「われは穢多なり。されど穢多を恥じず。」破戒 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
われは穢多なり。されど穢多を恥じず。
個人的に最近、被差別側の小説や映画に凝っている。サンカや非人、穢多の話は、今では歴史的にも、人々の記憶的にも、そしてなにより彼らに対する差別意識自体が薄れゆくものとなっており、それは望ましいことだと思う。裏返せばそれだけに、この映画の訴えるものがなんの予備知識もない人にどこまで伝わるのかの老婆心はぬぐえない。
先日観た「橋のない川」一部、二部の中で、しきりに島崎藤村「破戒」の名が出てきた。それきっかけで読みだしてみると、偶然にもまもなくこの映画が公開するという。そこで今日の鑑賞に間に合うべく読み進み、場面は選挙応援演説の弁士として猪子蓮太郎が登場するところで昨日(7/8)の昼はいったん休止。そこに、安倍元総理の銃撃事件のニュースが飛び込んだ。心がざわつきながら読みだしたら、その猪子が暴漢に襲われる場面へ。鳥肌がたった。まさに、現実と小説の中がシンクロしてしまった感覚だった。いっきに明治の信州飯山の空気の中に身を置いてしまった気分になった。
映画の中で丑松は、常に悩み、苦しみ、迷い続ける(間宮祥太朗がこの苦悶する丑松を実によく演じている)。それは自分の素性ゆえだ。その丑松は言う。「差別と言うものは人の心から簡単にはなくなったりはしないと思うんだ。また新しい差別が生まれるだけだ。」と。その訳を「人は愚かではない。弱いのだ。」と。それが本質だとするならば、支え合わなければいけない。自分の弱さを人に晒し、人の弱さを補ってあげ、そして互いに良きところは称えるべきだろう。・・と、この言葉を打ったところでハッとした。今、広告機構のCMで「叩くより称え合おう」ってやってるじゃないか。それだよ、それ。でも人は、やはり弱いのだ。称えることが、怖いのだ。だから自分の居場所を守ろうとして、自分と意見の違うものを攻撃したり排除しようとする。その浅ましき人物(たとえばここでは校長や勝野)はいくらでも現れる。だから、自分が強くなるしかない。その手段として丑松は、勉強をしなさい、と説いていた。彼の説く、勉強をしなさい、は深い深い意味が込められているのだよなあ。
東京に旅立つ丑松には、志保という良き伴侶がいる。そして、銀之助というよき友人であり理解者もいる(矢本悠馬がまた実にいい)。彼もまた東京に出るのだから、また心強い友に支えられて生きていけるだろう。この先待ち受ける困難も、たぶん丑松なら乗り越えられる、そう思えた。
小説と比べると、やはり現代的な倫理観による演出が随所に。それはそれでいいのかなとも思う。ラストも、丑松たちが目指す場所がアメリカテキサスから変えられて東京になっている。これも、これでいい。だって、その方が身の丈に合っているじゃないか。それに、アメリカというと、どうも、逃げたような印象があったもの。しかも小説の終わり方が唐突な感じだったので、映画でしっかりお見送りができてすっきりさせてもらえた気分だった。