ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
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デブの葛藤
40代のチャーリーはボーイフレンドのアランを亡くして以来、過食と引きこもり生活を続けたせいで太り過ぎ、体重272キロとなり、健康を損なってしった。アランの妹で看護師のリズに助けてもらいながら、オンライン授業の講師として生計を立てているが、心不全の症状が悪化しても病院へ行くことを拒否し続けていた。自身の死期が近いことを悟った彼は、8年前に家庭を捨ててから疎遠になっていた娘エリーに会いに行くが、彼女は学校生活や家庭に多くの問題を抱えていた。さて結末は、という話。
ほとんどチャーリーの家の中だけの会話劇で、そのチャーリーに共感も出来ずただ退屈だった。
娘の事は気になるし・・てな葛藤も有るのだが、自己管理も出来ないデブに共感も興味も湧かない。
フレイザーの演技が素晴らしいと評価が高いようだが、ストーリーが合わない作品だと名演だとしても個人的にはダメだった。
欲に勝てない、優しく哀れな男の物語
元は舞台劇との事なので、主人公チャーリーの自宅でのシーンが大半です。8年も会ってなかった娘が亡くなる直前の5日間に頻繁に訪ねてきたり、パートナーと同じ宗教の勧誘が偶然やって来たり、まぁまぁご都合主義的なところはありますが、割り切ればいい感じにひっかからずに観られました。
退屈するかなと思ってましたが「立ち上がる」「笑う」「食事する」等、普通の人ならなんて事ない動作も彼にとっては命に関わるので、いちいち緊張感が走ってハラハラしました。
A24ですが、グロい描写はほぼなし、代わりに食事シーンは鬼気迫るものがあり、理性ではどうにもならない過食症の恐ろしさを感じました。
不安や悲しい気持ちになると、命が危なくても過食を止められない。リズだって食べ物を渡したくないし、彼もよりによって看護師の彼女を加担させたくない筈なのに、結果的には自殺ほう助させてしまう。
こうなる前に心のケアができていたら、身体も健康でいられたのに。
過食症、アル中、貧困、格差、宗教問題等々、特にアメリカが抱えているシビアな問題が一気に描かれているので、暗い印象ではありますが、最終的には観て良かったと思える不思議な映画でした。★3.7
詰め込みすぎの鯨
おそらく現代アメリカ人にとって「救い」とはなにか、が主たるテーマなんだろう。しかし設定にあれこれぶち込みすぎてぼやけてしまった。
肥満、宗教2世、同性愛、家族の離別、金、生きる意味 などなど、アメリカ(だけではないが)が抱える問題がてんこもりなのである。てんこもりすぎてどれもこれも中途半端になり、結局どの登場人物にも感情移入できないまま予定調和で終わるという、最悪にちかいシナリオだった。
特に宗教2世の配分がおかしい。偶然現れた宣教師も親身な看護師も死んだ恋人もみんな同じ宗教の2世というのはいかがなものか。不自然だ。
さらにこの映画最大の「ウリ」である肥満も、その必然性がわからない。醜い外見の人間への救いを描きたかったのか? たしかに特殊メイクはすごかったものの、ブレンダン・フレイザーはハンサムなので醜いとは言い切れないし、ピザの配達人に姿を見られたショックもあまり伝わってこない。これは演技力の問題なのだろうか。(なのにアカデミー賞主演男優賞)
加えて、繰り返される「白鯨」の感想文のどこがすばらしいのかさっぱりわからない。 アメリカ人ならピンとくるのか? 鯨のイメージ映像を挟むとかすれば関連もわかりやすかっただろう。
舞台向けの設定なのかもしれない。
照明などで肥満はシルエットで表現でき、物語を進めていく会話に集中できる。窓の外の雨が最後に晴れるのも、ありふれてはいるが舞台なら一定の効果はあるだろう。
映画ならではの迫力やイメージの拡張もなく、つまらない作品。
あのハムナプトラで考古学者だった男が
20年前の映画「ハムナプトラ」でイケメンの考古学者を演じた後、いろいろあって、表舞台から遠ざかっていたブレンダン・フレイザーが、余命いくばくもない巨漢を演じる映画。
レビューでは、「椅子から立てなかった」ほど感動した人もいたが、自分はそこまでならなかった。
家庭をぶっ壊したのも、肥満体になってしまったのも、自分が欲望の赴くままに行動したからじゃないのかと。娘が可愛かったら、ちょっとはブレーキを踏むだろうと。まあ、あのきついかみさんじゃ、逃げ出したくもなるかなあと。
自分は日本人だからかもしれないが、赦す(その結果として救いがもたらされる)のはあくまでも人であって、神じゃないだろうと。神が赦しても、人(ここでは妻や娘)から赦してもらえなかったら、それは結局救いにはならないだろうと思った。
この映画で描かれなかったこと、描かれたこと
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい)
この映画は、(個人的に)描かれていないことと描かれていたことがある映画のように思われました。
私はこの映画の鑑賞後に、素晴らしく深い映画であると感じましたが、一方で大きな感銘や大感動の傑作とまでは思えないという感情もありました。
その理由は、この映画『ザ・ホエール』は、主人公のチャーリー(ブレンダン・フレイザーさん)が(私が字幕など見落としていない限り)なぜ娘や妻を捨て、ボーイフレンドのアランの方に行ったのか、チャーリー自身の理由動機が明確に描かれていないところにあると思われました。
加えて、チャーリーの妻であるメアリー(サマンサ・モートンさん)も、なぜゲイであるチャーリーと結婚したのか、その明確な理由が(私が字幕など見落としていない限り)描かれていないように思われました。
この映画の主人公チャーリーは、その後ボーイフレンドのアランが亡くなってから、引きこもり過食によって体重を増加させ、自らの足では歩行器なしに立つことさえ出来ない「醜い」姿になってしまいます。
私はこの怠惰な主人公チャーリーに心からの共感は正直出来ないままでした。
その理由は、(チャーリーの外見の「醜さ」というより)娘や妻を捨てボーイフレンドのところに行った、チャーリーの本当の意味での行動理由が描かれてないところにある、と思われました。
それが、この映画の鑑賞後に大傑作や大感動との思いが湧き上がって来ない理由にも感じました。
ではこの映画『ザ・ホエール』はダメな作品だったのでしょうか?
私はしかし大傑作や大感動の感情がなかったにもかかわらず、この映画はしかし人間の深淵をえぐってもいる別の意味の感銘を受ける映画になっていると一方では思われました。
その理由は、(主人公チャーリーや妻のメアリーとは違い)他の4人の主要登場人物の全員が、なぜそんな行動をしているのか、その理由が明確に描かれていたところにあると思われました。
チャーリーの娘であるエリー(セイディー・シンクさん)は、学校を停学になりSNSに犬の死体を載せたり大麻を吸ったりしています。
その理由は、娘エリー本人も言っているように、父チャーリーが自分と母を捨て、ボーイフレンドのアランの方に行ったのが根本理由だと暗に明かされています。
過食で身動きが難しくなっている主人公チャーリーの身の回りの世話を、訪問介護士のリズ(ホン・チャウさん)が時折訪ねて行っています。
リズがチャーリーの身の回りの世話をしているのも、彼女の兄がチャーリーの亡くなったボーイフレンドのアランだったことが理由として明かされます。
チャーリーのボーイフレンドだったリズの兄のアランは、新興宗教のニューライフ教会の父に決められた結婚から逃れ、チャーリーとパートナーになったことがリズから話されます。
しかしアランは、ニューラーフ教会の家族との精神的な断絶から命を落とすことになることが明かされます。
主人公チャーリーの家を訪ねて来たトーマス(タイ・シンプキンスさん)はニューライフ教会の宣教師で、チャーリーを救いたいとチャーリーの家を訪れています。
後に明かされるように、チャーリーの亡くなった元ボーイフレンドのアランがニューライフ教会の教えを家族から受けていて、チャーリー自身もニューライフ教会の教えを深く知っていたからこそ、トーマスを度々家に入れていたことが暗に明かされます。
また、トーマス自身は宣教活動でチャーリーの家に来たというのは実は嘘で、宣教活動に疑問を持ったトーマスが、教会の金を盗んで逃げて来たということが後に明かされます。
チャーリーや妻のメアリーと違って、娘のエリー、訪問介護士のリズ、ボーイフレンドのアラン、ニューライフ教会宣教師のトーマスの、行動の理由は明確に示されているように感じました。
そしてそこで描かれているのは、ゲイと新興宗教にまつわる世間と家族に引き裂かれた人々の濃縮された関係性だと思われます。
そしてその出会いは、一方で偶然の要素もあるのだと思われます。
さらにこの映画ではもう一つ重要なことが描かれていると思われます。
それはチャーリーが最後に(オンラインでの大学授業での生徒や、娘エリー対して)伝えていた「正直に」生きるという言葉です。
娘のエリーは、ニューライフ教会の宣教師のトーマスの、教会の金を盗んでここに来たとの告白を録音し、トーマスの家族にその録音を送り付けます。
おそらく娘のエリーは、トーマスの罪を家族に罰せさせようとしてトーマスの告白録音を送り付けたのだと思われます。
しかしトーマスの家族は、教会の金を盗んだことを大した話ではないと許し、トーマスに家に帰っておいでと伝えます。
このことは以下のことを表現しているように感じました。
チャーリーはボーイフレンドのアランを選択し、娘のエリーや妻のメアリーを捨てます。
しかしそのことによってチャーリーは娘のエリーと疎遠になってしまいその後に苦しみます。
もちろん冷たい言い方をすればこれはチャーリーの自業自得です。
しかし一方でここでは、私たちが何かを選択した時に、選択しなかった事柄についてからも影響を受けてしまうという普遍的な感情も描いているように思われました。
そしてその影響は、自分が何かを選択した時には思いもしなかった感情や事柄で成されることが多いと思われるのです。
娘エリーは自分の感情から「正直に」(おそらく)トーマスをトーマスの家族から罰してもらおうと彼の告白録音を送り付けたのだと思われます。
しかし結果は真逆の、トーマスは彼の家族から許されるという帰着を迎えます。
このことは、私達は例え一見自身の欲望に「正直な」選択をしたとしても、その選択をしたことにより(それ以外を選択しなかったことにより)別の思いもかけない影響を受けることになるのだということを伝えているように感じました。
だから例え犬の死体の写真をSNSに載せたりといった一見世間に反するように「正直に」生きたとしても、(逆に「正直に」生きたからこそ)さまざまな思いもかけない別の(傷を含めた)感情に出会うことになる、だから「正直に」生きて大丈夫なんだと、この映画は伝えているように思われました。
私は、この映画『ザ・ホエール』は、主人公チャーリー(あるいは妻メアリー)の行動理由が明確に描かれていないから大感動の大傑作になり得ていないと感じながら、一方で、偶然も相まって引き寄せられるように出来てしまう凝縮された人間関係と、人生での選択における思いもかけない選択しなかった方からの(内面外面含めた)影響のされ方について、人間を深く描いた作品になっていると思われました。
そしてこの映画の「正直に」生きるという到達は、その厳しさも含めた運命の受け入れにも通じる私達への励ましや勇気づけにも感じました。
思えば、人は周りのことは客観理解出来ても、自分のこと(あるいは妻のようなまだ存命の愛憎交わる最も近い人のこと)は客観視出来ないことも多いだろうと思われます。
そんな自分の(あるいは存命の近しい人の)行動理由は明確になんて分からないということも、「正直に」描かれていた映画なのかもしれないなとも思われたりもしました。
人間誰しもが過ちを犯す
かつて大学の教え子と恋に落ち、妻子を捨てて彼と一緒になったチャーリー。しかし恋人は数年前に死んでしまい、その喪失感から200キロを超える巨体になってしまい、ソファーから動くこともままならない。しかも太り過ぎることが原因で病気になり、後数日で死ぬことがわかる。
もう命がもたないと知ったチャーリーは、8歳の時に捨てた娘との再会を望み、距離を縮めようとするがーー。
全て彼の自業自得だ。
普通に考えると、なんて身勝手な男なんだろうと思うだろう。娘のエリーだってそりゃあんな態度をとっても不思議ではない。
だけど本作が伝えたいのは、人間は誰しも完璧ではないし過ちを犯す。クソッタレだけど、結局誰かを気にかけ、誰かを愛す……これが人間なんだと。
そこに宗教、LGBTQもテーマに組み込まれている。
物語としては、ツッコミどころが多くそんなに魅力を感じなかった。
だけど、本作の最も評価すべき点と見どころは、特殊メイクを施したチャーリー演じたブレンダーの渾身の演技だろう。
あの鯨とはチャーリー自身のことだったのだろう🐳
ピザ屋の兄ちゃんちょっとどうかって位にドン引きし過ぎ
アロノフスキー監督作品の殆どに共通するモチーフとして、キリスト教的な霊肉二元論でいう霊の追求、そして魂の解放があげられる。しかしそこに到達するために、主人公たちは宗教や信仰、つまり縦の力をあまり信用しないか無関心であり、むしろ横への水平移動、デスパレートなまでの体の酷使によって、ワンチャン恩寵の顕現を狙う逆張りの賭けに出る。彼ら彼女らの行動原理は、正に意味よりも強度優先であり、正しいか正しくないかなどどうでもいいのである。
今回の『ザ・ホエール』も、主人公チャーリーのこじれ具合が一目で分かるファーストショットからつかみはOKだし、他の登場人物も一様にこじれていて、特にトーマスのバックグラウンドには非常に興味深いものがあった。舞台脚本が原作なので基本スタティックな会話劇に終始するが、チャーリーが正に縦の力を獲得するに至る瞬間まで飽きさせなかった。
弱い人間たちの保身の生贄
元が舞台劇とのことで、舞台劇らしいつくりでした。
チャーリーの娘に対する親バカっぷりが切ない。
8歳から会っていなければ仕方ないかもだが、元妻に娘の実態を知らされても直視しない。
チャーリーは現実から逃避する。辛い現実を突きつけられると過食に逃げて身を守る。酷い言い方かもしれないけれど、恋人の死の現実から逃避して過食に走りあの巨体になったのだ。
宗教の嫌な部分の一つは、教義に外れると罪だの罰だのと信者を脅すところだ。「教え」は洗脳に近いと思う。
キリスト教は同性愛者にとっては救いどころか害だ。
本人たちに酷い罪悪感を押し付けるだけでなく同じ信仰を持つ人々を、彼らに対して白い目を向け迫害するよう仕向ける。チャーリーの恋人も信心深かったが故に罪悪感に苦しみ、さらに家族やコミュニティーから孤立した孤独感から、ああいうことになってしまったんだろう。チャーリーがそうならなかったのは、過食に逃げこんだから。(結果的にそれが緩慢な自死になってしまったが。)「救い」ってなんだろう。
チャーリーにキリスト教の、特にニューライフの「救い」は不要というのにしつこい宣教師トーマスは、真面目な青年だからこそ信念の押し付けになるんだろうが、チャーリーのためといいながら自分のためにしていることで、思いやりが欠如しているのは育てられ方のせいだろうと思う。
どんなに問題のある家族でも、そこから一人反旗を翻して離脱するのは大変なことだ。
「家族」全員、さらには親戚一同、コミュニティ全体から敵視されたら、肚をくくった心の強い人でも孤独感や寂寞感は半端ないだろうし、そこまでの決心のない人ならなおさら、人によっては罪悪感にも苦しむかもしれない。だから意を決して離れたものの、戻ってしまうことも多かろうと思う。トーマスが家族やコミュニティーに許されたとわかったときの晴れ晴れとした表情がそれを物語っている。毒家族から逃げられない真理はそういうものだと思う。
甲斐甲斐しくチャーリーの世話をするリズはあからさまなイネーブラーで、彼女も家族から孤立、唯一の仲間の兄に逝かれてチャーリーを自分に縛り付けて孤独から身を守っていたのだろう。
登場人物の、チャーリーの娘も含むほぼ全員(チャーリーの元妻は除けるかも)が弱い人間で、精神的に自立できない彼らがそれぞれ自分を守り正当化する行動をする。多分自覚はないのだろうがそのためにチャーリーを犠牲にしている。チャーリーはそれを一身に受けた吹き溜まりだった。おそらく彼はそれを知っていた。でも、孤独な彼には利用されつつも拒めない弱さがある。精神的な面だけでなく、身動きできない身体を持った物理的な不自由さからも。
自分の死期が見えてこれ以上他人に頼らなくていいとなったときに、ようやく周囲の思惑を振り切って自分の意思のみに従うことができたんだと思う。
生贄が去った後、遺された登場人物たちはどう生きて行くのだろうか。
理解はできても共感できず
フレイザーの演技は圧巻で、アカデミー賞主演男優賞も納得。
メイクだけでなく、自らの人生(結婚生活の破綻、母の死、セクハラ被害の告発をして団体側から干されたことによる重度の鬱)のダメージを、ことごとく役に昇華していたように感じました。
そんなフレイザーと、彼に負けないほど思春期の拗れまくった厄介な娘役のセイディ・シンク、この二人の演技合戦を味わう方向で楽しみました。
考えるより感じろ系な、A24の作品ですしね。
元が舞台劇らしく、基本は主人公の部屋の中の会話劇ゆえ、進展しないもどかしさに苛立つ部分も大きく。
おそらく主人公の後悔と贖罪が主題だったのだろうと感じました。
娘への愛とともに、自分の選択で失った娘との絆を取り戻してから死にたいという願いは理解できました。
タイトルも、執着によって妻と娘を置き去りにしたエイハブと、また死にいく無様で醜悪な肉体をモビィ・ディックとにかけた比喩としてつけられているのもわかる。
ただ、理解はできても共感や感動はまた別。
自分の感情の引き出しを開ける鍵は、実際の体験・経験や、歴史や宗教など文化的な肌感覚での理解、過去読んだり観たりした創作物から得た感覚といった、自分自身の中にある「なにか」の刺激ですから。
その点、本作は『白鯨』に対する教養、ゲイに対する家族の目のありよう、アメリカのキリスト教(系カルト宗教)に関する知識と感覚の共有などが求められるため、本当に楽しめるかと言われたら私には基礎知識が不足していてかなり微妙ではありました。
何しろアメリカで生まれ育ってないですからね。
同じA24でも、エブエブよりこっちだな
こっちの方が心を揺さぶられた。映画らしい作品。
あのアジア人も最高だった。メニューの人か!
納得!
シーンが少ないから舞台でも見たい。
と思ったら舞台が元なのか、どうりで。
暗い部屋の限りない光
死期の近い主人公と、彼を取り巻く(と言うよりも、そこに集まってしまったと言った方が良いだろうか)何人かの人たちによる物語り。
舞台は主人公の暮らすアパートの一室。
そこを出ようとせず、命に危険があるほど肥満しても病院にも行こうとしない(「病院には行きたくない」という台詞が何度出てきたことか!)彼のもとを訪れるのは、介護を担う女性看護師、生き別れていた高校生の娘、若い宣教師、ピザの配達人ら。
皆どこかで彼の役に立ちたいとは思っている。だけど、それぞれの事情を抱え、人生が行き止まるのをなんとか食い止めようとしている彼らには、他人を救う余裕などあるわけはない。だれもが人生の「へり」にいるのだ。
そんな登場人物たちの切羽詰まった、だけど真正直なコミュニケーションが胸にきた。
戯曲がベースになっているようだ。芝居だけですべてを表現していく俳優の緊張感とそれをきちんと映像化したスキルはとんでもない。他の要素に頼らず、脚本と芝居、そこに寄り添う舞台装置を信じ切った演出だった。
登場人物のだれもが、失敗と後悔と懺悔の気持ちを持ち、あわよくばそれを他人のせいにして楽になろうと機会を伺っている。ぼくらの人生は少なからず、そんなものかもしれない。
決して聖人にはなれない人たち。弱くて小さな人たち。そんな人たちだからこそ持つことのできる、精いっぱいの優しさが、薄暗い部屋に溢れる。光を拒んだこの部屋は、実は人間の持ちうる最大限のあたたかさに満ちていた。
涙を誘う映画ではない。だけど、泣けて泣けて仕方なかった。胸に手を当てなくても、思い当たるフシがある。これは紛れもなく「ぼくの映画」だ。
思い出したのは、カサヴェテス映画がぼくたちに教えてくれた、人間の矜持。愛するという不毛で美しいこと。そしてポール・トーマス・アンダーソンが『マグノリア』で描こうとした人それぞれの愛の役割りについて。
そしてあの『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とも遠くないところに、その主題はあると感じた。我々はなんとか歩み寄らざるを得ないほど、断絶されているということ。
引用されるメルヴィルやホイットマンの向こうみずな前進性がダークな色調にビビッドな涼を運ぶ。
今年観るべき最重要の一本だ。
どう生きたいか
残り時間を何に使うのか?
自身の残り時間を知った時、誰しも何かをしたいと考えるんじゃないかと思わせてくれる。それが親ならば尚のこと。
彼が起こす行動は長い時間を掛けることが出来ない状況の中、劇薬となるとしりつつ渾身の力を使い注力するその姿がとても惹きつけられる。
その相対として他人の目の怖さがとても残酷で心が引き裂かれる思いを目の当たりにする。
誰しも前向きに進めない時がある様に、彼もまたその姿になりたくてなったわけではないのだから。人の生きた道程を知らず見た目で疎外することの怖さも同時に思い知らされる。
自分で納得する人向き
決して面白い映画ではないので、人に薦めることはできません。
よくある「何言いたいんだかよくわからない」作品です。「いや私はこう感じた、深い」的な人にはウケるが、「何言いたいんだ、これ?」っていう方が正常な反応です。
話は単純で、要するに屈折した家族愛が主題ですが、各人の行動や考え方の根拠に共感できない、てかサッパリわからないので終始他人事として傍観せざるを得ません。
映画技術的には一軒の家の居間に限定された空間に、気弱でオドオドしたお父さんと入れ代わり立ち代わり登場するヒステリーな女性たちのコントラストを、照明を落とした暗い画面に重苦しく演出した、ということろです。まあ、ひとことで言えば「くらーい映画」
確かにお父さんは畢生の大熱演ですね。
Be honest!
あ〜この人見たことあるな〜誰だっけ〜?ああ、そうそう、ハムナプトラだ。すごいな〜役作りなのかなぁ〜?え〜?あぁ、特殊メイクか〜。いや、なんかそれもすごいな〜。ホエール???鯨だっけ???いや気になるよな〜これ。
ってな感じで、とくに前知識もなく、レビューも読まず鑑賞。
テレビのドキュメンタリーだったりバラエティー番組とかでたまに見るような、ソファーから立ちあがるのも歩くのも困難な巨体の男の人。なかなかリアルでその生活は見るほどに苦しく、切なく、辛くなるほど。
チャーリーは本来とても前向きだし、何とも穏やかで素晴らしい知性の持ち主である。だがしかし、そんな彼が"おぞましい"姿になってしまったきっかけは愛する人を亡くした喪失感からという。どんなにも強い悲しみだったのか。
その愛する人のために捨てられた妻、8歳の娘。死期を覚悟したチャーリーは高校生になった娘に会うが、娘の心は嫌悪に満ちていて邪悪なゆえチャーリーを受け入れることができない。しかしあの、人を不愉快にさせる饒舌っぷりは、まさしくチャーリーの知性を受け継いだものであろう。彼女は邪悪と言うより、実はとても冷静で正直者なのだ。
何よりもリズ。リズがすごい。亡くなった兄が愛したチャーリーを献身的に支える姿に心が震えた。リズにありがとうと言いたいし、私の中でリズは助演女優賞獲得である。
最後に、チャーリーが娘にとって正しいと思えることが伝わったと感じることができて、やっとホッとできた。
巨体だからホエールなのかと鑑賞前は思ってしまったが、そうか、娘のエッセイのことだったのか。泣かすな〜。
鑑賞が終わってシートから立ち上がる時、私はすっかりチャーリーになっていて、すごい決意を持って立ち上がったような気がした。
おぞましい:接する状態に恐怖・嫌悪を覚え、そこから逃れたい、いやな思いだ。
翻訳の松浦さんは、チャーリーが自分の姿をとらえた人に問いかけた言葉に"おぞましい"を表現した。すごくそこに深みを感じた。
依存症の怖いところは心が奪われてしまうことです。
他の事への興味が薄れてしまう、最終的には生きることへの意欲も。何故なら嬉しいとき悲しいとき淋しいとき退屈なとき、いついかなる時も食べ物のことが頭から離れない。食べないことにはどうにもこうにも不安でやってられない。きっと最初はパートナーの死という大義名分があったのでしょうが今はもう何故食べているのか自分でもわけがわからなくなっています。そもそも依存症を理性で抑えることはできません。
人生でたった一つ正しいことというのなら、病院で治療して生きなおす姿を娘に見せることだと思います。大金を残すことではなくお金の稼ぎ方を教えること、もしくはお金なんか無くても幸せに暮らせることを示すことだと思います。自分がもう生きたくない、楽になりたいから緩慢な自死を選んだのであって娘にお金を残すためというのは後付けの理由です。
厳しい言い方をするなら卑怯ですし、娘も死ぬ理由にされていい迷惑です。母親も情緒不安定でアル中ですし、娘も薬物中毒にならないか心配です。そう考えるとやはり依存症から脱却する姿をみせるべきでしょう。あとリズ、看護師なんだから食い物渡しちゃだめでしょ(笑)
人生で一度正しいことをした
凄い映画を観ました。序盤から中盤まで、退屈な映画だなと思っていましたが、ラストの衝撃が心を揺さぶるほど凄かったです。
人は容姿ではなく、心が大切なんだと痛感させられました。
これほどの衝撃のある映画は、そうないのではないでしょうか。名作と言っても過言ではないと思います。
クジラがモチーフ
この映画が『ザ・ホエール』というタイトルになっているのは、クジラがモチーフになっているからである。クジラに例えられているのは主人公の体重272キロの巨漢チャーリー、そのモデルになるクジラはアメリカの作家メルヴィルが著した長編小説『白鯨』に登場する白いマッコウクジラである。8歳の時捨てられたチャーリーの娘エリーは10代半ばで『白鯨』を読んでエッセイを書いた。このエッセイをチャーリーは何度も読み返すほど心の拠り所にしていて正直な気持ちを吐露した文章だといって激賞している。
『白鯨』というのは、次のような内容のものである。語り手のイシュメイルが捕鯨船に乗りたくて港町にやってきて、黒人の銛打ちクィークェグと出会い、一緒に捕鯨船ピークォド号へ乗り込む。船長であるエイバブは、かつて白鯨に片足を食いちぎられた過去を持ち、義足を装着していて、その復讐に執念を燃やしている。数年にわたる捜索の末、白鯨と対峙するが、船は沈没させられ、イシュメルだけが生還する。
一方、それに対するエリーのエッセイというのは、次のような内容のものである。クジラには感情がなく、船長エイバブがどれだけ復讐心を燃やそうとそれが伝わらない悲しさがある。エイバブはクジラを殺せば人生が良くなると思っているが、実際はなんの意味もない。クジラだけの描写の章はあまりにつまらなくて悲しくなった。作者(メルヴィル)は自身の悲しい物語を通して少しだけ読者を救おうとしている。『白鯨』を読んで、自分の人生について考えさせられ、良かったと思えるようになった。
大学のオンラインエッセイ教室の講師であるチャーリーは、娘には書く力があり、その文章に娘の持つ知性と誠実さを読み取った。
偶然にも今月からカルチャーセンターのエッセイ教室に通うことになった。正直に書くことがなにより大切ということを肝に銘じたい。
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