「ミステリアスなジェーンの人柄が色濃く映り込む」帰らない日曜日 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
ミステリアスなジェーンの人柄が色濃く映り込む
<映画のことば>
「君はいつ作家になった?」
「覚えてない。」
「嘘だな。」
「きっかけは三度あったわ。生まれた時と、タイプライターをもらった時。」
「三つめは?」
「覚えてないわ。」
本作は「名家の子息と孤独なメイドのラブストーリー」という前評判でした。
その前評判にすっかり洗脳されてしまっていたのかも知れませんが、実は、本作を観始めた時点では、婚約者がありながら、こっそり(堂々と?)他家のメイドとも関係を持つ、お屋敷のボンボンの放蕩物語かと、推測していました。当初は。正直なところ。
ところが、観ていくうちに、どうやら、そういう雲行きでもなさそうと気づきました。
ジェーンは、なぜ(どういったきっかけで、どういう理由から)婚約者がいるポールとこういう関係を結ぶ間柄になったのでしょうか。
ジェーンの様子からして、ポールにぞっこんという様子もなく、婚約者のある男性との逢瀬を、むしろ楽しんでいる節も、ジェーンには見受けられたように思われます。評論子には。
本作中では、ニヴン家のメイドとなるまでの彼女の生きざまは描写されていないのですけれども。
しかし、孤児院の出身ということであれば、天涯孤独、自分自身が生きることだけを考えればよいという、ある意味「自由な身の上」だったようです。
そのせいの生来(性的な側面も含めた)奔放な性格だったのではないかだと受けとりました。
あとに同棲?することになるドナルドとの関係性も含めて。
(孤児ということだが、若き日のニヴン家のメイドと時代の彼女から、その生い立ちを窺い知ることはできなかったようにも、評論子は思いました。)
もともと、当家のメイドに過ぎないジェーンが、他家の家族の一員であるポールと本当の恋仲になどなりようはずもない―。
身分階層がはっきりとしていた(当時の)イギリス社会のありようからして、そのことは、ジェーンにしてみれば「百もしょうち、二百も合点」だったはずですから。
彼女のそういうミステリアスな生き様が、その数奇な運命とともに、本作の全体を通じての「味付け」になっていたように思います。
そしてモチーフとなっている女性がどちらも作家ということからも、本作は、別作品『あちらにいる鬼』のイギリス版だとも言えるようにも思われます。
第一次大戦下て、生活のちょっとしたところにも戦争の影ー閉塞感が窺われるという世相の中で、ジェーンは芸術家(彼女は後に小説家となる)としての自由な生き様を貫いていたと評したら、それは評論子の勝手な憶測ー独断というものでしょうか。
(そのことは、婚約者のあるポールとの、本当に屈託のない性行為にも表れていたと、評論子には思えてならないのです。)
原題の「マザリング・サンデー」の「マザリング(愛撫)」も、ジェーンとポールとの性愛関係を、実は暗示しているように思えてなりません。評論子には。
彼女がポールの両親からも(彼の婚約者であるエマを差し置いてまで、彼の父親が所有する)競走馬の残り一本の脚の所有者と目されていたことも、そのように理解しました。
評論子は。
佳作てはあったと思います。
<映画のことば>
「書くしかなかったの。
しんどい作業だったけど。
素晴らしい日々だった。」
<映画のことば>
記憶を呼び起こし、
それを描写して自分のものにする。
そして、言葉で再現する。
君ならできる。
やってくれ。
僕らのために。
そして、君のために。
(追記)
別作品『女王陛下のお気に入り』でアン女王を演じたオリビア・コールマンの出演作品ということで、観ることにした一本になります。
彼女が主演というわけではないことは分かっていたのですけれども。それが、本作の鑑賞の、いわば「入口」だったという訳です。
いわばほんのちょい役なのですけれども、本作の中では、けっこう重要な役回りだったのではないかと、観賞後には思われました。
本作の原題は、前記のとおり「マザリング(愛撫)・サンデー」ということですけれども。
ポールの回想からも、彼女は(シェーリング家・ニヴン家の子供たちを含めて、文字どおり子供時代から)子供たちを、慈(いつく)しみ、深い愛情をもって育てていたことが、窺われるようです。
ダブル・ミーニングとして、原題の意味は、そこにもあったように思われます。
評論子には。
(追記)
女性の側が使う避妊具(ペッサリー)のことを、別名では「オランダ帽」というようです。ネットで見てみると、考案者はドイツ人医師のようですけれども。(当時は?)避妊法の研究が進んでいたオランダに渡って改良されたようなので「オランダ帽」と呼ばれるようになったもののようです。
評論子は、初めて知りました。
本作を観て。