくいもの」と言ったが、人は誰も対人関係において、必ず「自分の認識」というフィルターを通して対人を吟味し、何らかの「序列」を作るものだと思う。絶えずその人を判断し、ジャッジしているのだ。この根幹を変えることこそ難しいと思う。
やがて瀬川はギンノスケに告白する。教壇を降りる覚悟を決めるのだ。しかし生徒たちは「そのままの」瀬川を見てきた。何の階級も存在しない瀬川そのものを信じて疑わない純真さがある。ここにこそ本当の人間像があるのだと作品は伝えているのだろう。この純真さが大人になってもあり続けるなら、どんなに素晴らしい社会になるだろうか?
瀬川の見送りに参加する生徒たちを叱責して学校へ戻るように指示する勝野らを無視するのは、差別という考えを持つものへのレッテル返しの象徴だ。
こうして、「正しい」とされる行為の勝利で物語は閉じる。
しかし1点難しい箇所があった。
それは衆院議員の妻が部落民であることとその秘密を瀬川に黙秘せよというシーンだ。
背後にあるのは議員が恐れる差別だが、妻の父はたいそうな金持ちで、そのお金で選挙を戦えたし、次戦もそのようにしている。
その事を猪子は指摘したが、そもそも議員がお金と結婚したのかどうかはわからない。
瀬川が猪子と初めて会って話したとき、猪子は議員の妻の素性を知っており、その公表はしないと言いつつ、猪子は金目当てだと決めつけている。
この一見、どちらかが正しく、どちらかが間違っているという構図に、そうとは言い切れない含みがあるように思った。
ここに視聴者が考えるべき点があるのかもしれない。作品側からのお題が隠れているように感じた。
寺の住職が養女のシホに手を付けようとしたことも正義の中に隠れた邪気がある。
軍司学の権威の甥である勝野教師はヒール役として描かれているが、彼の思想は単にその時代の一般常識的なものだと思われる。
もし自分があの教員の中にいたら、どうするだろうか? 瀬川のように明確な思想がなければ、いったいどうやって勝野の主張に対抗できるだろうか?
いつの時代も「変化」がやってくる。
正しいとか正しくないとかも時代で逆転や変化する。
いまこの時代で吹聴されてる「常識など」は「正しい」のか?
そのことに対する意見はないのか?
これこそがこの作品が訴えていることなのだと思った。
伏線やプロットが秀逸でおおよそ当時の作品とは思えない。
島崎藤村が考えた当時の普遍的な部分に「変化」を加えた素晴らしい作品だった。
おっしゃるように時代時代の当たり前は違うんですよね。
この当時も以前も身分制で差別するのは当たり前。ただ、お上が吹聴する差別する理由が、実際に付き合えば嘘っぱちなわけで自分と変わらぬ同じ人間と気づく。しかし少数。翻すのは難しい。だけど主人公は伴侶も得て前向きに進む、明るいラストでしたね。
➖この純真さが大人になってもあり続けるなら➖いいてよね。