「配役の重要性を改めて理解した」キャスティング・ディレクター ハリウッドの顔を変えた女性 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
配役の重要性を改めて理解した
映画のエンドロールに、洋画なら「Casting」邦画なら「配役」という役割が出ることがある。これまでは何も考えずに、ただ茫然と眺めているだけであった。配役をさして重要な役割だとは考えていなかったのである。大抵がオーディションで決められるか、脚本家が当て書きをするか、業界の力関係で決められるものだと思っていた。
しかし考えてみれば、すべての作品でオーディションが行なわれる訳ではないし、当て書きをされるのは極く一部の俳優である。芸能事務所や制作会社が決めるといっても、たくさんの作品製作をすべて網羅しているわけではないだろう。
ということは、配役担当者がそれぞれの役に相応しいと考える俳優を用意する訳で、交渉の段階で業界の力関係がはたらく。配役担当者の力と業界の力のパワーゲームになることもあるのだろう。
本作品では、かつては優秀な配役担当者がいて、映画の配役を任されていたことが紹介されている。配役によっては作品を台無しにすることもあるし、逆に配役によって役者同士のダイナミズムが生まれて作品が俄然、輝くこともあった。
特に本作品で中心的に扱われているマリオン・ドーハティは、すべての現役俳優について、長所、短所、特記事項を熟知している上に、様々な劇場を巡って未知の才能を発掘したりもしていた。業界は彼女の実力を知って尊敬し、主張が対立したときは彼女の意見が尊重された。
しかし映画が商業主義に飲み込まれて芸術としての独立性を失うと、配役担当者もその地位を失ってしまった。業界の力に押されて、独自の配役を通すことができなくなってしまったのである。そうなると芸能事務所のエージェントが仕事をさせたい役者、売り出したい役者を配役することになり、作品のことは二の次になる。役者同士のダイナミズムなんて誰も考えないから、作品が輝くこともない。
ハリウッドのB級映画がつまらないのは配役も一因だったのかと、配役の重要性を改めて理解した。先日鑑賞した「TITAN」が無名の女優を使って成功していたように、ドーハティのような天才的な配役担当者が、その力を存分に発揮する日が戻ってくれば、ハリウッド映画も芸術性を取り戻せるかもしれない。でなければハリウッドの映画はいつまでもB級のままである。