「中世の「箱庭」の中で展開する、騎士と王妃のミニマルな不倫劇。ジョスト競技の異様なグルーヴ感!」湖のランスロ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
中世の「箱庭」の中で展開する、騎士と王妃のミニマルな不倫劇。ジョスト競技の異様なグルーヴ感!
開幕早々の三隈研次ばりの首チョンパ&大出血スプラッタ(笑)。
とくに、杵みたいなので頭ごいーんとしたら、兜の下から血がじょば~ってのが良い。
え、ロベール・ブレッソン的にそれはありなんだ? とちょっとびっくり。
ただ、話が進めば、いつものブレッソンだ。
というか、ブレッソンが提唱する「シネマトグラフ」っぽさは他作以上に顕著。
人形のような俳優の扱い。棒読み、無表情の強烈な「言わされ感」。
もちろん、出演俳優はみな演技経験のない素人ばかりである。
ミニマル・ミュージックのように反復される同一動作、同一事象。
なんだか、映画じゃなくて絵コンテでも読まされているかのようだ。
監督に与えられた「型」が、古典芸能ばりに全編を支配している。
それは、もはや「型」というより、役者に課せられたある種の「枷」だ。
たとえば、初期作のようにモノクロームだったら、まだその「異化効果」がある。
主人公が「少女」や「ロバ」だったら、その無垢さが不自然さをある程度緩和するだろう。
語りが主体の『田舎司祭の日記』みたいな手法も、シネマトグラフとは相性がいい。
だが「歴史劇」でこれをやると、シネマトグラフの特異性が、逆に「悪目立ち」する。
監督が他作では巧妙に避けていたように思われた「あざとさ」が前面に出てしまう。
なんだか、作り物の鎧を着て先生に言われたとおりやってる、文化祭の演劇のような……。
歴史劇なのに歴史っぽさは皆無で、演じている「今の人」が逆に浮かび上がってくる。
今回、実見してそれを痛感した。
とにかく画面の端から走り込んで、対角線に抜ける「足」の描写が異様に多い。
まずは、人や馬の「足」が横から入って斜めに移動する動きが画面の基本リズムを形成する。
その合間に、二人がセットになって並ぶ静止画のヴァリエイションが何度も試される。
時に大写しになる紋章や壁のくり抜き窓は、たいがいシンメトリーの二つ模様を成す。
おそらくなら、ランスロ(ランスロット)とグニエーブル(グィネヴィア)のイメージが全編につきまとっているのだろう。
男はとにかく、鎧で個性を奪い取られたうえで、マシンのように馬に乗り、フェイスガードを上げたり、下げたりする動作を繰り返す。正直、誰が誰やらフリで観ていてもさっぱりわからない。
(ちなみに、彼らのつけている甲冑はすべてプラスティック製で、映画の間じゅううるさいくらいにガチャガチャ鳴り続けている金属音は、すべて後付けの効果音らしい)
グニエーブルの扱いはそこまで機械的ではないが、代わりに徹底して「ラファエル前派の画家が描くグィネヴィア像」のイメージに近づけるように意図されているように思われる。
(ラファエル前派とは19世紀中ごろに復古的な絵画理念を掲げて運動を展開したイギリスの若い画家たちによる画派。ロセッティやミレイに加えて、第二世代にウィリアム・モリスやバーン₌ジョーンズなど。ロマンティックで象徴主義的な画風が特徴的だが、「今の女性をコスプレさせて装飾空間に放り込んだ」かのような作り物くささは顕著だ)
極端に奥行きのない室内を背景に、プロフィール(横顔)を見せるグニエーブル。
これこそは、まさにラファエル前派的な美観だ。
湯あみのシーンで、美尻をさらして、顔はかざした手鏡に写り込んでいるという構図も、映画的というよりは、絵画的、美術史的なコンテクストが強い。
(そういえば、森の中で鎧武者たちが馬を駆りながら戦う幻想的な情景も、おそらくなら初期ルネッサンスのイタリア人画家パオロ・ウッチェロの『夜の狩り』や『サン・ロマーノの闘い』あたりのビジュアル・イメージを念頭に置いていると見て間違いない。このへん、反撥し合っていたといわれるブレッソンとドライヤーが、中世を描くにあたって似たようなアプローチを示しているのは面白い。)
要するに、男は鎧のなかに封じ込められ、女は絵画のなかに封じ込められている。
そうして、ブレッソンは役者から「人間性」を剥奪し、「駒」として配そうとしているのだ。
この猛烈な違和感は、それが効果的に思えるか否かはさておき、「ロベール・ブレッソンがわざと仕掛けてきている異化効果」なので、素人芝居に見えるからといって非難しても仕方がない。
こうして、「どこかおかしなもの」を観ている気にさせること自体が、彼の狙いなのだから。
ただ僕には、同じ手法が『バルタザールどこへ行く』や『少女ムシェット』ほどに「はまっていた」ようには、どうしても思えなかった、ということだ。
違和感の頂点には、中盤に登場するジョストの馬上槍試合がある。
(昔、ジョスト競技をテーマにしたエロゲとアニメがあって、なぜかルールは知っていたw なお西洋では、ジョストと「円卓の騎士」はイメージとして切っても切れないくらい深く結びついている)
あがる旗。走る馬。肝心の槍がぶつかる瞬間はオフショット。
勝者はランスロらしい。シンパの若造が「口で」毎回そう言ってるから(笑)。
それが、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返される。
だんだん、自分が何を見せられているかもよくわからなくなってくる。
でも、なんとなく、グルーヴィーではある。
そのあとは、ひたすら騎士同士で殺し合いが起きているらしいのだが、誰が何をやっているのやらさっぱりわからないので、観ているほうとしては、けっこう困る。
でも、ブレッソンは、「わざとわからないように」フィルムを編集させているらしいので、これはこれでいいのだ。
ラストのあっけなさも、静止画としてはとても美しいが、あまりに素っ頓狂だ。
でも、これが狙いなのだから、仕方がない(笑)。
とはいえ。
これだけあれこれ言いつのりながらも、「絵」や「動き」のほうは、僕はそれなりに楽しめたのだ。
ただ、あまりにお話のほうがうんざりするような内容すぎた。
僕がイマイチこの映画にはまれなかったのは、むしろそちらが理由だ。
これまで観たブレッソン作品はいずれも、一方的に苦難に見舞われる弱者の死に至る道程を描いた「受難劇」だった。でも『湖のランスロ』はちがう。
何故に、間男と淫売のくだらない痴情に巻き込まれて、騎士団が崩壊しなければならないのか。
あまりに理不尽である。
誰にも負けない強すぎる「英雄のなかの英雄」が、プライベートでは「俗物」すぎることで生まれる、周辺の認識の混乱とでもいおうか。
政治家とか俳優とかお医者さんとかでも、そういうことあるよね。
誰から見ても超優秀な人なのに、不倫とか乱倫とかギャンブルとかが止められない人。
本人たちは良くても、だんだん回りの人間関係がめちゃくちゃになってくっていう。
相手の強大なカリスマ性とか俗悪性とかに引っ張られたり、理解がおっつかずに惑乱したりして。
どこかで「あれだけ出来る人がそんなバカなことするのかな?」ってのがあって、仲間内でも認識の齟齬が生まれて、亀裂が深まっていくんだよね。
本作は、そういう現代的な事象を、「歴史」と「人形化した役者」を用いて客体化し、ミニマリズムの領域で扱ってみせた、ある種「箱庭療法」のような映画でもある、ともいえるだろう。
よくいえば、ですが。
それと、どうでもいいことだけど。
そもそも僕の世代には、アニメ『円卓の騎士物語 燃えろアーサー』で初めてアーサー王伝説に触れたという人間も多いのではないかと思う。
アーサー王の騎士たちに関しては、あれの正しく勇敢でヒロイックな印象がやたら強いから、そのあとランスロットとグィネヴィアがガチ不倫するとか、モルドレッドが裏切って返り討ちに遇うとかやられても、それが正史(?)だとわかっていてなお、なんか不愉快に思えてしまう、ってのもあるかもしれません。
あと、ずっと「いつ湖が出てくるんだろう?」って思いながら観ていたのは内緒(笑)。
そういや、「湖の騎士ランスロット」ってのが、こいつの二つ名だったな。