ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
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まなざしの地獄
魂の贖罪と救済については、玄人・素人問わず多くの方々がきっと論じておられるであろうから、私は別切り口から。
どれだけ深く惨たらしい傷を負っていようとも心の傷は他人には見えない。
だから命を脅かすまでに深刻な極限状態にあるチャーリーの心を「体型」という誰の目にも見える形で表現したアロノフスキー監督の手法は非常に良かったと思う。
後述するがそれは「人々のまなざしという檻」を検査する試験紙にもなっていると感じた。
自らの命の終わりを悟ったチャーリーは贖罪によって魂の救いを求めるが、そもそも「罪の意識」は何故生じたのか?
チャーリーはアランを愛し、それによって「妻と娘を捨てる選択」をした。
それがチャーリー自身が考える罪であり、娘も妻も周囲の人々も大多数の鑑賞者も同様に考える事であろう。
しかし、それは本当に「罪」なのであろうか?
コーランでは4人までの妻帯が認められている。(4人を精神的にも経済的にも平等に愛せることが条件だが)
日本の平安貴族も正妻以外の妻を持つ事が公的に認められていたし、現代ではフランスを始め30カ国以上もの国で同性婚は法律として認められている。
時代や場所が違えば「常識」や「正義」は180度違う事も充分あり得るのだ。
つまりメアリーが「チャーリーがアランを愛すること」を赦し認めて、そんなチャーリーを丸ごと愛してあげられたならば、チャーリーはメアリーと別れる必要もなくエリーが捨てられることもなかったのだ。
社会学者の見田宗介は著書「まなざしの地獄」の中で、「私たちは他者の目を気にし、他者のまなざしを抽象化してそれに拘束される」という旨を述べている。
つまり「世間の目」や「社会規範」という実態の希薄なものを恐れて、それらの非難を受けないように自らを過剰に律してしまうのだ。
そのコントロールが出来なかった場合、罪悪感に苛まれ、心は傷を負っていく・・・。
その傷が心を崩壊させるまでに深まってしまうと、精神は修復措置として「別欲求のすり替え」でなんとか歯止めをかけようとする。
それが過食であったり(チャーリー)アルコール依存であったり(メアリー)宗教(アラン)終末思想(トーマス)他者攻撃性(エリー)であったりする。
リズですら、他者(メアリー、エリー、トーマス)を排斥してまでの過度のチャーリーへの献身によって自分自身の問題から目を逸らそうとしている。
しかし、彼らが囚われている罪悪感は本当にそこまで彼らを責める必要があるものなのだろうか?
彼らが命を犠牲にしてまで贖わねばならない大罪なのか?
フランスの思想家ミシェル・フーコーは「規律権力」という概念を提唱した。パノプティコン型監獄の事例が最も有名かと思うが、これは
①円形に囚人の収容室を配置し、中央に看守塔を設置する。
②看守塔はマジックミラーのように、看守塔からはすべての囚人が見えるが、囚人からは看守塔は常に見えるものの中に看守がいるかはわからないシステムになっている。
③囚人からは看守の存在が判断出来ないので、看守がいようといまいと24時間「今、監視されているのではないか?」という不安に駆られ、常に模範的行動を取ろうと自らを律してしまう。
というものである。
私達は「世間の目」というパノプティコンを恐れ、虚像に過ぎない「正義」「常識」「社会通念」という規律権力に服従してやしないか?
その規律権力が自分に向いた時、人は罪悪感に囚われてしまい、一定の限界を超えると依存行動に走ってしまう。
チャーリーはそれがたまたま過食だっただけだ。
また規律権力が他者に向いた時。
これが1番良くない。「自分は正しい」「こいつは怠惰で欲望に負けて罪を犯したどうしようもない奴だ」という意識が、他者への侮蔑や攻撃に繋がってしまう。
貴方は心が疲れた時、それを何で癒すか?嗜好品か?音楽か?
「映画」を癒しに利用してやしないか?それが「癒し」のうちは構わないが「逃避」になった時、人はチャーリーの容姿を非難したり嘲笑ったり侮蔑する事は出来ないと思うのだ。
人は誰だってチャーリーになる危険性を常に内包しているのだ。
「まなざしの地獄」で見田はとある犯罪者N.Nの「精神の鯨」とも呼ぶべき夢の話を紹介している。
「鯨の背の上で大海を漂流している『ぼく』は飢えて鯨に『君を食べていいかい』と聞く。鯨は『仕方無いよ』と答え『ぼく』は鯨をほんの少しだけ、また少しだけと毎日食べていく。3分の1食べたところで酷いことだと気付いて謝るが、鯨はもう死んでいた。そのとき『ぼく』は、鯨は自分自身の精神であったということに気付く」
という話だ。
チャーリーが暴食するピザはチャーリーの精神であり、暴食行為は緩やかな自殺だ。
食べるのをやめさせる手段は、ピザ=鯨が自分自身だと気付かせる事ではなく(本人は案外とっくに気付いているものだ。)大海の漂流から救い出すことだ。
「娘との関係の修復」や「キャプテン・エイハブの執念」は、乾いた大地への上陸という一縷の救いなのだろう。たとえそれが無人の小島だったとしても・・・。
この映画に込められた真の主題は
「他者への寛容」だと思う。
それがあれば、贖罪も救済も最初から発生しないのだ!
チャーリーは人を殺したわけでも何かを盗んだわけでもない。
アランを愛しただけだ。
理解と寛容があれば、悲劇の連鎖は起こらなかった。(同性愛の問題ではなくて、こいつが悪い!罰されるべきだ!と感じる事例すべてに応用して考えて欲しい)
理解と寛容があれば、人は「本当の自分」を正直にさらけ出せるのだ。
他人のまなざしを恐れることなく。
チャーリー自身は本質的に寛容な人柄だ。チャーリーの寛容が最後に若者2人を彼らの地獄から救う。若者達が救われた事によって、熟女2人もそれぞれの地獄から救われる未来もあるかもしれない。
チャーリーの辿り着いた小島は、大陸のすぐ近くにあって彼を取り巻く愛すべき人々を助けたのかもしれない。
チャーリーに対して嫌悪や侮蔑の感情が沸き起こる場合、自分が規律権力の囚人になってはいないか問い直す必要があると思う。自分の短い人生で刷り込まれた社会通念(だと自分が思い込んでいるもの)で、他者を断罪してはいないだろうか?
チャーリーの体型を試験紙として、折に触れ「自分の正義」を内省してみたいものである。
他者理解と寛容が、この世を地獄から解き放つ未来を願って。
数歩に過ぎないかもしれないが幸せな未来に向かって我々の歩みを先へと進めてくれる本作。文句無しの星5だと考える。
魂の救済ドラマ
巨漢のチャーリーは自力で動けないほど太っているため、必然的に室内だけで物語は展開されることになるのだが、元々の原作が舞台劇だと知って納得。物語は彼と彼の周辺人物の会話だけで構成されており、一見すると退屈しそうな感じなのだが、示唆に富むセリフや、個性的なキャラクターのおかげで最後まで飽きなく観ることが出来た。
チャーリーと看護師リズの関係、チャーリーと娘エリーの関係、更には映画冒頭で突然宗教の勧誘にやって来た青年トーマスの素性などが、物語の進行とともに徐々に判明していく。
監督は鬼才ダーレン・アロノフスキー。氏の作品は毎回凝りに凝った神経症的な映像演出に度肝を抜かされるのだが、今回はほとんどそういったテイストは見られない。盟友マシュー・リバティークのカメラワークも”お行儀”がよく今一つ覇気が感じられない。原作者が自ら脚本を書いていることもあり、おそらく敢えて映画的ではない作りにしたのかもしれない。
ただ、映像はともかく、死期が迫った男の心の闇に照射したドラマはこれまで一貫してアロノフスキーが描いてきた”孤独”というテーマに相関するもので、そこにはやはり見応えを感じた。
個人的には、チャーリーの過去の悔恨、娘との絆の再生、そしてラストの幕引きの仕方に過去作「レスラー」がダブって見えた。嘘ばかりをついてきた主人公が全てを失い初めて知った大切なもの。それを取り戻すための葛藤は正に「レスラー」のそれと一緒である。エモーショナルさという点では大分趣が異なるが、本作もある種の魂の救済ドラマという気がした。
本作のモチーフになっているメルヴィルの「白鯨」の使い方も、ドラマを深淵にするという意味では実に興味深く考察できた。
”クジラ”のような巨漢のチャーリーと彼を憎むエリーの関係は、「白鯨」におけるモビィ・ディックとエイハブ船長に照らし合わせて考えることが出来る。エリーは当然チャーリーに復讐しようとやって来たのだが、果たしてそれが出来るのどうか?本作は基本的にチャーリーの視点で紡がれる魂の救済ドラマであるが、一方でエリーの視点に立てばこれは「白鯨」になぞらえて観ることも可能である。
あるいは、宣教師トーマスの存在も「白鯨」との関わり合いで言えば興味深く読み解ける。「白鯨」の中には旧約聖書からの引用と思われる固有名詞が複数登場してくる。そういう意味で、この小説には宗教的なメッセージが込められていることは間違いない。それとの絡みで考えれば本作におけるトーマスの存在もかなり大きな意味を持つように思う。宗教によって救われる者、救われずに破滅する者。人間にとっての宗教とは何なのか?改めてそれについて考えさせられる。
キャストでは、何と言ってもチャーリー役を演じたブレンダン・フレイザーのインパクトが強烈である。特殊メイクを施して体重272キロの巨漢に文字通り”変身”し、醜く太った体型を余すところなく披露している。若い頃はアクション大作で主演を張った人気スターも、今ではすっかり影が薄くなってしまったが、本作で見事に第一線にカムバックしオスカーを受賞した。これもまた先述の「レスラー」で華麗な復活を遂げたミッキー・ロークとダブって見える。
尚、フレイザーと言えば、彼が主演した「ゴッド・アンド・モンスター」という作品も思い出された。面白いことに彼の役所はその時とは真逆のポジションになっており、時の流れを感じてしまう。まるで狙ったかのようなキャスティングだが、両作品を見比べてみると本作は更に味わい深く鑑賞できるかもしれない。
何を伝えたかったのだろう? 価値観⁉️
家の中のシーンだけでこれだけのメッセージを伝えられたのは凄いと思いました。
私は価値観のメッセージと受け止めました。
例えば、お風呂掃除のこだわりで、毎日シャンプー容器まで洗う人がいたとしても、大半は綺麗だねってことに気づかれないと思います。
人それぞれのこだわり・価値観の違いかな?
同性を好きになる・子供を育てる・宗教政治を薦める・好きな人を陰で支える・誰かのために仕事をしてお金を稼ぐ
全て興味のない人からしたら何も感じないこと…
タイトルであるホエール
白鯨の小説を読んだ娘のエリーの感想は、
鯨に脚をもがれ復讐しようとしているが、鯨からしたらどうでもよいこと、興味など無い
世の中見えないところで、誰かのために一生懸命何かをやっているのかな?と思いました。それが価値観が違うと何も見えてこない…
余談ですが…
政治だけは価値観の違いと思わせてはダメだと思う
政府はきっと見えないところで、一生懸命何かをやっている人も多くいるとは思う。
しかしそれが見えない、日頃視えるように活動して欲しい。
選挙の時だけ一生懸命名前を出しても、何やっているかわからない政党・人に対して投票場まで脚を運べない、私みたいな者もいるため、陰でコツコツやるのではなく、しっかりとわかりやすく視えるようにして欲しい
復活❗️
やっと劇場で観れました。
久々のブレンダンフレイザー主演との事で楽しみにしていました。
青春の輝きを見てファンになり、ハムナプトラシリーズで活躍してからは、自分的にはご無沙汰だった時にアカデミー賞主演男優賞との嬉しい知らせが!
全く違和感のない巨体の演じ方であり、まさにクジラです。あっという間の二時間でした。
これからも期待しています。
生きる気持を全面に出して欲しかった…
善悪は別としてどんな形であれ出会った人々には色々な形の感謝、愛情が生まれます。その中で自分の欲望から行った行為の正当化、その行為の反省から考える相手へ求める期待との葛藤は興味深いものでした。
が…しかし出会った相手方の生きて欲しいとう気持ちの視点から捉えると、作品は主人公の死を前提に葛藤が展開してて、生きる努力を放棄してたのは私には腑に落ちず残念です。
見る角度が異なるとまた違う気持ちになるのですかね。
身体を破滅させる心の闇と痛み
うつ病と過食の関係の論文の翻訳している最中だったので丁度よかった。
ダーレン・アノロフスキーは、やはり一筋縄ではいかない良い作品を撮るな。
チャーリーは過食に走ったが、人によってアルコールであったり、薬物であったり、ギャンブルだったりする。これらは、心の苦しみを麻痺させる生きるための杖だ。「ダメ!ゼッタイ!」で片づけられる問題ではない。
壮絶な生きることの痛みを感じながら、何とか持ちこたえている人は、少なくないのではないか。
ブレンダン・フレイザーに限らず、役者が全員良かった。
はやい話が、これは「感動ポルノ」だと思う
「感動させよう!」「これで感動しろ!」「感動で涙を流せ!」…ハリウッド作品はつまらないものしか作らない。絶対的大衆の金を踏んだる作品を出してナンボの資本絶対主義社会。特殊メイクを施した俳優が頑張れば、アカデミー賞主演男優賞を取る。全く下らない!それが世界的映画製作も目論見であるから、仕様がない。鑑賞した側が「マヌケ」を証明するばかり。それだけの作品。
アカデミー主演男優賞納得の演技
ダーレン監督って元々A24作品ぽいのばかり
作ってるから相性最高なんだろうな!
この監督の作品はかなり人を選ぶ特異な内容ばかりで過去作品で苦手って感じるのなら絶対観るの辞めたほうがいいでしょうとしか言いようがありませんね。
主演の人が極限状況になる作品が多くて今回もレクイエムフォードリームやレスラーやブラックスワンみたいな流れを お約束のようにやりますが まあ暗くて重くて嫌な部分をリアルに見せる作品なのはいつも通りなんだけどラスト5分が強烈で
まあ予想した通りにはなるんですが演出と効果音の相乗効果で変な高揚感を味わえました。
あと映画が終わった時にこちらの感情が想像の範疇を超えるダメージのおかげで余韻が凄くてしばらく席から立てなかったです
あと主人公は身勝手でホモだちのせいで家族を捨ててホモだちが死んだからって過食になって太り過ぎて歩けないクズなので感情移入しずらいとは思います!
役者さんの演技も全員良くて 介護士の人が助演女優賞にノミネートされたのも納得
ダーレン作品は例外無く全部大好きだけど
今回のは過去作で1番好きです
涙腺崩壊レベルでいうと近年だとコーダと対峙のラストも凄かったけどホエールも同じくらい号泣でした
主人公にとってのある意味願っていた最高峰の終わりを迎えれて良かったとはおもいました!
宗教や神で人なんて救えねえよってのも良かった
人を救うのは人の心ってのは納得。
追加しますがラストシーンが強烈過ぎて二日間くらい頭に焼き付いてて 軽くPTSDみたいになってます
嫁は三日ラストシーンが頭から離れなくなってるって言ってましたよ!!!
どう捉えれば良いんだろ?
登場人物が少なくてシーンの展開が少ない点が非常に見やすくて良かった。昨今のMCU映画ばかり見ていたので、シークエンスが少なくて本当助かりました。あとストレンジャーシングスのマックスが出てビックリしました!「あれっ!?•••マックスじゃん!」って叫びました。
そんな中で、現実のストーリーと白鯨の物語が並列して進んで行きます。鯨はおそらく主人公の巨漢ニキだろう。それは自分も理解でしました。
無茶苦茶なことやって生きたチャーリーが、家族を裏切って不摂生をしてるのに、みんな捨てきれず寄ってくる。「人間は美しい」と言っていたが、人間臭い矛盾に満ちたこの巨漢ニキの生き様が、人を惹きつけてるのでしょうか?
自分でも抑えられない食欲、家族、世間体などを捨てボーイフレンドと恋に落ちるなど、自分の欲望にまっすぐなことと、それをエッセイに求めるところ、この映画はそれを伝えたかったのかもしれない、とこの文章を書いてて思いました。
でも何でこの映画を作ろうと思ったんだろ?巨漢ニキの演技、マックスの演技は最高でした。
だれだって、誰かを気にかけずにはいられないんだ。
予告からは考えられなかった、ストーリー。これを、どう捉えたらよいのだろうか?
とても身勝手に見える父親。
その人を取り巻く、宗教感や人間関係。
彼以外は、まっとうに見えてしまうのだが。
愛する人を亡くして、悲しみから過食に陥るのは理解できる。
自分の身を晒さずに、学生に教えるのも、うん、まあ。
娘のために節約をするのも、わからんでもない。
が、一方で、彼を支え続けた人への誠意は?
一度ならず、2度も娘を前にして置き去りにするのか?
予想と違いすぎて、観たあと混乱。
何を言いたかったんだろ?
これから、考えてみる。
巨大な鯨は感情を持たない、果たしてそうだろうか
娘の父への不器用な愛が胸に突き刺さる。
手負いの獣のような彼女を抱きしめながら観ていた。
父が人生の最後に、最愛の娘を、彼女の地獄から救い出した。
彼らが交わした一瞬の笑顔が、眩しくて仕方ない。
これは映画ではない。とある人生だ。
かなり泣きました。デロデロに泣きました。
私自身も食で心を埋めるタイプである故、あらすじを見たときから他人事とは思えず視聴しましたが、予想外にキリスト教への辛く悲しい怒りのメッセージもあり深く共感。かなり没頭できました。
もしかしたら大衆が映画に求めるようなストーリーではないかもしれません。
人によっては鬱映画とも感じるでしょう。
しかし、さりげない伏線やそこはかとなくラブロマンスを感じるシーンに友愛もあり、シリアスではありますがキラキラと輝くドラマが散りばめられた良作です。
最後、主人公は救われたのだろうか?
救いとはなんでしょう。
愛する恋人に会えること?
娘の口で詩を読んでもらえたこと?
まさか神の元へでも行くのだろうか?
私は、ラストシーンを踏まえて、「あの時は本当に幸せだったなぁ」と過去になっても光り続ける思い出こそが救いだと感じました。
ほんの短い間だとしても、心から幸福を感じられる思い出があるなら、その人生は良きものだ。さらに愛する人にまで出会えたなら、最高の人生だ。
いいじゃないか。そんなもんで。
自分自身にどんなメッセージが?
ツラいことから逃げて目を背けるために、
自分を大切にせず傷つけ、
周りの人達を振り回し傷つけ、
とても自分本意で、
自分のアイデンティティーを守りたくて、
それでも人を愛し、
それで人間らしい。
魂の救済、とは
レスラー、ブラックスワン、などで名をあげているDアロノフスキー作
もとは舞台劇というだけあり、物語はほぼ室内で進む。場面展開、転換も少ない。
にも関わらず、圧倒的なダイナミズムで心を打たれる。
つまりはシナリオの重要性があり、俳優の演技、がそれだけ試される作品でもある。
まずはキャスティングの妙にもつきる。主演のBフレイザー。
プライベートなどでの問題から、メンタルヘルスに支障をきたし長らく表舞台から遠ざかっていた。
彼を支える看護師役のホンチャウの演技もよい。
人間の心理描写で、物語にここまでの強弱をつけられる。ということは派手なアクション、激しいカット割り、スピーディーな展開、などだけが映像作品の肝というわけではないのだな、ということだ。
冒頭から物語に入り込み、どのようなラストで終わらせるのか、と思いつつ。
鑑賞後の深い余韻。しばらく席を立てなかった。
死を前にする人間の肉体が、幸福であったという時間、記憶を凌駕するその瞬間を最後にみた。
涙とともに。自身忘れることのできない映画。
そういえばレスラーでもそうだったか。
そう生きることしかできない男の、死を前にした肉体の躍動を映し出したラスト。自身の幸福、栄光につながる破滅への跳躍。
Dアロノフスキーの、人間に対する深いまなざしがつきささる傑作です。
果たして自分は、過ちなく生きているのか、幸福に生きているのか、正しいとされる生き方なんてあるんだろうか。
"やっぱり一筋縄では行かなかった…"な映画
ダーレン・アロノフスキーの作品が苦手だ。
改めてわかった。
やっぱり、苦手だ。
テーマが深過ぎる…というか、宗教に絡めたストーリーが出て来た瞬間に、「あっ、もうダメだ!」となる。
ネタバレは見たくないけども、何の話なのか、ほぼほぼ分からない笑
ブレンダン・フレイザーは熱演だけれども…
だから、どうした?
*人生の終わりに気付いて後悔すること…山ほどあるわ!そんなもん!
死に際にジタバタしても、到底救われるとは思わない。
やり直せるものならやり直したいわっ!
きれいに死ねると思うなよっ!笑
*もしそんなのがテーマと言うなら、くだらない作品だわ…。ん?違うってか?笑
エレファントマンよりは明るい
終始息の詰まる閉塞感で5時間くらいに感じる
生命の重さや軽さ
そこに居るのに居ないような切なさ
私達が日々無意識に行ってる、偏見や差別
宗教は救いではなく結局は家族という存在の救いがある
そういう意味で言うと主人公はとても幸せな存在だと思う
世界の多くに子を持てず生活苦に苛まれ何も残せず選ぶ余地がない生活を送っている人達からすると、選択する自由がある。
ストーリーは凄く独りよがりだなとしか思えなかった。
自己中デブ男の最後の1週間。
終末で人は救われない
すごく面白かった。
ある男の最期の五日間の物語。
登場人物は少ないが、1人1人が深く掘り下げられていて、人生について考えさせられる。
主人公を中心に、主人公と関係する人々が一人ずつ現れ、死に際の主人公と対話していく。
でもこの映画の隠れた主人公は、死んだ主人公のパートナーなのだと思う。この映画のほとんどの人物はパートナーとも深く関係している。
映画に登場しない人物を中心に物語が展開している様は、「ゴドーを待ちながら」を連想させる。たぶんあの話のゴドーはキリストの暗喩だと思うのだけど、本映画も「信仰」をテーマにしているのではないか。
そういえば、どこで聞いたか忘れたけど、「人生には誰にでも2つの奇跡が起こる。それは、生まれることと死ぬことだ」という話を思い出した。そこに存在しなかった生命が新しく出現することは確かに奇跡に違いないけど、同じくらい不思議なことは、そこに確かに存在していたものが消えてしまうこと。死とは神秘的なことでもあるのだと思う。
最後に主人公が娘に向かって歩くシーンは、ぼくは主人公が死に際に見た夢ではないかと思う。死の神秘と救いを表現していると思う。
この映画の人物はみんな、単なる善人でもなく、単なる悪人でもなく、どうしようもない人間的弱さをもちながら、互いを傷つけあい、同じ人を強く愛したり憎んだりする矛盾した感情を持っている。
主人公自身も娘を含めみんなにひどいことをしていてその罪悪感にさいなまれているが、悪人というわけではない。人間関係だけでなく、様々なものが実は善悪を簡単に決めることができないものだということが示される。
たとえばニューライフ(原理主義的なキリスト教)により主人公のパートナーは信仰に悩み自殺してしまったけど、一方でこの自殺は主人公への愛を貫いた証拠でもあった。
主人公の喘息呼吸は主人公の死が近いことを表すものだけど、一方で主人公が確かに今生きていることを示すものでもあった。
主人公の娘が宣教師の罪を暴露したことはおそらく娘の悪意からの行動だったけど、その結果かえって宣教師は救われることになった。
主人公の異常な過食行動と肥満体は、主人公が苦しみと罪を背負い続けたことを肉体的に表現したものだと思うのだけど、この映画全体が、「人間の罪」を大きく肯定しているんじゃないかと思う。
ニューライフの教義として、「終末」が訪れたあとでは汚れたものがすべて浄化される、というような話をしていたけど、この映画は、「そういうことじゃないんだよ」と言っている気がしてならない。
人間は弱さのために罪を犯し、そして苦しむけど、それらの中にこそ人間の素晴らしさがあるように思う。
<追記>
ラストシーンで、主人公の娘が、自分に渡されたレポートの文章が、自分が昔書いたものだということに気づく。
娘は「自分は父に愛されておらず、見捨てられた」とずっと考えていたが、実はずっと父に愛されていた、ということに気づく感動的なシーン。
このシーンに何か既視感があると感じていたが、その正体に気づいた
「砂の上の足跡」というクリスチャンの間で有名な詩だ。調べてみると、作者不詳らしい。
この詩の内容をざっと要約すると以下のようなものだ。
神に対して、「私が一番苦しかった時、あなたは私を見捨てたのはなぜなのか?」となじる男に対して、神は、「私はあなたを見捨てたことは一度もない。あなたが苦しかった時に足跡が一列しかなかったのは、私があなたを背負っていたからだ」と答える。
してみると、この映画でみじめで醜くて弱く罪深いおろかな人間の代表のような主人公は、「無垢に愛する」というただ一点において神の立ち位置にいるということになる。
主人公の娘は客観的には邪悪で、娘を盲目的に肯定する主人公は単なる愚か者に見えるが、一方で、理性的判断をはさまずただ信じるということによってしか、娘の心を動かすことはできなかっただろう。
もう一つラストシーンで気づいた事がある。主人公の最期のとき、ふわっと身体が浮き上がり、足が地面を離れたように見えるシーン。1つの解釈としては、主人公が死により肉体の重さから解放された、というようによめる。でも、キリスト教の教義に「空中携挙」というものがあったなあ、とあとで気づいた。調べてみると、終末論を掲げるプロテスタントの教義らしいので、たぶん当たりだろう。神に不死の身体を与えられ、空中に引き上げられた、というような宗教的なシーンではないか。
看護師のリズが主人公と最後に交わした言葉も意味深だ。「下で待ってる」とリズは言った。これが最期だと分かっているはずなのに。
主人公のパートナーは宗教によって殺されたということを考えると、この映画が宗教的なモチーフで構成されているのが奇妙に感じる。でも、この映画のテーマが「本当の信仰とは何か?」ということなのだとしたら納得できる。
ニューライフの宣教師は、「人を救いたい」という強い気持ちをもっていたけど、実はそれは「人を救うことで自分が救われたい」という動機だったことがあばかれる。
彼は決して悪人ではないけれど、彼にとっての信仰とは、自分の弱さから逃れるための依存の対象のようなものなのだと思う。主人公にとっての「過食」と変わらない。
人を愛し、信じて、前向きでいること
「おぞましい姿」をした主人公のチャーリーが、自らの死期を悟り、8年ぶりに娘と再会し向き合っていく1週間を描く室内劇。
最愛の人の死をきっかけに引きこもり、歩行も困難な程肥満化してしまったチャーリーに対し、序盤に感じるのは同情や哀れみでした。しかし、次第に明らかになっていく彼の心情や行動の根底にあるものを知るうちに、彼がとても前向きで、人を信じることを恐れず、愛に溢れた人なのだということを知り、ラストシーンは幸せに満ちた表情に感じました。
エリーの言動は客観的に見ると「邪悪」に見えます。それが真実なのかもしれません。
それでもチャーリーにとっては紛れもなく、優しく思いやりに溢れた聡明で美しい子なのだと、そう言うチャーリーの気持ちに嘘はないということが、エリーにも伝わったのだと思います。彼の愛が、彼女の未来に光を与えたと信じたいです。
たくさんの感情で涙が溢れましたが、まだ整理が仕切れていません。これからしっかり、噛み締めていきます。
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