たぶん悪魔がのレビュー・感想・評価
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青春の蹉跌
冒頭にある青年の死が報じられ、そこから遡って死へのカウントダウンを追っていく「市民ケーン」風の構造。ロベール・ブレッソンの映画ではおなじみの、無表情な登場人物たちが抑揚のない台詞を語る。ブレッソンやジャン=ピエール・メルヴィルに親しんでしまうと、普通の映画の口跡が白々しく感じるという副作用が生じる。
環境汚染や核などの社会問題についての言及が、ブレッソンにしては珍しい。黒澤明の「生きものの記録」では核の恐怖に耐えられなくなった主人公が狂気へと逃避するが、この映画の青年が破滅に導かれたのも同様の絶望なのだろうか。
青年たちの属性や人間関係が説明されないまま進行するので、置いてきぼりにされたような気分になる。ブレッソンは「創造とは付加よりもむしろ削除である」と言っているように、必要最小限しか描写しない。この唯一無二の高踏的な作風は、遺作「ラルジャン」で完璧に結実する。
シャルルは自分の手で自殺することはせずに、ともだちに「古代ローマ風...
シャルルは自分の手で自殺することはせずに、ともだちに「古代ローマ風に」と頼んで墓地で自殺に見せかけて殺してもらう。
死に至るその瞬間に最も崇高な瞬間が訪れる、とシャルルは語るのだけれど、シャルルは、死の瞬間を知ることはなく、ともだちに背を向けて話しながら歩いているときに殺されてしまう。でも、よかったのかもしれない。死の瞬間を彼が自覚した状態で迎えたとしても、結局彼はその崇高な瞬間を手に入れることはないように思うから、
彼は虚無にとらわれていて、いわば後ろ向きに生きていたのだけれど、ここでもまた、死にすら背を向けていることが描かれている。彼が生と死のあいだをゆらゆら揺れ動くこの物語には、恐ろしいくらい、ぴったりだ、
彼の最後の言葉は、ともだちに向けた「知りたいか?」という問いかけ。ともだちはそれには答えることはない。誰も答える者がなく浮遊して漂い続ける問いかけの言葉があまりに空虚だ。そして、最もその答えを「知りたい」と思っているのはきっと彼自身なのかもしれない、
シャルルは虚無にとらわれて淡々と生きているから、物語はゆるゆると進むのだけれど、最後の場面は、シャルルを撃ち殺したともだちがお金を握りしめて、走り去っていく。突然に物語のテンポがあがり、そのまま終わってしまう。死んだシャルルの身体と一緒に、見ている観客まで置いていかれるような、あの静かさ。
死んだシャルルの美しい顔が忘れられない。虚無を抱えたまま、ひとりで、ほんとうに古代ローマの彫刻の題材のように死んでしまった、
・突然に物語のなかに挿入される、環境問題や争いなどの同時代の暗いニュースの映像が、シャルルの虚無を可視化しているように使われていたように思う。特に、人間がアザラシをめちゃめちゃに叩く映像、、人間の愚かさとか、それをどうしようもできない無力さとか。または、めちゃめちゃに叩かれてるのって実は自分自身なんじゃないかっていう社会の理不尽さだとか。そんな映像たちをシャルルたちは、悲しむわけでもなく、ただ、淡々と虚に無表情で見ている。
・容姿が美しくて、頭も良くて、なんの不自由のない人だからこそ、あんなに虚無にとらわれて死んでいってしまう社会の生きづらさ、
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