「神に愛される紫は、どんな場所でも咲き誇って良いという意味らしいけれども」カラーパープル Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
神に愛される紫は、どんな場所でも咲き誇って良いという意味らしいけれども
2024.2.9 字幕 イオンシネマ京都桂川
2023年のアメリカ映画(141分、G)
原作はアリス・ウォーカーの小説『The Color Purple(1982年)』
抑圧に苦しむ女性の生き様を描くヒューマンドラマ
監督はブリッツ・バザウレ
脚本はマーカス・ガードリー
原題は『The Color Purple』で、劇中で登場するセリフの一部
物語の舞台は、1909年のアメリカ・ジョージア州
父アルフォンソ(デーオン・コール)と妹ネティ(ハリー・ベイリー、成人期:シアラ)と一緒に住むセリー(フィリシア・パール・エムパーシ、成人期:ファンテイジア・バリーノ)は、父との子どもを身籠りながらも、日々の仕事は休ませてもらえない過酷な状況を生きてきた
ようやく出産できた子どもも父に奪われ、どこかへと売られてしまう
ある日、ネティの求婚に訪れたミスターことアルバート・ジョンソン(コールマン・ドミンゴ)は、そこでアルフォンソからネリーなら物々交換でやると言われてしまう
これによって、ネティはミスターの妻となるのだが、そこで待っていた生活はメイド以下の過酷なものだった
物語は、父と二人きりになったことで襲われたネティが、セリーの元にくるところから動き出す
元々ネティ狙いだったミスターは、恩を売りながら、彼女を手籠にしようと考えていた
だが、ネティは反発し、それによって彼女は追い出されてしまう
セリーとネティは手紙を出し合う約束を交わすものの、それらはすべてミスターの手によって阻まれてしまうのである
映画は、かなり古い小説を題材にして、その映画化とは違ったアプローチで再映画化をしている作品である
ブロードウェイの舞台の方がスピルバーグ版よりも近く、本質的にはミュージカル映画というカテゴリーになっている
いわゆる「抑圧され続ける黒人女性」を描いていて、この不遇から抜け出そうと必死にもがいている様子が描かれていく
ネティの居場所は不明ながら、彼女はどこかの家庭のメイドとなり、二人の子どもの世話を任されていた
それがセリーの「2人の子ども」なのだが、冒頭で「生まれたのがアダム」で、その次のシーンで彼女らが見つけるのはオリヴィアという繋がらないシーンがいきなり登場して困惑してしまう
いっそのこと「アダムだけ」に改変しておいても問題ない流れだったので、何か重要なものを見落としたのでは?と不安になってしまう
その後、ミスターの元妻でブルースの道に行ったシュグ(タラジ・P・ヘンソン)が登場したり、ミスターの連れ子ハーポ(ジャマール・エイブリー・ジュニア、成人期:コーリー・ホーキンズ)の妻としてソフィア(ダニエル・ブルックス)が登場したりする
いずれもが内向的なセリーを変化させる役割を担っていて、セリーがミスターに啖呵を切るというところまでの案内役と言っても差し支えない配置になっていた
これらのキャラの顛末も同時に描いていくのだが、かなり荒っぽい感じになっていて、中盤ではセリーの存在感はほぼゼロのような状態になってしまう
いわゆる脇役が目立ちまくる時間が長すぎるので、群像劇としての舞台なら必要だが、セリーを主人公とする映画として観れば、とっ散らかったような印象になってしまうのではないかと感じた
いずれにせよ、約35年間を描くには2時間は短すぎるので、もっと選択と集中をしていれば良かったと思う
楽曲も歌唱力は感じるものの、頭に残るメロディというものがないのも残念だった
また、「The Color Purple」の意味が「それだけ?」感が凄まじく、本当はもっと色んな意味や暗喩があるのだと思う
映画からは何も伝わってこないのだが、原作者の思惑としては、「執筆のために田舎町を訪れたら紫色が多いことに気づいた」というもので、これを深読みすると「この時代は田舎の方がまだ近代的ではなく黒人女性が奴隷のように扱われていた」というものになるので、本来ならば良い意味ではないのだろう
だが、「紫色がなければ神様も寂しがるだろう」という劇中のセリフがあるように、そんな不遇の中でも「紫は紫として咲き誇っていい」というニュアンスになっていると思う
それを映画が体現できたかは謎だが、補完が必要になるタイトルというのはあまり褒められたものではない、というのが率直な感想である