劇場公開日 2023年4月7日

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「身を持て余した鯨の決意。」ザ・ホエール 高橋直樹さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0身を持て余した鯨の決意。

2023年4月27日
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鑑賞方法:映画館

 なんて凄まじい映画なのだろう。こんな映画が作れるダーレン・アロノフスキーは、健常者を描いたことがない監督かも知れない。欠落を補うために過剰な無理を強いられる、または強いる自我を持つ存在を主人公に据えて、限界の境界線を描き続けている。

 『サ・ホエール』の主人公は、同性の恋人を失った反動で過食症となり太り続けた身体を持て余した男。身を起こすだけでも一苦労、歩行補助器がなければ室内の移動も困難で、テレビのリモコンを手にするためには捕獲棒が必要だ。

 タイトルが示す通り巨大な白色鯨への復讐に取り憑かれた片足の船長を描いた小説「白鯨」が重要なモチーフになっている。主人公の日常を見つめていると、自分の住処から出られなくなった哀しき“生きもの”を描いた井伏鱒二の小説「山椒魚」が思い浮かんだ。食べ過ぎたために外に出たいが身動きがとれない。究極のジレンマの中で禅問答のような自問自答が続く。

 男は身を持て余す極度の肥満体型だが、彼の思考には一切のブレがない。大学の通信講座でロジカルに語りかけるその声は透明感を保ち、文学表現のインストラクターとして仕事をしている。つまり頭脳明晰なのだ。
 「山椒魚」と異なるのは、彼には定期的に訪れて面倒を見てくれる義妹がおり、外界とコンタクトする術がある。稼ぎもあるから特大のピザを2枚注文することもできる。

 戯曲が描いた閉塞感を伝えるためにスタンダードを採用したダーレン・アロノフスキー監督は、じっと座り続け、決して清潔とはいえない汗かき男の体臭が染み込んだ壁、ジャンクフードが食い散らかされた部屋の臭気が滲み出すかのような暗い映像で、彼の生態を映し出していく。

 冒頭、ある行為に身悶えした男が突然の発作に襲われる。なんとか心を穏やかにするために彼は「白鯨」を評したエッセイを読み始める。だがそれも叶わなくなる。その時、新興宗教の勧誘員がアパートの扉をノックする。「これを読んでくれ今すぐに」と床に落ちた紙に視線を送る。初対面の青年が「鯨を描く場面は退屈だ…」と読み上げる。

 その後、青年の朗読によって落ち着きを取り戻した彼のアパートに義妹がやって来る。不審な青年を追い払った彼女は、ルーティンとなっている血圧チェックと呼吸器系の診察を始める。
 尋常ではない血圧と肥満した身体に宿った病のために彼の人生はあと僅かだが、断固として入院を拒み続ける。自分が生きた証を示すために何が出来るのか。考えた末に別れて暮らすようになって娘と会うことを決める。

 身を持て余した鯨の決意。それは生きることの限界への挑戦である。部屋に引きこもった鯨が起こした行動は、やがて小さな波紋となって広がり、感情が結びついていく物語へと昇華されていく。閉塞感と暗い映像の先には、魂の咆哮が呼ぶ奇跡の瞬間が待つ。映画だからこそ描ける奇跡の描写が胸に突き刺さる。

高橋直樹