ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
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うーん...
ブレンダン・フレイザーの最優秀賞男優には納得しました。
リズのホン・チャウも、とても良かったです。
しかし、ストーリーは“???”でした。
娘への絶対的な愛は、ひしひしと伝わってきたのですが…
母も娘も、もちろんリズも、チャーリーのこと、
ものすごく気に掛けてるじゃないですか。
だったら、やはり、だれか病院連れてこうよ…っていう、
最もな思考が頭から離れずで…
宣教師の立ち位置も、娘が実は良い子っだって思わせるために、
仕込んだだけ?にしては、若干煩わしかったなぁ…
もう少し、チャーリーのために良い動きしてくれるのかと思ってた。
チャーリーにとっては、最後は笑っていたからハッピーエンドなのかなぁ…
もう一回観たら、また違うところに気づくかなぁ…
ブレンダン・フレイザーを観る
チャーリーをめぐる人間関係の温かさ
何度も訪ね、母親から自分のことがどれほど伝わっているか、さり気なく探ろうとするところを見ると、実の娘のエリーは内心はチャーリーに無関心ではないようです。アランの妹が彼を献身的に看るのも、今は亡き兄の身代わりとしてだろうと思われます。
家族を捨てて、愛する同性の元に走ったというチャーリーですけれど、彼に「捨てられた」という元妻や娘は、本当にチャーリーを嫌い、憎んでいたのでしょうか。
チャーリー自身は、その自責から、いわば「白鯨」と化した自身を呪っていたようですけれども、それは、自虐的過ぎるとも言えないでしょうか。
そう考えてみると、チャーリーの恵まれた人間関係は、実は本当は、温かなものだったとも、評論子には思われます。
チャーリーが頑なに治療を拒んでいることも、限られた遺産を、どうせ助かりはしない(また、助かろうとも、助かりたいとも思っていない)自分の治療費で浪費することなく、少しでも多く遺族に残せるようにとの配慮だと見るのは、果たして「穿ち過ぎ」というものでしょうか。
破滅に向かって進みつつあることは間違いがないのですけれども。しかし、評論子は(評論子なりの)チャーリーの心情に思いを致すと、見終わって、心に沁みるような一本だったと思います。
佳作であったと思います。
この映画で伝えたかったことは何だったのだろうか 人生の意味、宗教、...
この映画で伝えたかったことは何だったのだろうか
人生の意味、宗教、セクシャルマイノリティ、等々…
各々のセリフに正解となる解釈がある気がするが、読み取れないことが多く(これは自分の読解力の無さが原因か)
主人公の醜悪さで、集中が削がれる場面もしばしばあった
引き込まれる魅力があったことは確か
作品より俳優陣が凄過ぎて!!
(原題) The Whale
「推敲」への幻想
◉書き直したかった男
人が存在することや、生きていくことへの大きな問いかけをチャーリー(ブレンダン・フレイザー)が発していた訳ではなかった……と思う。チャーリーの瞳があまりに深い悲しみを湛えていたから、そんな風に思ったのだが、チャーリーが見つめていたものは、妻子を見捨てた自らの罪悪の浄化。そして娘への償い。嘆き悲しむ巨体の男の魂は、次第に娘と言う小さな点に集約されていく。
同性の恋人ができて妻と娘を捨て、その恋人が死んだショックで引き込もりになって肥満からの多臓器不全になるが、娘に金を残すために治療を拒否。この迷いのない自己犠牲。息を切らせて暗い部屋を這い回るのは、とにかく死期を早めたいがための行為にしか見えない。
しかし、文章や言葉への意欲は遂に最後まで尽きることはなかった。文筆の専門家として教鞭を取っているチャーリーは、教え子たちに「推敲を重ねればエッセイは良質になっていく」と説く。それは一つの妄想がチャーリーを捉えていたからだではなかったか。既に過ぎてしまった人生であっても、自らの悔恨やあからさまな想いを素直に書き綴れば、別の人生に成り変われるかも知れないと言う幻想。
◉白い鯨と部屋の中の鯨
チャーリーが「娘のエリー(セイディー・シンク)にはエッセイを書く力がある」と称賛した、課題エッセイの文意が映画の中ではよく聞き取れず、パンフを買いました。このただのメモ書きにしか思えないようなエッセイに、チャーリーは娘とのよすがを求めていた。
エッセイは「白い鯨を殺すことがエイハブの人生のすべて。しかしその生き甲斐は悲しい。鯨には感情などないのだから。ただ大きく哀れな生き物。殺してもエイハブの人生はよくはならない。私は登場人物たちに複雑な思いを抱いた。鯨の描写の退屈な章にはうんざりさせられた。語り手は自らの暗い物語を先送りする。」と言った内容。
これは『白鯨』への感想を綴ったエッセイであるが、同時にこの作品が訴える暗喩が詰まっているとして……
「ただ大きく哀れな生き物」とは、娘が憎悪と侮蔑の対象にしている現在の鯨(父親)。娘にとっては、チャーリーが鯨の想いについてどれほど説明しようとしても、それは「退屈」で「うんざりした」行為だ。
チャーリーは悔恨の情いっぱいで、過去の鯨を追って仕留めようとしている。だが、殺したところで、何にもならない。「暗い物語を先送り」するように、もう考えるのは止めようと娘が呟く。
娘の思いは厳しくて、救いがなかった。突き放されるチャーリー。けれど、いじましいぐらい控え目に、繰り返し繰り返し娘への愛を差し出そうとする父の姿。
やがて推敲できなかった過去から光が射して来る。そこには妻と娘が居て、チャーリーの魂は光の中に紛れて消えていく。
ひたすらに信ずるだけの者ではなくて、悩み苦しんだ者が救われると言う、やるせ無いけれど納得のいく結末。
見ているのも辛くなるような巨漢であるのに、身体いっぱいに優しい笑みが溢れているようだったチャーリー!
◉リズも大きな安寧の海に沈む
看護師のリズ(ホン・チャウ)がしばしの眠りに就いたチャーリーを、まるでベッド代わりにして寄り添うシーン。見ていて、私もそこに倒れ込めるならそうしたいほどの、安らぎを感じてしまった。何故だったろう。辿り着く先は判っていると言う、諦念込みの安堵感だったのか。
それにしても看護師対病人の関わりを差し引いても、余りあるリズの安らぎ。リズにとってチャーリーの胸に沈むことは、つまり兄のアランとチャーリー二人が居る海に、しばし沈み込むことだったのかも知れないと思いました。
Beautiful
インセプション、トータル・リコール、そしてレスラー…
この映画はオープンエンドタイプの終わり方をしている(と初見時に思った)。
上記に上げた映画と同じタイプの終わり方をしている、と。
映像上から読み取れるのは、あれだけ神の存在を作中否定したにも関わらず、ただ彼の中にあるキリスト教的な記憶からなのか、宗教的サルベーション(救済)ぽい救われ方をする、というエンディングの描き方をしている。
しかし、わたしが考えるエンドは、娘がドアを開けたその瞬間にショックで彼は死んだ。その後の展開は走馬灯みたいな、自分が見たかった世界。そのため娘の態度も彼にとっては大変好ましく、そして不可能だった歩くという行為も可能に、そのうえ天国へサルベーションなど、彼に不可能なことも全てやってのける。
じゃあバッドエンドかというと違い、この物語は彼の「終活の話」で、心残りである娘への愛は伝え終わってる。あとはどう死ぬかの考え方の話になっている。
監督アロノフスキーとしては、「もしかしたら娘は立ち去ったかも、もしかしたら白鯨のエッセイを朗読してくれたかも、現実に何が起こったかはそこまで重要じゃない。自分の中でどう物語が終わったか、それが大事」という考え方を伝えたかったのだと思う(π、レスラー、ブラックスワン、マザー!から考えるに)。
そしてそれがヒューマンドラマを求めている観客にはそのままサルベーションの感動物語として受け取られ、穿った観客にはその救われ方の提示の仕方に、心を引っ張られ続ける。
そんな映画だと思った。
・補足
作中、宣教師が「肉欲に溺れたから死んだ。神を信じれば救われる(的なニュアンスの発言)」という、彼にとってこの世で最も聞かされたくなった発言をして、その上でわざわざあの天国へ向かうような描写=キリスト教的救済描写を入れた。
なんであんな描写になったのか、ってことも、彼がもっとも見たかった景色を死ぬ間際にすべて見られたからだと思う。
娘に救われる、パートナーが救いをもった場所=天国へ連れて行ってもらえる、過去にもっとも思い出深い波打ち際の景色を見ることができた、という。
これで、パートナーが天国から手を差し出す、みたいな幻を入れたら、よりフィクションとしてのこの解釈が分かりやすくなったけれど、その解釈も認めつつ、痛烈な信仰による盲目さ、みたいなものを観客の視線でも感じさせようとしたんじゃないかとも思った。
しかし実際のところ、その種明かしはオープンエンディングとしてあやふやに提示された。つまりこれらの考察も全部あやふやになった。この映画においては、それはそれで正しい解釈だと思う。
緩慢な自殺に向かう巨鯨に救済の海はあるのか
舞台劇が原作なだけあって、アパートの一室で繰り広げられる、重苦しく息詰まるような密室心理劇です。外は雨か曇りの陰鬱な天気で、アパートの室内は終始薄暗く澱んだ雰囲気は、暴飲暴食で信じられないくらい肥大化した主人公の昏く絶望的な心象風景のようです。さらに、次々と現れる宣教師、彼が棄てた娘、妻達によって、欺瞞,偽善、憎しみ,愛情、悔恨、想い出が彼を苛むのは、観ていて息苦しくなります。正直言って、主人公にはまるで感情移入できないし、彼のアパートへの闖入者達は、どいつもこいつも身勝手でイラつくし、映画の内容を全て理解できているわけではありません。それでいて、この救いようのないドラマから目が離せないのは、監督の手腕であり、また、この異常とも言えるキャラを演じ切ったブレンダン・フレイザーの俳優としての誠実で真摯な姿勢だと思います。異常なキャラはオスカーを取りやすいと言われていますが、そんな事は関係なく、いち映画ファンとしてブレンダン・フレイザーの帰還に拍手したいと思います。
素晴らしい俳優陣
予備知識等、ほとんどいれずに鑑賞しました。
閉ざされた心と空間がほの暗い画面を通して匂うようでした。
体調を崩している大きな男、壁一面埋めつくされている本、食べ物の臭い、人が生活して生きているにおい。
その家の中、彼の前に現れる人々の頭の中や心は明かされることはなく、吐露することも無く、大きな男の前でそれぞれの人生を歩んでいるんです。
明らかに死が近い男の前で人々の葛藤が全く別の人生であると感じさせてくれました。
男と彼らのつながりを絆と呼ぶのか情と呼ぶのかは分かりませんがとてもリアルに身近に感じました。
主人公の人生が本軸ではありますが、それだけでは無い、登場人物、彼氏も含めてすべての人生を垣間見たような気がします。
人生
部屋の中だけで起こる映画
人生最後の1週間
もうすぐ亡くなる人、あんなに話せないし、あんなに食べれないよなぁと思いつつ
ハムナプトラ大好きだったわたしは、復活ブレンダン・フレイザーさんの名演技は素晴らしいと感じました
もっと言えば、リズ役の女優ホン・チャウさん
あの方
めっちゃ凄い女優さんですね
アカデミー賞見た時、華やかで綺麗な人と思ってましたが、映画のなかだと別人ですね
夜勤明けのナースにしかみえない笑
泣きの演技凄い✨
役者達が素晴らしいと感じた映画です♪
舞台劇の映画化というし、アカデミー受賞だし、どう思うかなと思いなが...
舞台劇の映画化というし、アカデミー受賞だし、どう思うかなと思いながら足を運んだ。
舞台劇の独特な世界観が割とそのままなんだなと感じた(舞台はちょっとニガテ)。それに、たまにある難解すぎてシンプルにさすがアカデミー賞!と思えないパターンの方だった。
でも、嫌いじゃないかも、これ。
決して明るい内容ではない中、特に食べるシーンが結構強烈だった。
憎しみをぶつけるように、自分を痛めつけるように、なにかの不安を埋めるように、苦しそうな顔で食べるその姿に思わず目を背けたくなるほど。
封を開けたチョコバーを引き出しに戻すなよ、食べかけのチョコバーを引き出しに戻すなよ、と細かい点も気になってしまったけれど。。。
宗教の青年のしつこさと人の話を聞かない点はうんざりするし、娘の情緒不安定ぶりも見ていて心地よくないし、優しそうなピザ配達員が彼の姿を見た時の反応にイヤな気持ちになるし、、、
でも、なぜだろう。
これ、嫌いじゃない。
まるで舞台を観ているような臨場感でした。
ほぼ主人公の部屋の中で、物語が進んでいきます。
まるで自分がその部屋の中にいるように感じました。
だからこそ、主人公の200㌔を超える体型が暑苦しいです。
妊娠中、私も臨月に10㌔体重増加した経験があります。
歩く、立つ、寝るなど、ひとつひとつの動作がしんどかったです。
だからこそ、主人公の大変さには同情しますが…。
同時に、よくその体重をキープできるなとも呆れます。
アメリカの食べ物は、ひとつひとつカロリーが高い上に、かまなくていいものが多いので、満腹感も日本食に比べると感じにくいんですよね。
私も、アメリカ滞在時、ひと月で5㌔太ったことがあります。
体重200㌔以上は、治療が必要なレベルだと思うけれど、大人に受診や入院は強制するのは難しいですね。
思春期の娘が、自分を捨てた父親を訪れることには、驚きました。
暴言や素行の悪さは思春期あるあるな気がしますが、彼女のもろさは父親の責任大でしょう。
お金を遺すことよりも、まず、我が子より己の欲を優先したことを誠心誠意謝って欲しいです。
親に十分に愛されなかった人の飢餓感を、他人が癒すことは難しいです。
「白鯨」のフレーズが、映画の中で引用されています。
あることに執着して、例えそれを成し遂げても、人生は変わらない。
ラストで主人公が解放された瞬間、私も視界が開けた気がしました。
フレイザーの見事な演技と、巧みな語りが絶妙に連動した一作
今年の第95回アカデミー賞授賞式での、主演男優賞とヘアメイク&スタイリング賞の受賞は、まさに本作を象徴しています。長年の苦しみの後で復帰を果たしたブレンダン・フレイザーの、自らの人生を反映したかのような(というか、間違いなく反映した役作りになっている)演技はどのシーンにおいても忘れ難い印象を残します。
苦難を抱え死期を悟った主人公・チャーリーが家族の絆を取り戻そうとする話、という大筋は予告編でも想像が付くし、実際その通りなんだけど、本作は”泣かせる”要素以上に、薄紙をはがしていくように真実が明らかになっていく語り口が非常に巧みで、展開の面白さという点でも特筆に値する作品となっています。
ほとんどチャーリーの居室で物語が進むため、画面に差し込む光は少なく、話の深刻さも相まって全編やや落ち着いた、というか暗い印象を受ける映像となっているんだけど、それだけにある場面の輝き、開放感は圧倒的です。この強烈な対比によって、物語のテーマが映像的にもより一層明瞭となっています。
ほぼ最初から登場するある人物は、その行動によって物語の方向性に決定的な影響を与えるんだけど、行為自体は客観的には許し難くても、でも自分でも思わず同じ行動をしてしまうんじゃないか…、と後々まで考え込まされる場面となっています。
パンフレットは、作中で重要な役割を果たす聖書になぞらえているのか、(チャーリーの巨躯とは対照的に)小ぶりだけど絵画作品を彷彿とさせる装丁、そして手書きエッセイ風のレイアウトとなっているなど入念な造りです。
ケア
あの身体でどうやって生活してるんだろう?と思っていたが、いろいろ生活の知恵が出てきて興味深かった。手伝ってもらっているとはいえ、案外こぎれいに暮らしてるし。
リズのケア役割が気になっちゃった。仕事も看護師だし、ずっと誰かのケアをしていて大変そう。彼女の安まるところはあるのかな。
娘の10代のイラつきはみていて身につまされた。あんな風に私も人を傷つけていたのかな…。お父さんに優しくしようと思った。カラスの皿割ったり、マジでヤバいやつの可能性も捨てきれず、今ひとつ感動できませんでした。録音送ったのも結果オーライとはいえ、動機は黒いでしょ。チャーリーは娘の未来を信じられて満足しただろうけど。お母さんはムリって思ってたしなあ。
「私を捨てたのね!」とぶつけられるなら、その点については大丈夫なんじゃないかと思った。捨てられたなんて認めたくはないものだから。
まなざしの地獄
魂の贖罪と救済については、玄人・素人問わず多くの方々がきっと論じておられるであろうから、私は別切り口から。
どれだけ深く惨たらしい傷を負っていようとも心の傷は他人には見えない。
だから命を脅かすまでに深刻な極限状態にあるチャーリーの心を「体型」という誰の目にも見える形で表現したアロノフスキー監督の手法は非常に良かったと思う。
後述するがそれは「人々のまなざしという檻」を検査する試験紙にもなっていると感じた。
自らの命の終わりを悟ったチャーリーは贖罪によって魂の救いを求めるが、そもそも「罪の意識」は何故生じたのか?
チャーリーはアランを愛し、それによって「妻と娘を捨てる選択」をした。
それがチャーリー自身が考える罪であり、娘も妻も周囲の人々も大多数の鑑賞者も同様に考える事であろう。
しかし、それは本当に「罪」なのであろうか?
コーランでは4人までの妻帯が認められている。(4人を精神的にも経済的にも平等に愛せることが条件だが)
日本の平安貴族も正妻以外の妻を持つ事が公的に認められていたし、現代ではフランスを始め30カ国以上もの国で同性婚は法律として認められている。
時代や場所が違えば「常識」や「正義」は180度違う事も充分あり得るのだ。
つまりメアリーが「チャーリーがアランを愛すること」を赦し認めて、そんなチャーリーを丸ごと愛してあげられたならば、チャーリーはメアリーと別れる必要もなくエリーが捨てられることもなかったのだ。
社会学者の見田宗介は著書「まなざしの地獄」の中で、「私たちは他者の目を気にし、他者のまなざしを抽象化してそれに拘束される」という旨を述べている。
つまり「世間の目」や「社会規範」という実態の希薄なものを恐れて、それらの非難を受けないように自らを過剰に律してしまうのだ。
そのコントロールが出来なかった場合、罪悪感に苛まれ、心は傷を負っていく・・・。
その傷が心を崩壊させるまでに深まってしまうと、精神は修復措置として「別欲求のすり替え」でなんとか歯止めをかけようとする。
それが過食であったり(チャーリー)アルコール依存であったり(メアリー)宗教(アラン)終末思想(トーマス)他者攻撃性(エリー)であったりする。
リズですら、他者(メアリー、エリー、トーマス)を排斥してまでの過度のチャーリーへの献身によって自分自身の問題から目を逸らそうとしている。
しかし、彼らが囚われている罪悪感は本当にそこまで彼らを責める必要があるものなのだろうか?
彼らが命を犠牲にしてまで贖わねばならない大罪なのか?
フランスの思想家ミシェル・フーコーは「規律権力」という概念を提唱した。パノプティコン型監獄の事例が最も有名かと思うが、これは
①円形に囚人の収容室を配置し、中央に看守塔を設置する。
②看守塔はマジックミラーのように、看守塔からはすべての囚人が見えるが、囚人からは看守塔は常に見えるものの中に看守がいるかはわからないシステムになっている。
③囚人からは看守の存在が判断出来ないので、看守がいようといまいと24時間「今、監視されているのではないか?」という不安に駆られ、常に模範的行動を取ろうと自らを律してしまう。
というものである。
私達は「世間の目」というパノプティコンを恐れ、虚像に過ぎない「正義」「常識」「社会通念」という規律権力に服従してやしないか?
その規律権力が自分に向いた時、人は罪悪感に囚われてしまい、一定の限界を超えると依存行動に走ってしまう。
チャーリーはそれがたまたま過食だっただけだ。
また規律権力が他者に向いた時。
これが1番良くない。「自分は正しい」「こいつは怠惰で欲望に負けて罪を犯したどうしようもない奴だ」という意識が、他者への侮蔑や攻撃に繋がってしまう。
貴方は心が疲れた時、それを何で癒すか?嗜好品か?音楽か?
「映画」を癒しに利用してやしないか?それが「癒し」のうちは構わないが「逃避」になった時、人はチャーリーの容姿を非難したり嘲笑ったり侮蔑する事は出来ないと思うのだ。
人は誰だってチャーリーになる危険性を常に内包しているのだ。
「まなざしの地獄」で見田はとある犯罪者N.Nの「精神の鯨」とも呼ぶべき夢の話を紹介している。
「鯨の背の上で大海を漂流している『ぼく』は飢えて鯨に『君を食べていいかい』と聞く。鯨は『仕方無いよ』と答え『ぼく』は鯨をほんの少しだけ、また少しだけと毎日食べていく。3分の1食べたところで酷いことだと気付いて謝るが、鯨はもう死んでいた。そのとき『ぼく』は、鯨は自分自身の精神であったということに気付く」
という話だ。
チャーリーが暴食するピザはチャーリーの精神であり、暴食行為は緩やかな自殺だ。
食べるのをやめさせる手段は、ピザ=鯨が自分自身だと気付かせる事ではなく(本人は案外とっくに気付いているものだ。)大海の漂流から救い出すことだ。
「娘との関係の修復」や「キャプテン・エイハブの執念」は、乾いた大地への上陸という一縷の救いなのだろう。たとえそれが無人の小島だったとしても・・・。
この映画に込められた真の主題は
「他者への寛容」だと思う。
それがあれば、贖罪も救済も最初から発生しないのだ!
チャーリーは人を殺したわけでも何かを盗んだわけでもない。
アランを愛しただけだ。
理解と寛容があれば、悲劇の連鎖は起こらなかった。(同性愛の問題ではなくて、こいつが悪い!罰されるべきだ!と感じる事例すべてに応用して考えて欲しい)
理解と寛容があれば、人は「本当の自分」を正直にさらけ出せるのだ。
他人のまなざしを恐れることなく。
チャーリー自身は本質的に寛容な人柄だ。チャーリーの寛容が最後に若者2人を彼らの地獄から救う。若者達が救われた事によって、熟女2人もそれぞれの地獄から救われる未来もあるかもしれない。
チャーリーの辿り着いた小島は、大陸のすぐ近くにあって彼を取り巻く愛すべき人々を助けたのかもしれない。
チャーリーに対して嫌悪や侮蔑の感情が沸き起こる場合、自分が規律権力の囚人になってはいないか問い直す必要があると思う。自分の短い人生で刷り込まれた社会通念(だと自分が思い込んでいるもの)で、他者を断罪してはいないだろうか?
チャーリーの体型を試験紙として、折に触れ「自分の正義」を内省してみたいものである。
他者理解と寛容が、この世を地獄から解き放つ未来を願って。
数歩に過ぎないかもしれないが幸せな未来に向かって我々の歩みを先へと進めてくれる本作。文句無しの星5だと考える。
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