すずめの戸締まりのレビュー・感想・評価
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こんなんでジブリの後継になれると思わないでね シナリオライターといえるレベルではない
まずここまでで判明しているパクリ(オマージュといえば何してもいいんですか??)をまとめます。
特別な鍵で扉を閉める→もろキングダムハーツ
みみずのデザイン→エヴァの使徒、もののけ姫のデイダラボッチ
扉の向こうが草原の広がる時間のない世界→ハウル
ソウタのキャラデザ→ハウル
いすのデザイン→よつばとのダンボー
猫のデザイン→魔女の宅急便
昔の自分と対話→ハリポタ、ドラクエV
みみず・話→村上春樹 かえるくん、東京を救う。
とにかく多すぎ。どこにオリジナリティがあるの。
あとアマノウズメをモチーフにしてるていうけどアマノウズメって上半身裸で踊ってみんなを爆笑させた女性なんだけど大丈夫???
弟スサノヲの狼藉にショック受けて太陽神の天照大神が閉じこもってしまい、世界が真っ暗になってみんな困ってた。
そこでアマノウズメが自分の乳をさらけ出し、アホみたいな踊りを披露して楽しい笑いが起きて、なんだろう、この私がいないのに何がそんなに楽しいの?と天照大神が出てくるって話で、
特にリンクしてないよね。
そのくらい監督は知ってるはずなんだけど。
で、すずめはチラッとあっただけのイケメンがいない世界がめちゃくちゃ怖いらしい。
その一方あんないい一軒家に住まわせて経済的にも何不自由なく、人生犠牲にしてまで育ててくれた叔母さんのことは過保護モンペ扱いでイケメンのために逃げる逃げる。
挙げ句「(育ててくれなんて)頼んでないっ!!!」
完全に人の心がありません。
家出の理由「言ったってわかんないよ」って、ダイジンや椅子が話すのも目に見えるんだから、荒唐無稽な話でも信じさせるのは可能だよね。三葉のパパみたいな頑固親父でもないのになぜ説明放棄?
こんな恩知らずを引き取った叔母さんが不憫でならない。
あとソウタが年上の教員志望である必要まっったくなし。
そもそも一家代々閉じ師でありながら教員なんか志望する意味がわからん。激務だよ、平日休み取れないだろ。土日や夏休みしか地震おきないのかな??
無理があるだろー…さすがに…
あと中途半端に叩かれたくないのバレバレ。
地震が来そうで来ないんだもん。閉じてるから。最近は真面目に全国行脚してるから閉じられて良かったねって感じ?
全部閉じ師の頑張り次第なわけ?
違うでしょ?プレート同士のぶつかり合いなんだよ?
例えばプレートに見えるものは実は地中に潜った神でそれが争っているとか、何か整合性とってよ。ミミズが湧き出してそれが倒れた衝撃で揺れるなんておかしいじゃん。
で、3.11のときは無念にも都合悪くて?力強くて?要石の都合で?閉じられませんでした。。て?
じゃ、事情を知りながらどうにもできなかった閉じ師のせいで起きた人災てことでOK?
そんなものすごい自責の念抱え切れないよ…。
これからもやるなら全力で365日24時間やんなきゃだよね。閉じ師だけでは食べてけないって誰がお金くれてんだか知らないけどわかっててお金あげてるわけだから衣食住絶対保障されるべき超重要職だろ。
なんで困窮させてんだアホか
話の流れとしても椅子になる意味がわからん。
民話か何かのオマージュとか言ってたけど意味がわからん。必然性がないんだもん
震災のショックから立ち直れない人が唯一心を開ける同級生が何してるかと思ったら実は閉じ師だった。とか、そういう方がまだ説得力あるよね。
なんか子供の頃見た二人は大人になった自分たちって話もさ、そうはいってもその二人であって5日だからねってのは変わんないし、生きてりゃイケメンと恋する楽しみが待ってるよ!て!軽薄すぎて。まあ新海誠はこんなもんだな…。
おばさんも綺麗で若いよね,そういう人しか描けないもんね。カンタのばあちゃんみたいに綺麗じゃないけどみんなの心が温かくなるような人描いてみろや。
まあ無理だろうけどね…。
結局ダイジンの情緒もキャラクターも定まってなくて意味不明、いっぱい人が死ぬことをなんとも思っていない超越的感覚を持ちながら、すずめに嫌われて傷つく心はある。
そして傷心自殺的に要石にもどる。
すずめから「当たり前だろ!じゃあな!っしゃあ!!!これでイケメンとつきあえる〜っ♪」という声が聞こえてきそうです。
シナリオになってないレベル、そのへんの漫画家さんのほうがちゃんとしてるよね…??
この人も絵と演出専門の方がいいよ。
芹沢が出てきたのも意味不明…。ソウタでいいんだよ、ずっとソウタで。椅子になる必要もなし!!!
二人きりはちょっとってことなら、天気の子みたいにもう一人子供とか連れてけばいいだろ。芹沢×叔母パートとかなんなんだよ一体。
これだけの注目度で現実の震災を扱うのなら、もう覚悟して、あの震災についてインタビューしたり被災地訪問したりして、しっかり向き合って真正面から火垂るの墓みたいに描いたら?あ、得意のオマージュって意味でなくね。
観れない人はたくさんいるだろうけど、そのほうが世界には多分社会的意義があると思う。
アニメ歴代興行収入 低くて…。
おもしろくてかわいいタイトルからすずめたちのほんわかした物語だと本気で思っていた…が、大間違いだった。
忘れることのできない災害の爪痕を感じさせ、それを背負うことを余儀なくされた複雑な心の動きに正面から向き合う作品は、単なるレクイエムにとどまらず、被災者である主人公・鈴芽に、閉じ込められた時間から飛び立つ旅を仕掛けた。
そして一瞬衝撃的でもあった、生身の人間関係だからこそのストレートな感情、時には溜め込まれたわだかまりの存在があることをあえてぶつけてみせるのだ。
生きているから知っていく。
生きているから越えていく。
そこに自分にしか助けてやれない自分がいることを教えるために。
そして重要なもうひとつ。
私達が澱みなく与えられた尊いものはいつも、それを感じられる自分のなかにありそれが自分を突き動かす基本の糧であると伝える。
作者は私達に鈴芽の戸締まりの体験を共有させながら、一方で支える側の必要性を説く。
自分の速度で一歩ずつ進んでいこうとする(生きていこうとする)誰かの背中側にそっとまわり、立ち止まるときも、座りたくなるときも、また歩きだすときも、いつでもささえられる位置にいられる私達でいようと呼びかけているのだろう。
いってらっしゃい。いってきます。
ただいま。
おかえりなさい。
何人もの人々が交わす挨拶だけのシーンに胸が詰まりこみあげる。
慣れてしまうとわからなくなるこの上なく幸せな時間のやりとりを強烈にみせる短く深いシーンに涙がぽたぽた落ちた。
なんでもない日常は奇跡とよべる時間だ。
こうして生かされていることに感謝し行動しなければと思わせられた作品だった。
本当に伝えたいことが何だったのか最後まで私には分からなかった
公開時のオープニング部分の無料公開を観てから興味がすっかり失せてしまって何ヶ月も経った今日、レンタルDVD借りて来て鑑賞
最初から最後までワクワクせず退屈してしまった。私のような年寄りには驚きも喜びも、何の気付きも考え込ませられる場面もないまま時間だけが過ぎた
過去作もほとんど観てきたけど、とても上手に作る監督なんだよね
だけど 厳しく言えば、
J-POPの売れっ子バンドの多くが作曲の時に使い続けてきた大衆受けする売れ線の魔法のコード進行みたいに、気持ち良くなっちゃう脚本作りや絵作りの味付けを監督が心得てしまったのかもしれないなぁと邪念が頭をもたげたまま終映
薄味 見終わった後の正直な感想でした
宮崎駿作品「君たちはどう生きるか」を観た時の混乱😵💫や考え込んだり🫤の飲み込んでしまった異物感の正体が何か、何ヶ月か経った今も未だに明確に答えが出てこないのだけど、この映画からは残念ながら何も問いかけが感じられずにスルスルと流れてゆく話を少し淋しい気分で眺めていた
作家として震災をテーマに扱う責任は重たいね
タイトルなし(ネタバレ)
ソータの事を好きになって、大事な人になるの、早すぎ
ソータがちょい棒読みがあるが、大事なシーンでは上手で助かった
ちびスズメに椅子を渡して、彼女がモノクロの世界に帰っていくシーンが悲しい
絵は流石に綺麗
ミミズはもののけ姫の祟り神とデイダラボッチに見えてしかたなかった
歌は良かったー
ダイジンというネーミングがすぐ定着するのも違和感
サダイジン、いきなり来て馴染みすぎ
この2匹の立ち位置が分かりにくかった
スズメが旅をして行くのは、楽しかった
新海誠嫌いでも大丈夫
2回目 2024/3/31
余りにもダイジンに対して無慈悲だ。要石として"大切な見えない仕事"を江戸時代から続けていたダイジンはさぞ大変だっただろう。漸く封印を解いてもらいソウタに役割を押し付け自由を謳歌することができた。しかしすずめにものの見事に振られた。その上ソウタのために自分が閉じ師になろうとしてるスズメを思い再び石になる。
愛されている人のために誰からも愛されていない社会の陰で頑張っている人が辛い目に遭う。よくあることだがこんな綺麗な娯楽作品でそれをやるのが惨い。
映画自体は面白かった。
1回目
僕は新海誠がずっと苦手でした。
「君の名は」「天気の子」の、RADWIMPSのmvみたいな感じがすごく嫌でした。これ、映画がすごいんじゃなくて、曲が凄いんじゃね?って思ってました。(RADWIMPSは普通に好きです。特に念仏みたいな曲が好きです。)
映画館にこれを観に行ったのは、好きな女の子をデートに誘いたい一心、それだけでした。新海誠の名はうぶな高校生にデートに誘う勇気を与えるのには完璧でした。
そして、果たしてデートに行けたのですが、普通に面白くて、困りました。横に彼女がいるから集中できませんでした。
この映画は冒険譚であって、ラブストーリーの要素はかなり抑えられています。新海誠がポストジブリを意識しているのを感じました。
日本人を悩ます地震を化け物として、戯画的に描くのはシン・ゴジラと似ていると感じました。
ロードムービーが好きな僕はそっち方面でも楽しめました。かかってくる音楽はどれも名曲で聴覚も癒されました。
もちろん新海誠らしく、10代のモラトリアムも義務的に描いてはいました。
いろんな要素をバランスよく抑えているので、間違いない作品にはなっていますが尖った魅力がないのが残念なので、次作を楽しみにしています
扱いにくいテーマを盛り込んでよく作った
個人的、タイトルと予告編を見た印象ではもっと単純なファンタジー物語かと思っていたが、まったく違ってて、重いと感じた。
地震災害を怪しいミミズで表現しているファンタジー的な部分やネコの姿を借りた異次元の神様?たちなどそれなりのキャラクターが並び、物語を構成しており、さてどうなるか?と期待感を持って観たものの、3.11を絡ませた内容が演出上で出て来て、何気ない朝、いつもの食事をしている人たちの声とか出てくるシーンもあり、被害がなかった地域で住んでいる私にも関わらず、あれだけの犠牲者とその関係者の切なさを考えると胸が苦 しくなった。「お母さんが居ないんです。探しています」なんて幼い声で言われたら、ホンマにツラいわ。
そして、そのテーマ部分をさっ引くと心動く部分がないと私には見えた。
基本のストーリーで謎のイケメン大学生と女子高生の恋物語がこの作品のなかでとてつもないキーになったとは思えず、かといって震災イメージ演出で目を潤ませてしまい「こりゃ何回も観ようとは思わんなぁ…」 と言うのが正直な感想。
人に見せるとして震災のイメージありと言って見せるとしたら心理的な抑制が掛かりそうだし、どうにもこの作品を正当に評価してやれない気がする。
「おかえりなさい」
映画館でも鑑賞したが、配信であらためて鑑賞。
12年前の3月11日、東京で暮らしていたわたしは東北の状況をニュースで知り、仕事帰りに寄ったコンビニはパンやカップラーメンなどがほとんどなく、テレビは全て震災の情報を伝えるものでCMはACジャパンだった。
あの日の事は決して忘れない。
映画のラスト30分程、たくさんの人が「行ってらっしゃい」「行ってきます」と交わす言葉。
あの震災当日、誰がその「行ってらっしゃい」が最後に交わす言葉になるなんて思っただろうか。
どれだけの人が「ただいま」と言えたのだろうか。
震災のニュースとACジャパンのCMを観ながら苦しくて泣いてばかりいた自分を思い出し涙が溢れた。
「行ってらっしゃい」と伝えた相手に「おかえり」と伝えられる事、「行ってきます」と伝えた相手に「ただいま」と伝えられる事が当たり前ではない事。
すずめも言っていたように「生きるも死ぬも運」でたまたまわたしは今日を生きている。
その事を忘れずに生きたいと思い出させてくれる映画だ。
地震(災い)が主としてある映画ですが、芹澤(神木さん)のチャラそうではあるけどイイヤツが最高でした。
きっと良い先生になるんだろうなと思います。
あの日の事は忘れないけれど少しづつ薄れてゆく記憶を大切な事を忘れないよう毎年、観返す映画にしようと思います。
うーん
期待していたから、余計に。
やっぱり、見るほどよく分からない。
でも、なんか引き込まれるけど、ストーリーが早いのはいいのだけど、地震とか恋愛とか、詰め込みすぎのような気がする。
でも、人が椅子になるとかそうゆうの好き❤️
でも、何にしても説明不足のような。
でも、絵もRADWIMPSの歌も好きだから、この映画は好き!
声優もいいね!
だから、たぶんまた次の作品出ても見ちゃうんだろうな。
風化させないために。。
新海誠監督が、自身のネームバリューを使い、多くの人に観てもらえるよう、敷居を下げ、間口を広げ、そして敢えて挑んだ作品だったと思いました。
そうは感じていたものの、どうしても踏み出せず。。
私は映画は良く観る方だと思いますし、新海誠監督作品はリアタイで劇場で鑑賞してきました。
新海誠監督の新作だから!と、普段映画を観ない友達も鑑賞していましたが、私には無理でした。観られる時が来たら、と。自分のペースで、と。
しまっていました。
あれから12年以上経ちました。
まだ、12年なのか。
もう、12年なのか。
毎年3月11日の午後2時46分になると、黙祷し、被災した方々へ思いを馳せています。
今回おかえり上映という事で鑑賞しました。
賛否分かれた本作でしたね。
指摘されていたすずめと草太の急過ぎる関係性について。
幼い頃のすずめは常世で草太と母
(と思っていたが、12年後の自分自身)と会っていた。
すずめも被災者で、常世に入り込んでいたのを、2人によって現世へ送り返された過去があった。
その時の出会いがあったからこそ、坂道で草太と会った時、潜在的に「母に繋がる人=自分を救ってくれる人」と感じ、行動を共にしたんでは、と推測しました。
一見サイコパスに見えるダイジン。
確かにあの発言や行動は批判的に捉えられても仕方がない描かれ方にも見えました。
しかし、要石としての役割を全うし
ずっと1人で頑張って来たダイジン。
すずめによってそのお役目から解放された時、自分に自由をくれたすずめを好きになるのも、草太を邪魔に思うのも理解できました。
「うちの子になる?」は嬉しかったと思う。
そしてこの発言は環が幼いすずめにかけていたそれと全く同じセリフだ。
ダイジンはすずめから草太を奪う。
幼いすずめは環から自由と12年分の人生を奪う。
ダイジンとすずめは似ている描かれ方だと思いました。
2人共無意識に無邪気に大切な人の大切なものを奪ってしまうという共通点があった。
子供って無垢過ぎると逆に残酷だったりします。
「扉を閉める」という目的の為に進むロードムービーの側面の他にも、すずめと環の物語でもありました。
ダイジンに導かれるように椅子にされた草太とすずめは協力し、各地の後ろ戸を閉じていく。
愛媛でチカと仲良くなり宿に泊めてもらう。
神戸へ帰る途中のルミに車に乗せてもらい子守とスナックの手伝いをする。
ダイジンが訪れた場所は人々が集まり活気づく。なぜなんだろう。ダイジンは福の神のような存在なのかとも思えた。
そしてだんだんと寝起きが悪くなっていく草太に嫌な予感がしていた。
後に要石となってしまう事の伏線だったのかな?
東京に戻るとこれまでとは比べ物にならない巨大ミミズの出現に、草太は自らが要石となる覚悟を決める。
すずめの手によって巨大ミミズに、要石となった草太を刺す。
巨大地震は食い止められたが草太を失ったすずめ。
草太を取り戻す為、すずめが唯一通る事のできる岩手の実家の扉を探しに出発する。
芹沢のオープンカーで、環とダイジン、サダイジンと共に。。
途中のSAでサダイジンに乗っ取られた環と喧嘩になるシーンは辛かった。
お互い大切な存在なのは分かりきっているのに、でも口から出たその言葉も本音だった。
すずめの心が震えたつ。
何としても草太を救う!
被災した過去の記憶を思い出し、サダイジン、ダイジンと共に巨大ミミズに立ち向かう。
ダイジンが再び自分が要石になる事で草太をすずめに返してくれた場面は強く心に残った。
ここをかわいそうと見る声もあった様ですが。。
ダイジンはすずめと行動を共にして行く内に心変わりして、自ら選んで要石になるお役目を引き受けてくれたと思っています。感謝しかありません。
悲しい震災があった事は事実です。
残された人々は、人と関わり、時間をかけて、その傷を超えて行かなければなりません。何があっても、その時が来るまでは生きていかなくてはいけません。
三本の脚でも立っていられる。
「ただいま」「おかえり」を言える、聞ける、そんな日々を大切にしたい。
子も成長し、だんだんと素っ気なくなる「ただいま」だが、その声を聞ける事の幸せを噛み締める。
私の「おかえり」はいつまでも変わらない愛だ。
大変な震災を経験され、大切な人や家、全てを失った方々からすると、耐えられない作品だったかもしれません。
作中に流れるアラート音には私も動悸が止まらなくなりました。
本作は、これまでも災害をテーマに描いて来た監督作品と比べられないほどに、東日本大震災をかなり直接的に描いています。
「死ぬか生きるかなんて運だ!」
なんて高校生のすずめに言わせるほど、その死生観をも歪めた震災だったとわかります。
人々の心理描写が深掘りされている事で、まだ観るのが辛い方も多いだろうと推測します。
でも私は監督の、未来への希望を見出してほしいというメッセージを受け取りました。
苦しんでいる方々のショックやトラウマも戸締り出来たらいいのにと思いました。
1日でも多く笑える時間が訪れますように。
早いか否か
前知識持たずに鑑賞。3.11を題材にしてるとは思わず。
ノンフィクションでは無く、3.11を娯楽作品の背景に持ってくるのに10年余りと言う期間は早いのか否か。他にも背景に使った作品は有ったが、アニメ故に描写出来てしまう燃える町のシーンの様な使い方は知ってる限り無いかなぁ。
映画としては面白い。序盤は昔のジブリの様な雰囲気。
前二作の RADWIMPSのMVぽさは無くなった(最後に掛かるけど)
ただ、声優をねぇ・・・・
「失う心の痛み」の普遍性に肉薄
新海誠がメジャー化した「君の名は。」「天気の子」のような、大衆に向けて広く訴える作品(それなりに楽しんだことには違いないが…)より、良い意味で偏りもある強い作家性を発揮した過去の作品(個人的には好きな作品もあれば嫌いな作品もある)の方に注目してきたし、その中でも「言の葉の庭」こそが至高だというのが私の持論だ。メジャーとなって大衆に訴える方法も掴んだいま、元々の強い作家性を発揮し、大衆に迎合せずとも大衆を強い引力で巻き込む作品を志向して欲しいと思っていたところに本作が登場した。
正直に言おう。初見の時、クライマックスで私は涙を堪えることができなかった。この涙は、純粋にこの作品に揺さぶられたからか、はたまた震災の記憶(私なりに強烈に焼き付いている体験ではあるが、それでも私はそれを東京で体験したに過ぎない)を刺激されたからなのか…いやきっと両方だろう。少なくとも、クライマックスであの扉の向こうで出会った幼いすずめから発せられたことばに酷く心が掻き乱された。そして、(ここがこの作品の凄いと思うところなのだが)この鋭く伝わってくる幼いすずめの心の痛みが、「震災による喪失の痛み」というラベリングを突き抜けて、「大切な人を突然失う痛み」という極めて普遍的なものとしてストレートに伝わってきたような気がしたのである。東日本大震災という強烈に焼きついた現実での出来事をモチーフに、それに尽きない普遍的な人の心の痛みに肉薄するというかなりの離れ業を、こんな形で観ることになろうとは正直思っていなかった。
やはり、新海誠はオーディエンスに媚びることなく、自分のこだわりに従って作品に取り組んでこそ真価を発揮する。本作はとても素晴らしい。
心の扉🚪
全世界で500億円以上の興行収入を稼ぎ出した邦画は、現在のところ本アニメのみという、むかうところ敵なしの新海誠監督なのである。作風が“中二病”とか“セカイ系”とか揶揄されたのも遠い昔話、本アニメを見終わった直後の素直な感想はとにかく“分かりやすい”の一言につきるのである。『君の名は。』『天気の子』に引き続き、日本の古代神話に登場するアメノウズメをモチーフにした女の子を主人公にすえているが、日本書紀や古事記なんかを知らない外国人が見ても十分理解できる普遍性が感じられたのである。
そんな神話的要素に加え、時事問題をテーマに絡めることが多い新海監督。本アニメには、東北大震災と過疎化に伴う廃墟問題が、主人公岩戸鈴芽の成長物語の通奏低音として常に流れていて、大人が見ても厭きさせない工夫がきちんとなされているのである。基本的には、日本各地に起きようとしている地震をくい止めるため、女子高生鈴芽、閉じ師草太、白猫ダイジンが旅するロードムービーになっている。その道行きをサポートする道祖神が登場するのも新海アニメの特徴だ。
あらゆる道の最高神として祀られている宗像三女神の末裔であることを想像させる草太は、白猫ダイジンによって、導きの神として知られる八咫烏と同じ3本足の椅子に姿を変えられてしまう。2人を震災の地に導くダイジンは、地震を鎮めるため東西に埋め込まれた要石の化身という設定だ。宮崎→愛媛→神戸→東京→福島と、地震を引き起こすミミズ様が通り抜ける全国各地の後ろ戸を閉めて回るストーリーは、単純明快で実に分かりやすい。前2作にみられた複雑さは皆無といってもよいだろう。
冒頭にリンクするラストの展開は、お子さまにはちょっと分かりにくいのかなあと思ったりしたのだが、SF好きの皆さんにとっては(どこかで見た気がしないでもないが)納得のエンディングだろう。なぜ、草太に初めて会ったはずなのに鈴芽は既にどこかで会っていたような気がしたのか?3.11の辛い記憶を封印するかのように、後ろ戸を閉め続けてきた鈴芽。過干渉のおばさんに言いたいことも言えずアマテラスのように自分の殻にとじ込もっていた鈴芽が最後にあけた扉は、自分の心の扉だったのかもしれない。
未来へのメッセージ
東日本大震災から10年間。
新海誠監督が10年間。考え続け考え抜いた
「ひとつの答え」
そんなメッセージを受け取りました。
3・11で家族や大切な人を亡くした多くの日本人たち。
心の傷は家族を失わなかった人にも、心に大きな爪痕を
残しています。
「ミミズ」と宗像草太がそう呼ぶ《地震の予兆》
それは大地や海から、
《赤黒くて太い竜巻のように空に向かって突き上げてくる》
草太は地震の予兆を止める【閉じ師】が家業だ・・・
そう言い全国を放浪している。
ミミズの吹き出し口である「扉」を見つけては閉じているのだ。
ある朝、学校へ向かう坂道で、草太から「この辺りに廃墟はないか?」
と聞かれる。
そこは九州の宮崎。
岩戸鈴芽が叔母の環と暮らす土地だ。
「君の名は。」「天気の子」と比べても、ファンタジー要素はとても
大きくなっています。
気候の「超常現象」や「入れ替わり」より、人が「椅子」に
変えられるのは
「美女と野獣」で家来がティーポットや時計や羽根ばたきに
変わるのに良く似ている。
童話のようだ。
作画は写真のように精密だった前2作に較べると意図して水彩画のような
描き方や「ミミズ」が竜巻のように湧き上がるシーンは民話やホラーを
思わせる。
鈴芽(すずめ)や叔母の環(たまき)の顔も平板で特別な美少女には
描かれない。
「君の名は。」と「天気の子」でストーリーを主導するかのようだった
音楽(RADWINPSの歌の歌詞)も、でしゃばらずに、密やかに流される。
その草太と一緒に九州から愛媛そして神戸。
草太(椅子)と鈴芽が、生まれ故郷の実家のある東北へと
旅するロードムービー。
草太はダイジンと呼ばれる話す猫から鈴芽の母親の形見の黄色い椅子に
姿を変えられてしまっても同行して要石で閉じていた災厄が
現れた場所を次々と訪れる。
現実離れした設定だが、アニメにしか出来ないファンタジー。
行く先々、愛媛や神戸で親切な人に世話になる。
草太の学友の芹沢が神戸から東北の鈴芽の生まれた家まで送る
赤いオンボロ・オープンカーの車内でカーステレオから流れる懐メロ。
平山みきの「真夏の出来事」
河合奈保子の「けんかをやめて」
誰の好みなのか?この辺りは肩の力が抜けて楽しい。
災害(地震)の扉の【閉じ師】が現実に存在して、予兆を閉じて行く。
草太がミミズに必死で祝詞を唱え「かしこみ、かしこみ・・・」
と大声で唱えて、力の限り「扉」を閉じるシーンは圧巻。
鈴芽も力を合わせるのだ。
鈴芽の名字が岩戸というのも「天の岩戸」を連想する。
閉じ師の草太と行動する勇敢な少女・鈴芽は死を賭けて
ミミズを止めに行く。
天災も人知で防ぐ事が出来たら?
それが新海誠監督の出した「答え」
新海監督の「願い」
いつかは天災を科学が人知が止める日が来る。
最後の地点は鈴芽が亡き母親と暮らした岩手県大槌町辺り?
そこで鈴芽は過去(震災)と向き合う。
そして震災の日(過去)の戸締まりをして、未来へ向かって
生きて行く。
草太は言う。
「死にたくない。生きたい、生きたい、もっと」
鈴芽も草太も「命はかりそめ」と知っている。
それでも「限りある命」
人は今を生きる。
なぜミミズ←わかりました❗️
地震という自然災害をくい止める為に九州から東北まで奔走する鈴芽と草太。
本来なら家業の草太一人でする仕事らしいが、猫のダイジンに小さな椅子にされて仕方なくというか、鈴芽本人は望んで同行というこじつけなストーリー。ただ、鈴芽が望む理由は二つあり、ラスト近くでわかる。
また、何でナマズではなくミミズなんだろう?
グレシャムの法則さんのレビューを拝読してみて謎は氷解した。村上春樹さんの作品『かえるくん、東京を救う』から新海誠監督が発想を得られたらしい。私のように疑問に思う方は、グレシャムの法則さんのレビューをご覧になっていただけたらと思う。一目瞭然。共にいいお話も仕入れられるだろう。
多分、皆様のレビューにもヒントが散りばめられていたのだろう。知識不足かつ鈍い自分には気づくことができなかったということだ。
草太が呪文を唱えていたのも古くからの日本に伝わる災害忌避への祈りなのだろうか。
現在において地震の予知は無理である。本作では、鈴芽に見える"ミミズ"近くの戸を早めに締め鍵をかければ地震を防ぐことができる。何と素晴らしいことではないか。だからファンタジーなのか。
大分、愛媛、神戸、東京、東北とダイジンが写っていたり、"ミミズ"が出現したところに場所は移って行く。この繰り返しが話を単調にした所以だろうか。
故に最後の東北の話に於いても鈴芽の幼い頃の記憶が盛り込まれていても鈴芽程も衝撃も受けずただ辛くて悲しい記憶のある人々にとっては、架空のファンタジーではなく現実に引き戻されてしまうのではないかと危惧する。
(余談)
ずっと公開作品として紹介されていて目にしていた、ほぼ半年。ロングランなので最終日に観に行った。
映像での舞台挨拶もあったが、やはり、生でないと魅力半減。
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