「愛は、人を色んな意味で殺す」苦い涙 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
愛は、人を色んな意味で殺す
フランソワ・オゾン監督が、氏の尊敬するドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の1972年に制作された「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」のリメイクを試み、時代をそのままにドイツのケルンを舞台にしてオマージュし、愛に翻弄される映画監督の私生活を赤裸々に描いた人間ドラマのフランス映画。台詞もフランス語で、キャストも原作のファスビンダー作品に出演したハンナ・シグラ以外は、すべてフランス出身の俳優で占められています。特にフランス映画界の名女優、イザベル・アジャーニが主人公の友人シドニー役で出演しているのが作品にとって大きな魅力になっていました。
この映画に食指が動いたのは、映画に夢中だった学生時代、それは1979年の4月に東京のヤクルトホールにて開かれた(西ドイツ新作映画祭)で偶然見学したーそれも無料試写でー3本の作品のなかにファスビンダーの「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」があったからです。他はアルフ・ブルステリンとベルンハルト・ジンケルの『三姉妹』(1977年)と、マルガレーテ・フォン・トロッタの『第二の目覚め』(1978年)でした。東京に上京した年にフィルムセンターで観た古いドイツ映画の素晴らしさに衝撃を受け、それまでフランス映画やイタリア映画に憧れていた価値観に変化をもたらし、新たにドイツ映画に注目していた時期になります。戦後ドイツの映画産業が衰退の一途をたどったのは、偏にナチス・ドイツの崩壊と戦後復興に映画産業が加わることが無かった事情からと思われます。それ程に敗戦のショックと深く傷ついた贖罪意識からドイツが精神的に立ち上がれ無かったのは、日本の比ではありません。欧米で作られる戦争映画の悪役は常にドイツ軍でした。そんな長い停滞期を過ぎて1970年代から漸く新しい才能ある監督たちが活躍し始め、ニュー・ジャーマン・シネマと称される波が生まれて、海外へのプレゼンテーションが始まった時期に当たると思われます。ヴィム・ヴェンダーズ、ヴェルナー・ヘルツォーク、フォルカー・シュレンドルフなどと並んでファスビンダーも主要な担い手として作品が日本公開されるようになりました。
そのファスビンダーの「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」の印象は、その独特な表現がゴダールやベルイマン、そしてブニュエルの演出タッチを窺わせて、全体としてはテネシー・ウィルアムズの愛憎劇のような深刻なドラマを演劇的に構築していました。但し後半の形式主義の実験的手法の面白さに対して、前半が緩慢で集中力に欠け眠気を抑えるのに苦労したと、映画ノートに記してあります。それでも女性だけの登場人物の愛憎劇は珍しく、それはレオンティーネ・ザガンの「制服の処女」のドイツ映画の古典を想起させて、興味深かったことだけは確かです。
この微かな記憶から今度のオゾン作品を観てみて、人物の設定からその個性的性格の表現力、台詞の平明で教訓的な人生論の分かり易さ、最後主人公が苦い涙を流すまでの無駄の無い展開と、約2時間の原作の上映時間を85分にまとめ上げた脚本の簡潔さが、演劇映画として完結していると好印象を持ちました。また晩秋から翌年の冬までの時間経過を数少ない野外ショットで季節感を出す演出と幕間の効果、その落ち着いた色彩の映像美、舞台となるピーターのアパルトマンの独特な室内装飾に赤と青を基調にした衣装のコントラスト、窓と鏡を生かしたカメラワークの巧さなど、オゾン監督の細部に神経が行き届いた丁寧な演出に感心しました。
オゾン監督がファスビンダー監督の個人的な恋愛遍歴を調べてシナリオに落とし込み、映画制作に多忙を極めた映画監督の人間味そのものを映像化した作品と言えます。見た目を真似て演じたドゥニ・メノーシェの、人生哲学を語りながら失恋の痛手に理性を失い、最後混乱と失望から自暴自棄になるピーターの大人と子供の両面を可愛らしく表現した巧さが光ります。一目惚れしたアミールをスクリーンテストするシーンがいい。出自を話し始めて素の表情になった時、助手のカールが撮影するカメラを奪い取るピーター。映画監督らしい人間観察と映像に込める想いが伝わります。このアミールを演じた23歳のハリル・ガルシアの女性なら小悪魔的魅力を振りまく演技も自然に、9か月後のピーターの映画に主演してカンヌで注目され自惚れてピーターと対等に接する太々しさまで、演出に応えた演技を見せます。ここで興味深いのは、アミールが全裸で踊るときに両手を掲げるカットです。そのポーズは後半の彼が居なくなってから部屋に飾ってある巨大パネルの、17世紀のバロック画家グイド・レーニの『聖セバスティヌスの殉教』を模した写真と同じです。(この絵画は作家の三島由紀夫氏が憧憬したことで日本では有名)そして、最後公衆電話に姿を見せるカットから、シドニーが待つ車に乗り込むシーンのハリル・ガルシアの演技で、このアミールと言う男の心理の変化を確認することが出来ます。強かに有名監督の愛人になり、彼を利用し自信が付くと妻の元に帰る口実で別れ、そして再会を断られてから本当に愛されていたことに気付いて僅かに心苦しさを感じるアミール。それでも、この若者はピーターの元に帰ることはない。しかし、この演劇ドラマで最も不思議な存在感を演じるのは、カール役のステファン・クレポンです。映画監督の助手と言っても、秘書としてタイプライターを打ち、家政婦として食事の世話もし、カメラマンも務め、まるで貴族に仕える執事のように献身的で一切の無駄口も叩かない。フランツという男との同棲生活も見て来て、次は若い男とまた同じように夢中になって棄てられるであろうピーターの総てを3年間も目視している。言葉を発しないから彼の真意は分からない。それでもステファン・クレポンの多彩な表情演技で色んな想像ができる面白さがあります。娘ガブリエルと女優シドニーがピーターの部屋を訪れて、そこに母親ローズマリーが現れる誕生日の場面で、この3人の女性を前に失恋で壊れた男の嘆きが攻撃的になる展開は演劇の定石ですが、イザベル・アジャーニの貫禄の存在感と、母親役ハンナ・シグラ79歳の年輪を経た落ち着きある包容力が魅せます。このシドニーこそピーターの公私に渡る理解者であり、どんな罵詈雑言で詰(なじ)られてもピーターの精神面を思う大人の女性として最後まで見捨てません。最後の車のアミールの座席の横で佇み見せるアジャーニの表情の美しさ。次はどうピーターを労わるかを思っているかのようです。ドラマの最初の方でピーターは作家らしく“理解できないことは、憐れむな”と言いつつ、最後は独占欲と愛を切り離せず惨めな姿を晒す矛盾。男が愛に本気になると子供のようになるのは、男の弱さでもあるかのように。そんな愚かな男を慈しむようなオゾン監督の大人の視点が、悲喜劇の面白さに至っています。
ファスビンダー監督の演劇の素養の高さと性的嗜好にシンパシーを持つオゾン監督がしたためたラブレターのような映画とも言えるでしょう。この個人的創作動機が、優れた脚本に統一された映像美、そして個性と演技力を備えた俳優たちの充実によって、小品でも見事な映画に仕上がっていると思いました。
曖昧な記憶で書いた為に、お手間をお掛けしてしまい申し訳ありません。
どんなイメージが湧くか楽しみに、見直してみたいと思います。
宜しければ、またレビュー拝読させてください。
コメントありがとうございます。良い映画はその後の想像でも楽しめる、この映画にピッタリの言葉ですね。
二人の関係に対する裏切り行為だと言わんばかりにビンタをくらわせて出ていったカールがどのように戻って来るか。それだけで、一晩妄想できそうです。