「男性批判?インセル批判?」ドント・ウォーリー・ダーリン ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
男性批判?インセル批判?
「ゲット・アウト」の雰囲気と「マトリックス」のSF要素を持った、「プロミシング・ヤング・ウーマン」系統の強烈なフェミニズム映画。
こう書くと過去作の切り貼りで作ったようで聞こえが悪いが、エンタメとしては本作なりの個性も感じられて十分面白い。得体の知れない不安を感じさせるサウンドと、フローレンス・ピューの緊迫感のある演技によるところが大きいだろう。
(要は1950年代パートは全部マボロシってことですよね?「本部」が現実世界との接点で、ラストでアリスは催眠から目覚めたと解釈したんだけど、同行者は違う解釈だった)
本作の主張は、かなりざっくり言うと次のようなものであるように見えた。
男の持つ歪んだ理想が、女性の社会的自由を奪っている。古き良き時代(1950年代)の男目線の理想郷など、現実味のない、忌むべき妄想にしか過ぎない。
ところで、上記の「男」は、具体的にはどういうカテゴリーをイメージしているのだろう。
作中でバニーを演じたオリヴィア・ワイルド監督は、ヴィクトリープロジェクトの首謀者フランクについて、「インセルコミュニティのエセ知識人ヒーロー」ジョーダン・ピーターソンをモデルにしたと明言している。存命のモデルを明言したキャラを刺し殺したりしてしまうところは、さすがアメリカ映画。
インセルというのは「involuntary celibate(不本意の禁欲主義者)」からくる造語で、ネット上で顕在化する、自分が恋愛やセックスを出来ないのは女性のせいだと考える女性蔑視主義者のことだ。インセルを標榜した犯人による事件もアメリカでは複数起こっている。
後半の回想で、現実世界の冴えないジャックがネットでフランクのサイトを見ていたシーンは、本作の批判対象がインセルという特定の層(あるいは特定の考え方)であることを表現していたとも取れる。
監督が、男性の中でもそういった特定の層に対する批判を描いたつもりなのか、または男性は多かれ少なかれ全員インセルの素質を持っているという前提で(いわば主語を大きくして)性別括りの批判を繰り広げたのか、今ひとつ曖昧ですっきりしなかった。それとも、ジョーダンをモデルにしたことにそこまで根本に触れるような意味はなくて、男性はみんな内心では昔みたいに女性を従えたがってるよね、という、もっと大味な男性批判なのだろうか。
「プロミシング・ヤング・ウーマン」では主人公の助けになる男性もいたので性別レッテルを貼るつもりはないということが伝わってきたのだが、本作はそういう存在がいないことがこの曖昧さの原因かもしれない。
もうひとつ、本作では現実世界のアリスが、仕事に疲れてあまり幸せそうに見えないのも気になった。仕事で人生充実してる感をもっとしっかり出した方が、ジャックの理不尽さが際立ったのでは?
そもそも、女性は働く方が幸せなんだというのも決めつけで、バニーのようにああいう世界を望む選択も否定されてはいけない。どちらの選択肢も尊重されることこそが自由というものだ。
主役の名演技にスリラー要素からカーチェイスまであって、サブリミナル的映像も思わせぶりでエンタメ性は十分なのだが、多様性が称揚される時代に、「男=全員インセル気質、女は働く方が幸せ」という単純化されたメッセージを与えかねない作りは正直一時代前のものに見えた。
失礼します
単純に、"自分の人生は自分で決める"という意思表示なんだろう推察します
まぁ、医者をやっているのだから主人公キャラ設定は、現実社会での過酷な労働も自分の意思で辞めることもでき、又再就職も得やすい専門分野 リセットに躊躇がないと思います だからこそ"ヒモ"の裏切りに憤りと落胆を表現したかった演出なんでしょうね
結局は人は1人で生きていく術は『信用し過ぎない』ということでしょうね