「生きることと死ぬことについての内省の中で」PLAN 75 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
生きることと死ぬことについての内省の中で
正直、「PLAN75」を観たのはかなり前で、実を言うと未だに何を書こうか迷っている。
誰もが迎える可能性のある「一人で死ぬこと」について思うこともあれば、「一人で生きていくこと」について考えずにはいられない部分もある。
誰だっていずれは死ぬ。歳をとればとるほどその事実は確実に自分ごとになり、逃れられない未来の出来事に対し、自分なりに受け入れ、折り合いをつけながら、先に旅立っていった人たちの人生を噛みしめる。
大人になってから随分経ったからか、いつか自分が死ぬことについて、恐怖よりも忌避感よりも、諦念とも違う、もっと身近で当たり前のような、「風邪をひいたら熱が出る」、に近い感覚で「死」を感じるようになった。
それでもやはり、自らどこまで続くか分からない「生」を手放す気にはなれないと思う。良い死に方がしたい、それは「キレイな幕引き」のことではなく、「満足するまで生きたい」と同義だ。自分の肉体が限界を迎えていないのに、精神のエゴで自らに幕引きなどしたくない。
そういう意味で、もし現実にこの映画同様の法案が成立していたら、私はこう思うだろう。
「生き辛い時代になったな」と。
この映画では、初めて身近な存在の死を思う若者たちの姿も描く。若い頃私が感じたような、見知らぬ老いた人間の記号的な「死」ではない、自分が言葉を交わしたり、人柄に触れたり、その人の人生を垣間見たりした人の「現実に訪れようとする死」が眼前に迫ってくる、悲しさと淋しさと恐ろしさ。
高齢になって、たった一人で、つましい毎日を過ごすことは誰にでも訪れる可能性があるのに、自分も当事者なのだと感じられない。うまく想像できないから、今その状況の人々を数字や記号でしか捉えられない。それが形になって襲いかかってきたとき、どうしようもなく、ただ生きていてほしいと願わずにはいられない。
いつか見知らぬ誰かが消えるのではなく、今目の前に存在している人にもう二度と会えない、それが死なのだという衝撃が、「PLAN75」の若者たちにはある。
それはもしかしたら、現代の社会構造が近しい人を亡くす経験自体を少なくしていることの現れなのかもしれない。
見送る側と見送られる側、その両端から描かれる「生きること・死ぬこと」についての思いの中で、自分の死生観を見つめ直す。それが出来る映画はなかなか無い。