「夕陽は、ただ沈む」PLAN 75 critique_0102さんの映画レビュー(感想・評価)
夕陽は、ただ沈む
ようやく見た。
ずっと気になっていて映画。
『週刊金曜日』でも特集が組まれ、表紙は倍賞千恵子が飾っていた。
杉田何某とか成田何某というような、自分のアイデンティティを「無知」と「無恥」に込め邁進している輩が重宝されているこの社会の現実では、この輩の口を少しばかりでも塞ぎたくなうような心境だ。
おそらくは誰もが、重く考えさせられた映画だったろう。
もしこの映画を観て何も響くものがないというのであれば、まさに「何某」と同類の「素晴らしい」論者ということになるだろうし、自分からすれば、また「蠅叩き」の相手が増えただけの話だ。
映画のテーマとして
死は吐き気である。これは正しい。
この死を、自己完結的に綺麗に処しようとするところから、人の思考は誤り始める。
自己決定とか、他害禁止という言葉で、死を害い始める。
死は、いつでもどこでも誰にでも吐き気でしかない。
この映画の後半部分にそのシーンが出てきたのは合点がいく。
自分でも、そして他者でも割り切れずに受け入れなければならない「死」とは誰にとっても「吐き気」でしかない。
死を自在や他材では処すことなどできないにもかかわらず、それを知らない連中は傲慢にもそれを恣にすようとする。生まれてきた時もそうであったように、死すること、時も自分の思いのままにはできないのだ。
映画の構成として
見事である。
角谷、岡部、マリアのストーリーが、最後に向け結節点を描き出していく。そして、その結節点が、誰かに「剥ぎ取られてはならない死=生き方」であった。
この死の固有性や一般化不可能性を描き切ったという点では評価できる。
背後に流れる、言葉として語られている「一般化されたナレーション」とのコンストラストが秀逸だった。
そして映画の色使い
光の使い方、照らし方、影の用い方、とても素晴らしい。役者の一人一人の言葉少なさを陰影で十二分に表現していた。
#こんな映画を制作させてしまうこの国のあり方こそが、No Planだということの証左だろう。
#倍賞千恵子の「声」=「歌」。
人は、この(自分の)声=歌で、生きる。
自分の人生は自分のメロディーでしか理解できない。