「大ネタあり! 「家族」にまつわる不穏でアイロニカルなサスペンス。その本質はお屋敷ホラー?」この子は邪悪 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
大ネタあり! 「家族」にまつわる不穏でアイロニカルなサスペンス。その本質はお屋敷ホラー?
いいロケ地だよなあ。
外観は木更津の山田眼科、内部の撮影は川口の旧家でおこなったらしいけど。
この、ある意味荒唐無稽な大ネタをなんとか成立させているのは、得体の知れない和洋折衷建築の放つ独特の「磁場」だと思う。こういう建物だからこそ、なんか、そんなことがあってもおかしくないような気がしてくるというか。
突き詰めて考えてみると、本作の本質は「御屋敷ホラー」なんじゃないか、と。
(パンフ見たら、もともとは洋館を舞台にした話にするつもりだったらしいし)
思い起こせば、かつてはホラーの帝王ヴィンセント・プライスだって、いろいろぶっ飛んだマッドな役柄を演じてたけど、たいていの場合は「元はマトモな人間だったのに、住んでいる禍々しいお屋敷の毒気に当てられちゃった」みたいな話が多かったものね。
(以下、一応、核心のネタバレは書かないように感想をつけますが、
読むと、どうしても「ああそれか」と気づいてしまう人もいらっしゃると思うので、
ネタバレ扱いにしてあります。)
監督は明らかに様々な既存のサスペンス/ホラー映画から採られたクリシェを援用している。
たとえば、映画をとりまくビジュアルイメージ。
少女・月(ルナ)の被る白いお面は、『犬神家の一族』の佐清っぽくもあるが、病院つながりもあって、どちらかというとジョルジュ・フランジュの名作『顔のない眼』(59)を想起させる。
ダイヤモンドゲームに興じる際に彼女が掛け替えるウサギのお面は、もちろん『ウィッカーマン』(73)だ。
白塗りに赤目でうずくまる「奇病」の患者たちのスタイルは、『呪怨』(00)のメインビジュアルを連想させるが、もちろんこの「白地に赤目」というのは、「ウサギ」を念頭に置いたメイクであることも見逃せないところ(奇病の患者たちは単に「心がからっぽ」なわけではない可能性もある)。
ストーリーラインに関しては、あまり突っ込んだことには触れないようにするが、
家族が連れて帰ってきた「妻」がどう見ても別人っぽい、という冒頭はミステリー演劇の傑作『罠』(ロベール・トマ、60)とよく似た出だしだ。
その後の、「得体の知れない家族に不審感をいだく」という展開は、『ステップフォードの妻たち』(アイラ・レヴィン原作、72→映画化75)を彷彿させるし、実際、僕は当初、アレと同じネタの映画かと思って観ていた。
本作に仕込んである大ネタについては、いくつかの前例を小説・映画の双方で思いつくが、いちばん最近の作品で印象に残っていたのは、昨年くらいに発売&放映された、某翻訳小説&それを原作としたNetflixのドラマだった(『この子は邪悪』の100倍くらいラストでびっくりした)。そういや、あれも「●●トコロテン方式」を採用してたな(笑)。
あと、謎の中核に、実は全員●●というのが隠れているあたり、麻耶雄嵩の某作を思い出して、ちょっとうれしくなってしまった。
ほかにも、『悪い種子』とか、『ローズマリーの赤ちゃん』とか、『アス』とか・・・・・・。
いろいろと設定上いい加減なところがあるし、純くんと家族まわりの設定や扱いもえらく雑だし、終盤の山場に入ってからの演出・演技両面での茶番感がさすがに強すぎる(もう少しなんとかならなかったものか)など、しょうじきいってB級感はぬぐい難い。
ただ、こういう「仕掛け」のある脚本を引っ提げて、堂々とロードショー作品で勝負するそのスタンスは、個人的には大いに応援したいところだ(なので、星評価もかなり甘めにしてみました)。
何より、冒頭でなんとなく脳裏をよぎる「ああ、こういうタイプでこういうオチの話か」という通り一遍の推測を、一歩も二歩も上回る感じで真相をエスカレートさせてゆくぶっ飛びぶりは、ミステリーマインドに富んでいて、すばらしいと思う。
あまり高望みしないで、50年代あたりの「綺想ホラー」や、昔の『トワイライト・ゾーン』や『奇妙な出来事』みたいな「オチのあるSF怪奇ドラマ」のノリだと思って観れば、じゅうぶんに楽しめる映画ではないか。
そもそも片岡翔監督がTSUTAYA CREATORS' PROGRAM FILM 2017 で準グランプリを獲得した企画(タイトルは完全なネタばらしになるので書かない)は、昔の某ホラー映画や、荒木飛呂彦や伊藤潤二の漫画でも見た記憶のある某ネタと、いわゆる「擬似●●」ネタを組み合わせたものだった。
それを、ここまで何度も推敲を重ねて、プロットの骨格は変えないまま、「最後までそのネタを伏せる」形のミステリーに仕立て直したのは、さすがの手腕だといえる。
雰囲気づくりも、それなりにうまくいっている。
タロット・カードや、マスク、鈴、ラビットフットといった「呪物」の使い方も堂に入っている。
パンフに書いてあった「室内に鏡がない」作り以外でも、たとえば甲府が舞台といいつつ、病院にお見舞い(調査?)に行くシーンでは海が見えることで、入院先がかなりの遠隔地でそうそう訪問できないことがさらっと示されるなど、意外に細かい部分も考えて撮られている。
最初に述べた、和洋折衷のつくりものめいた「御屋敷」(司朗にとっての理想と、それを実現させるためのきわめて人工的で強引な手段の象徴)と、対比的に描かれる精神病院の収容病棟のような「団地」(家族の荒廃と分断の象徴)という、心理的背景/表象としての「建物」描写へのこだわりもすばらしい。
単なるほら話、綺想どんでんミステリーで終わらせずに、きちんと社会派性をもたせているところなどは、『ミセス・ノイズィ』(2019)や『さがす』(2022)同様、最近の脚本主導のミステリー系エンターテインメントに共通するスタンスだ。
あと、企画が当初の内容から大きく変わったあとつけられていたという『グッド・●●●●●』ってタイトルも、ほぼ完全にネタバレみたいなものだと思うので(笑)、いまのミスディレクションのきいたタイトルに落ち着いたのは、作品にとってはとてもよかったと思う。
ひとつだけ文句をつけておくと、個人的には、ミステリーとしての本当の山場は、ラストの対決シーンというよりは、「月の仮面がはがされる瞬間」に設定すべきだったと考えているので、あそこのシーンを比較的するっと通過しちゃったのは、大変もったいなかった。
あの瞬間、「●●がない」という事実によって、いろいろな「仮想」の「仮面」がはぎ取られて、当人たちが5年間信じていた「現実」が、真の意味で瓦解するわけだから。
本格ミステリー映画においては、とある真実の暴露によって、それまで築き上げられてきた全ての世界観が崩壊するその瞬間をどう演出するかこそが一番の醍醐味なのであって、そこさえうまく設定できれば、『ユージュアル・サスペクツ』(95)や『オープン・ユア・アイズ』(97)のように、「一生忘れられないミステリー映画」に映画を「格上げ」することができる。
その意味で、せっかく手の込んだプロットを逆算で語るという難行に挑んでいるわりに、作中何度か訪れる「謎が解ける」瞬間=「世界の色が塗り替わる」瞬間を、なぜかあまり際立たせようとない監督のやり口は、僕にはもったいなく思えてならないわけだ。
同様に、父親が花に投げかける、家族が「本物」か「偽物」かに関する認識の再確認も、この映画のネタにとってはきわめて重要な問いかけだと思うので、フラッシュバックなりをもう少しきっちり入れて、彼女が得心がいったことをしっかり表現してほしかった。
まあ、玉木宏の勢いに引っ張られて、なんとなく見ちゃうんだけどね。
玉木宏は、冒頭からラストまで終始最高に楽しそうで、いつまでも「あさが来た」のイメージで観ていたら失礼だな、と。本当はこういう、ヴィンセント・プライスやマイケル・ケインが嬉々としてやりそうなネタキャラを、やりたくてやりたくてしょうがないクセモノ系俳優さんなのかもしれない。
花役の南沙良は、好演(終盤の対決シーン以外は。感情を爆発させる演技ってのは難しいね)。
一見、絵に描いたような乃木坂系フェイスだが、だんだん映画を観ているうちに、のんと橋本愛の「あまちゃん」コンビのハイブリッドみたいな存在に思えてきた(笑)。
あと、桜井ユキも、ほぼ映画のホラー的要素をひとりで背負って、少し揺らいだだけで壊れてしまいそうな不安定な精神状態を上手に醸し出して、よく頑張っていた。
実はこの映画で僕が一番感心したのは、プロットでも主役の演技でもなく、桜井ユキがピアノを弾きながら、メリーゴーラウンドのシンプルな主題を変奏させつつ、狂気をぶわわわっと放出させていく、あのシーンだった。
100のセリフを重ねるより、ああいうひとつのシーンの創出が、100倍、映画の出来を左右するものだと思う。