すずめの戸締まりのレビュー・感想・評価
全1260件中、1121~1140件目を表示
新海監督の想いを詰めた素晴らしい作品だと思います。
注)本筋には触れませんが、全く情報を入れたくない方には、もしかしたらネタバレと感じるかもです。
新海誠監督の最新作。
今作も自然災害を軸とした作品。
隕石、豪雨に続き今作は地震。
地震は後ろ戸に潜む巨大なミミズが現世に現れる事で発生するという設定が面白く、現実的な世界観とファンタジーが上手く融合されているなと感じました。
相変わらずの圧倒的な映像美は素晴らしい!の一言。1シーン1シー本当に魅せてくれます。
また、今作は舞台が次々と変わる為、まるで自分も旅行しているような気分に。
ちょっとしたシーンの描写が本当に細かく、リアリティがあります。
また、リアリティがあるからこその地震警報の緊張感。
まさかとは思ったが、現実にあった大災害、東日本大震災をあそこまではっきり取り上げてくるとは思ってもいませんでした。(新聞なんかでも掲載されていたらしいですが、できる限り前情報は入れないたちなので、地震がテーマである事も知らなかった。)
わずか11年前の大災害。人によってはかなり刺激が強いのではと心配になってしまうのと同時に、よくぞこのデリケートなテーマを取り上げたなと感心。かなりの覚悟で臨んだのだと感じました。
映画としても、見応えのある非常に素晴らしい作品でした✨
一緒に行った小6娘
とても面白かったようです。もう一回観たいと言ってました。
小3息子
難しかったようで、ストーリーは全然理解していないようでした。
子供は高学年位からがおすすめですかね?w
その他
・過去2作はRADWIMPSをBGMにプモローションビデオのような演出が印象的であったが、今作は無し。その代わり?ナツメロがかなり流れてました♪まさかあの曲を使うとはかなり強気だなと感じたりw
・前作の登場人物がこっそり登場する演出。今作は気付けず。帆高くんと陽菜ちゃん、どこかにいましたかね?
新海誠版ハウル。ファンタジー化の功罪
久々のレビューが今作かと思うと、指が震えます。
新海誠作品は残念ながら全部は観れていない状態で、「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」と今作を含めた天災3部作を観ています。個人的には「言の葉の庭」以降の、新海誠が一歩一歩と運命や壁を前向きに超えていこうとする流れは、1人の人間の変化をまじまじと見ている感覚があって好きです。特に「天気の子」は、そのエモーションが最高潮に到達して全力でドライブしていて、一番好きでしたね。
そんな中で今回の「すずめの戸締まり」は、「新海誠監督集大成にして最高傑作」とコピーで謳われるくらいですから、個人的には「天気の子」の後で何をやる気なのかな?という期待と不安がありました。
端的な感想としては、「結構好き」という感じでした。このニュアンスなんですよね。「最高傑作!」とか「全人類観ろ!」とか、どこがどう良いんだと熱を上げて語る感じじゃなくて、かといって「期待はずれ」とか「凡作」とかいう事ではなくて、「あー、結構好きだなぁ」という感じ。凄いふわふわしてるな。w
やたらジブリ感というかまんまジブリというのは色んな人が言ってるかと思うのですが、個人的には「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」への挑戦のような感じがしたのが、かなり好印象でした。ハウルがねぇ、好きなんですよねぇ。
ただ、かなり言いたい事は出てくる映画で、そこは色んな人と話して、賛否両論あってってなったら良いなぁと思いますね。
ここから、多分あんまり褒めにならない言いたい事を徒然なるままに書き留めていきます。
◯ガールミーツボーイについて
本作はザックリ言うなら、主人公鈴芽と閉じ師草太のロードムービーものと言ってよいのかと思います。その道中で祟り神の邪気を浄化する、という言い方をすると凄いもののけ姫感がしますが、実際やってる事は大地震から日本を救うという体を取っているものの、過去の無念の記憶を聞いて見届けて呪いから解放するというのが本筋という気がしています。やたらファンタジー感が強いので魔法使い感がしますが、それよりはエクソシストとか霊媒師とかに近しいものかと思いました。
まぁ、その点はひとまず置いておいて、この映画においてのガールミーツボーイはちょっと微妙というか、この2人の親密さの構築っていうのがあまりされていないと感じました。それはまさに戸締まりが本筋になっているからだと思います。ロードムービーとしての、観光や場所ごとでの住民との触れ合い要素はあるのですが、2人で過ごす甘い時間みたいな要素がほとんどありませんでした。恋愛までいく必要はないと思うのですが、あまり親密さの構築をしていないために、最後の方の「草太さんを救う」とか「草太さんがいない世界が怖い」というのがイマイチ納得がいきづらいなぁと思いました。キャラクターそれぞれは魅力的で声優も良かったのですが、そこからのバディ的楽しさは弱い印象でした。
◯地震の扱いについて
本作は前2作以上に分かりやすく天災テーマを描いてる作品としても特徴的でした。しかし、アニメーションで大地震を直接描写するという事ではなく、スマホのアラート音、地面の歪み、川が波打つといった関節表現によって、見えない地震の得体しれなさを表現していたというのは演出力の高さを感じました。また、関東大震災の再現が起こりそうになる所では、東京に住む人々の日常が描写される事で、この日常が破壊されてしまうという恐怖が見事に表現されていました。
ただ、この関節表現というのは今作では考えもので、1箇所決定的なカタストロフがあっても良かったんじゃないか?と思いました。というのは、今作では地震が発生する原因は扉の向こう煉獄から這い出てきたミミズ(地震を起こす大鯰という所ですかね?)によって発生しているとなっており、止めようのない自然現象ではなくなっています。勿論、一般人からしたら、そこに差異はないわけですが、観客側としては今作での地震は「コントロールができるもの」になっています。しかし、実際そんな事はないわけではないですか。現に、鈴芽は地震の被害に遭ってるわけです。何故、あの地震を閉じ師は防ぐ事ができなかったのか?防げない地震があるという事なのか?
ならば、1箇所でいいから、決定的に防げない地震による大量虐殺を描く事は、地震の恐怖を訴える上で必要があったのではないか?と思います。物語設定上、防ぎようのあるファンタジーなものに一貫したために、そこの現実感は弱くなってしまっていたと思います。この映画本編内では1人も死なないんですよね。
ここが多分一番「ハウルの動く城」に似てるポイントで、本来戦争の恐怖を描くはずだったあの作品も魔法使いなどのファンタジー要素によって、決定的な喪失がなく、現実としての戦争の恐怖を描くことにはかなり失敗している作品でした。逆にそこを日常とともに決定的に表現していたのが「この世界の片隅に」であり、日常としての描写は淡々と一定でありながらも決定的にどんどん奪われていく事の辛さが描かれていました。
◯ねこ・人身御供について
おそらく今作で一番無理があるポイントだと思います。地震を起こす地中の大鯰を要石で封じたという神話が根底にあるため、地震を防ぐ要石が抜かれてしまう事で厄災が発生するという事だとは思います。ただ、その要石の扱いはかなりご都合的としか言いようがないものだなぁと思いました。
まず、草太が要石としての責務を継承してしまったという点。これは言い方は悪いですが、鈴芽と草太が運命によって引き裂かれるという、いつもの新海誠展開をやるための設定ですよね?これは勿論、「天気の子」でもあった人身御供の責務を勝手に任されてしまうという設定で同じなのですが、「天気の子」と違い決定的に避けようのない大殺戮と天秤にかけさせられているため、否応なく人身御供の選択をしないわけにいかないわけです(そこまでのガールミーツボーイが弱いせいでもありそうですが...。)。ただ、どちらも死者数の規模は違えど自然災害としては本来同じ事なわけです。しかし、今作では前述したように「コントロールできるもの」である上に、それが前代の要石で継続的に防止できるものになっているために、日本を守るための人身御供の継承の立ち位置が曖昧になってると思いました。だから、それを放棄するという「天気の子」の方向に振り切る事もできず、かといって人身御供の選択をしていく事の選択もしないという、ギャルゲーのルート選択的には大分ズルい展開になっているなぁと思いました。
しかも、そこがズルいだけではなくて、「じゃあ猫の立場はどうなるんだよ!」と思いました。この物語の設定から考えるに、あの猫というのは前代の人身御供として要石になった人間なんですよね?多分。喋り方から考えると、下手すると子供なのかなぁとか、単に子供受けのために可愛い喋り方なのかなぁとか考えていました。あの猫は要石から一度は解放されて、(物語上は鈴芽たちを東京まで導くための仕掛けではあるものの)自由を再び手に入れたわけじゃないですか。あの猫にはあの猫の人格?猫格?があるわけで主張がありますよね?つまり、キャラクターなわけです。そのキャラクターに物語の設定上、再び要石としての責務を引き受けさせるというのはかなり残酷なのではないか?と思いました。主人公たちが自分達の意志の元、要石の責務を放棄しようとしてるが故に余計「猫の立場はどうなるんだよ」と思ってしまいました。
◯まとめ-今作で一番恐ろしい事
全体にツッコミを入れまくってますが、観てる分には「流石」という感じで、面白く観れる作品ではあると思いました。地震描写には人によって意見がやはり分かれるとは思いますが。
ただ、勿論地震は恐ろしいのですが、私が一番恐ろしいと思ったのは、宮城へ鈴芽が幼少期の頃入った扉を探しに行くシーンでした。実際行った所、扉はあったわけですが。10年です。あの日から10年、あの扉は何事もなく存在していたという事なわけです。これほどに改修が遅いという事実には、改めて恐ろしいものを感じました。勿論、これは自然災害が強大だったから、だけが理由ではないでしょう。これは忘れないようにしていくべき記憶であり、早く修繕されるべきものなはずです。正にタイトルになっているように、ちゃんとどの記憶も実害も戸締まりをしていかなければいけないんです。そこのテーマに関しては、震災を扱った作品としてはファンタジーになってしまって寓話的ではありつつも、かなり身につまされるものになっていて良かったと思いました。
では、また。
※追記
◯喧嘩シーン
あそこは本当に良かったですね。近年久々に見たキツい喧嘩シーンでしたね。つい言ってしまった後の「どうしてあんな事を...」と泣き崩れる所までの描写は本当に秀逸で、多分一番好きなシーンでしたね。
◯ラスト
あれ、草太が電車に乗って別れていったけれど、旅費はどうやって返してもらったんだろうか?実は本当は借金踏み倒し犯なのか?w
◯仕事
鈴芽がスナックで働くというシーンは、「千と千尋の神隠し」を思い出しましたね。喋る猫が出てくるから「魔女の宅急便」な感じもしますが、子供が仕事をする、また草太も閉じ師とは別に教師を目指している、といった感じで労働への入門を描くというのには、宮崎駿じゃあないですが責任感があるんですかね。
※追追記
色々考えた結果、星4はないな...。
前提の感想は変わらないのだけれど、やっぱり無理矢理な所が多いし。
そもそも新海誠監督は物語や人物のバックグラウンドのディテールを描くよりも背景やアニメーションによる情動の表現が上手いのだから、変にファンタジーをやらないで、リアルな方に注力した方が作品としては観た事ないものになって良かったんじゃないか?と思ってしまいますね。
次は、ジブリっぽい感じは3部作で切り上げて、日常ものをやってほしいですね。そういうやり方でも、今回のようなテーマを扱う事はできると思いますし。
RADWIMPS色が少ない作品でしたが、見て損のない作品です!
『君の名は。』、『天気の子』に比べると、RADWIMPS色の少ない作品で、
音楽が物語に与える影響が少なかったかと。
作品7:音楽3ってとこかな。
(『君の名は。』は、5:5。『天気の子』が、4:6。
ってとこかな)
主人公(鈴芽)の声が、
キャラクターの見た目(身長など)と
合ってなかったような気がしました。
特に冒頭は、キーーンっと変に際立ってしまってたかと。
所々で、
あのイギリスファンタジー小説のようなシーンや
兄弟が旅する国内マンガのようなシーンが。
さぁ~て、
2回目の観賞前に小説の方を読まなくっちゃ!
ダイジンって、
やはり【大臣】から来てるんですよね?
劇中でのセリフが、
うまく脳内で漢字変換できなくて【大尽】が浮かんでしまって。
モデルは、白豆と呼ばれていた右大臣三条実美かしら。
すずめさん、日本を救う
冒頭、九州弁が行き交う教室の中でただ一人標準語を操る少女。山と海に囲まれた宮崎の田舎町で、なぜ彼女だけが標準語なのか?この些細で丁寧でなおかつ巧妙な違和感を種火に、物語は地理の横軸と歴史の縦軸を繊細かつダイナミックに往還する壮大無比なファンタジック・ロードムービーへと展開されていく。
草太や鈴芽が行う「みみず」の封印作業(=「戸締まり」)は、言うまでもなく地理からも歴史からも忘れ去られた人々の鎮魂に他ならない。草太と鈴芽は「みみず」の噴出する扉に身体を預け、そこにあったはずの無数の声を聴く。そうすることによって声たちは美しい雨粒へと浄化され、街一帯に降り注ぐ。ここで破壊や抑圧といった暴力的手段に訴え出ないのが偉い。
さて、「みみず」を地震のメタファーとして用いる作品といえば、新海が敬愛してやまない村上春樹の『かえるくん、東京を救う』が真っ先に想起される。『かえるくん』もまた阪神・淡路大震災への鎮魂という射程を明確に持って執筆された作品だ。本作は「かえるくん」が「閉じ師」に、「阪神・淡路大震災」が「東日本大震災」にそれぞれスライドした「みみず」鎮魂物語の再演だといえる。
本作では今までのように村上の滑らかで感傷的な語り口だけを体裁よく取り込んでいた新海作品(『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』など)とは異なり、村上春樹の抱いていた文学的使命がダイレクトに継承されている。身が引き裂かれるような惨事に直面したとき、文芸にはいったい何ができるのか?文芸を成す者として何をすべきなのか?阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件を契機にデタッチメントからコミットメントへと作風を大きく転換した村上春樹の懊悩と決意を、本作において新海はきわめて実直に受け継いでいる。
たとえば彼は劇中で幾度となくあの忌々しい災害アラートを鳴り響かせた。人によっては二度と聴きたくないであろうあの音を。しかしそれは物語をとりとめもない空想として雲散霧消させないためだ。大地震を「みみず」に置き換えたうえ、その接近を知らせる警鐘までもをメタファーに置き換えてしまえば、物語は単なる観念の遊戯以上の射程を持ち得ない。それゆえ、空想の遠心力に現実の求心力を吊り合わせるためにも、実際の災害アラートを繰り返し鳴り響かせたことには大きな意義と必然性があると私は考える。
ただ、そうはいっても当事者でない一介のクリエイターや我々観客が、東日本大震災とその被災者というセンシティビティに留保なくコミットすることはできない。新海もその辺りはよく理解しており、それゆえに芹澤という不思議なキャラクターが存在する。芹澤は劇中でしつこいくらい良心的人物であることが強調されるが、そんな彼が東北のかつて市街だった東北の草原を見て「このあたりってこんなに綺麗だったんだな」というグロテスクな所感を漏らす。どれだけ良心があっても、どれだけ細心の注意を払っても、当事者の心の深淵に直接触れることは決してできないのだという新海自身の自戒にも似た線引きが、芹澤というキャラクターを介して行われている。
さて、空想世界から現実世界への転向という点に関連して、彼は今や完全にセカイ系の呪縛を脱したと考えてよいと思った。新海誠といえば『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』と並び立つセカイ系の代表作『ほしのこえ』の制作者であり、それ以降も「ぼく-君」の閉ざされた関係の中で成り立つ自涜的な作品を乱発していた。しかし『君の名は。』を境に、彼は明らかにセカイ系の不健全な自閉性から逃れ出ようもがきはじめる。セカイ系の元牽引者である彼にとっては、それは自分自身を真っ向から否定する絶望的営為に他ならない。それでも彼は苦闘を続け、『天気の子』では遂に「セカイ」側による「ぼく-君」的自閉性の無効化を達成した。
帆高と陽菜が自分たちの愛を優先したことで東京は永遠に雨の止まない街(=ある種の終末世界)に変貌してしまった。しかしそこには絶えず無数の人々がいて、無数の生活を営み続けていた。過度な感傷に浸る「ぼく」と「君」に対して、「お前らの愛がなんだ?お前らなんかいてもいなくても俺たちの人生は続いていくんだぜ」と冷静に諭してやった。それが『天気の子』という映画だ。
そして本作ではさらにその先の倫理が描かれている。物語終盤、鈴芽は鎮魂の最終段階として、自らも母親を喪った東日本の故郷へと向かう。鈴芽は帆高と同様に、世界の命運or個人的な愛のトレードオフに直面させられ、最終的に後者を選択する。それによって要石を解かれた「みみず」は常世を抜けて現世に現れようとするが、鈴芽と草太がこれを食い止める。このときの草太の叫びはきわめてクリティカルだ。
いつか死ぬとわかっていても、それでも一分一秒でも長く生きていたい。生き続けていたい…
無念と後悔の中で命を断たれた無数の声に耳を傾け続けてきた彼だからこそ、自分自身も「要石化」という形で死を経験した彼だからこそ、その願いはことさら痛切な響きを帯びる。どちらを選ぶべきかというアポリアを、ただ生きたい、生き続けていたいという強い願いが圧倒する。それは「草太の死」か「世界の破滅」かという二者択一そのものを貫通し、一切合切を躍動的な生へと突き上げる。「みみず」は鎮魂され、鈴芽と草太は現実世界に帰還を遂げる。
留意すべきはこの「生きたい」が、「(誰もが)生きていてほしい」という外向きのベクトルを併せ持っているということだ。「戸締まり」と日本縦断の旅を経て、二人は他者というものの重みを知った。そして他ならぬ他者によって自己の存在が定立されているということも。鈴芽は東日本大震災によって母を喪ったトラウマを今なお根強く抱いているし、草太は鈴芽がいたからこそ「要石化」=死の呪縛から逃れ出ることができた。あるいは二人が「みみず」の内側で聴いた無数の「行ってきます」と「行ってらっしゃい」。それらは「おかえり」「ただいま」という応答を迎えられないまま途絶し、ゆえに「みみず」に姿を変えて暴れ回っている。したがって彼らの「生きたい」には「生きていてほしい」という他者への祈りが不可避に含まれているといえる。
自己を開き、他者世界と積極的に関わっていくこと。それはちょうどセカイ系の「ぼく」と「君」が閉じられた世界の中で己の自意識に終始していることの裏返しだ。
新海誠のこうした自己反省のダイナミズムは、我々に以下のようなことを示唆してくれる。それは、自分の過ちや後悔を振り返り、見つめ直し、再練する機会は万人に平等に開かれているということだ。そういった意味では本作の鈴芽と新海誠には少なからず重なる部分がある。鈴芽は事情を知らないとはいえ他ならぬ自分の手によって「扉」を開いてしまい、それによって現世に「みみず」が解き放たれた。鈴芽は自分の過ちを深く後悔する。しかしそんな彼女の後悔に対し、物語は「戸締まり」の旅という反省の道筋を優しく示す。
近年では加害者と被害者の関係性において加害者を極端に矮小化する言説をよく見かける。要するに「いじめた側には何も言う権利はない」みたいなやつだ。ただ、そうやって反省の契機さえ奪われた加害者が向かうのは自罰の究極形としての死か、あるいは逆ギレ的な憎悪の発散しかない。それゆえ新海は問う。「それが本当に正しいことなのか?」と。これはともすれば「いじめられる奴にも原因がある(だから加害者を許せ)」的な傲慢にも取られかねない危ういものだ。しかし他ならぬ新海自身がセカイ系から他者との関係へと真摯な更生劇を演じた元罪人だったからこそ、この言説は信用に足る処方箋として我々を治癒してくれる。
さて、新海誠の反省の旅はいったいどこまで続くのだろうか?次は何を相手取って乗り越えてくれるのか。彼の創作的葛藤の痕跡をこれからも辿り続けたいと思う。
ストーリーが頭に入らない
正直、ガッカリしました
緻密な心理描写を描いていた頃の作品を作るつもりはないのかも
大味で映画を楽しみたい方には向いていると思いますが、、、
<よかった点>
・風景描写はやはり監督のお手のもの。綺麗でした。
・よくも悪くも、物語の起承転結がはっきりしているので、飲み込みやすい作品だと思います
・性的にきわどい描写もないのでデートだったり、家族で行っても嫌な思いをしないでしょう
<残念な点>
・主人公以外の登場人物の設定や心情に関する描写が極めて弱く、どういう行動原理でそうなっているのかがわからなかった。
そのため、考えてしまい、メインのストーリーに集中することができなかった。
・新海誠監督は、本来は心理描写が巧みな監督だと思っていたけど、少し変わってしまったのかもしれない…登場人物にあまり魅力を感じませんでした
・自然災害の神秘性、田舎と都市の対比、女子高生…過去数作で見覚えのある感じだなと感じました。はっきり言って新しさがない。
この映画とは関係ありませんが、金曜夜の都会の映画館はマナーがなってない方が多かったので、気になる方はお勧めできません。
空想的超現実な夢の交錯
最後は震災に対しての追悼的な内容が、あまりにも生々しくそれまでの涙誘うシーンが完全な絵空事になってしまい色々とは語れる感じではなくなりましたが、登場人物は皆親しみ覚えるキャラでストーリーの主題も展開もとても興味深く引き込まれ見応えありました。
追記
ストーリーは勿論のこと設備の違いによる音響も確認したかったので3回見ましたがやはり震災との関係性が収まり所の無い存在になっている。純粋で真剣に本気で作られた作品だと思いますが、真にこの状況にあられる方のお気持ちを考えずにはいられません。
慰めや癒しや希望を確かに必要としているかもしれませんが、モラルとして踏み込んではいけない境界線への配慮に欠けているとも思えてしまいます。
個人的には完全な無力さで遠くからひとつの人生を尊重し慈しみ敬う事しか出来ません。
計り知れないその方の体験や気持ちや痛みは永い一生を掛けてその生活の中で修復し慰められ時には何か意味を見いだしたりしながら完結に向かうのであって一本の映画での感傷的な泣く又は泣かすいう行為自体、失礼で不道徳とさえ思えてしまう。
すずめと叔母の関係性はとっても人の心情の機微に共鳴し揺さぶりグッと来る。
はまらず
薄い
3.11東日本大震災?
描写が軽すぎる。現地の映像化は良いとして、どれだけの方にレポートしたのだろう?
友人があのような子どもたちをケアしてるが、一番最後に言葉だけで救われるそんな簡単な話ではない。
何を伝えたいのだろう?
3.11を知らない方、客観的に見れる方は楽しいのでしょう。
まだまだ福島も復興途中ですし、軽い気持ちで聖地巡礼などしないで欲しい。
意外なつまらなさに驚愕。過度の期待は禁物。
公開初日、早朝に鑑賞。前作『天気の子』も初日の朝に観ましたが、あの時は観客がギッシリと埋まっていて、凄い人気だった記憶があります。それと比較すると、本作は意外と空席が多めでした。
忖度無しに正直な感想を言うと、自分には余り響かない、つまらない映画でした。『君の名は』や『天気の子』の大ヒット作は、自分の好みでは無かったものの、映像美や娯楽性の高さの点で、それなりに楽しめたし、世間で大ヒットした事も納得の出来る作品でした。しかし、本作に関しては、映像美は良いのだけど、内容は、うーん・・・褒めたくなる要素が思った以上に少な過ぎて、手離しで絶賛出来るような代物では無かった。観ていて色んな疑問点ばかりが頭に浮かび、なかなか映像世界に入り込めない。幾つか面白い場面もありましたが、全体にどうも受け入れられないものを感じ、また不快に感じる場面も少なからず。作り手が何を伝えたいかという、映画において重要なメッセージ性自体が余り感じられなかったのが最大の難点で、感動する事も無く、私にはダメダメ映画でした。
キャラクターに感情移入しづらく、恋愛の描き方にも薄いものを感じます。主人公「すずめ」が、すれ違った後に少し関わっただけの赤の他人「草太」をまるで昔から深い付き合いの恋人くらいのレベルで必死に追いかけていく理由が分かりづらい。
説明不足のまま、どんどん勝手に進行していって、観客を置いてけぼりにする急展開もキツいというか、脚本作りの段階で、誰か助言をする人が必要だったんでは・・・、とも感じます。心をグッとつかまれるような名場面も余り無く、2時間が普段以上に長く感じ、最後まで観続けるのに気力を必要としてしまい、観終えた後の疲れがハンパない。
各地の鍵穴を閉じて回る設定が『キングダムハーツ』のパクリだとか、ジブリ作品のパクリが多いとか、既視感あり過ぎという見方もあるようですが、もしかすると新海監督は過去の大ヒット2作品の後、期待され過ぎた重圧に押し潰されて、自分で本当に描きたいものが何なのかが、分からなくなっているのかもしれません。
映画が終了後、客席全体を観察すると、明らかに満足してなさそうな暗い表情の人が多く、疲労感が漂ってる印象。ここのサイトでは嘘みたいに褒めちぎりの絶賛レビューが多くて驚きますが、実際の現場ではかなり白けた空気が漂っていて、場外に出る際、「何か中途半端な感じだったなー」と2人で来ていた若者がボソッと静かに言う会話も聞こえてきました。今年は映画館に180回以上行きましたが、これは今年観たマイベスト映画の100位にすら入れられません。
3.11震災が題材になってる映画なのですが、ああいうリアルでデリケートな問題をこういうファンタジー要素多めの映画にして、ああいうラスト・シーンにしてしまう事自体、何だかな~と、こういう事やっちゃっていいのかなと。震災の被害に遭われた人達がこの映画を観たら、余り心地良いものではないですね。思い出したくない悲惨な過去を反復させられて、映画の内容とは全く関係の無いところで、悪い意味での感情が揺さぶられる、そっちの面の方が多くなる気がする。こういう作風には余り共感出来ない自分がいます。
親しい人にオススメ出来る映画かと言えば、これはもうオススメなんて絶対に無理。これをオススメしたら、「映像が綺麗で、キャラも可愛かったけど・・・正直微妙だった」とか言われる可能性があります。
外国人としての感想
初めて日本での映画。新海誠監督の映画はわたしの国でもすごく有名だから友達と一緒に見に行った。
君の名はや天気の子みたいな純正ラブストーリーと違って、観たあとは一緒に長い旅をした感じがした。「母はなくした」と言ったけれど具体的にわからないが、そのノート上の数字を見たはしめてわたしはわかった。この旅はただ九州から東北までではなく、生きているわたしたちや災いで命を失った人々の距離ほどの長い旅だ。この長い旅をした自分は、「わたしは生きている」という「当たり前」のことを、もう一度考え直させられた。
幸いに、最後で主人公は大事な家族と仲直りてきた、好きな人も救い出した、何回も災いを止めた、昔の自分を慰めた、そしてそのすべてのことで、自分の成長を成し遂げた、本当に素晴らしい結局だと思う。画面もいつも通り美しい、音楽も素敵、ストリートも好みのタイプ、(個人見ると)満点に違いない。
千と千尋を思い出す
新海誠の映画が本作でついに東日本大震災という現実の出来事に深く切りこむことになりました。
一つの町全体を破壊する隕石落下、都市を水没させる長雨……。近年、架空の自然災害を一貫して描いてきた新海誠の映画が本作でついに東日本大震災という現実の出来事に深く切りこむことになりました。
本作の大きなテーマは、滅び失われていくことを受けとめ、悼むこと。その点『君の名は。』でも災害を扱ってはいましたが、本作と大きな違いは、まだ災いを止めようとしていただけで、災い自体は受けとめていませんでした。『天気の子』では災いを受けとめるのですが、災害が起こってしまったことを認めるまででした。けれども本作では、災害によって登場人物にとって大切な誰かが亡くなってしった哀しみをに前面的に共感して、元に悼むことに初めて到達したのです。ただ東日本大震災というとてつもない哀しみを受け入れ、悼むことは新海監督にとってとても辛く、またそれを描くことに自信がなく、暗中模索してきたのです。それはまるで『喪の作業』といわれる、4つの段階つまり『無感覚』・『否認』・『絶望』・『再建』という各ステップを踏まなければ、次の段階へ進めないという大変時間がかかるこころの変遷が必要だったのです。
しかし既に若い世代には震災を知らない震災以降に誕生した世代が増えてきて、危機感を感じた新海監督はも今のうちに、この映画を作らなければいけないという使命感をもって生み出したのが本作です。
本作の大きな特徴は、これまで多用してきた自分語りのナレーションを封じ、主人公の鈴芽には彼方からの声に耳を傾ける役目を負わせていることです。そこには今までとは決定的に異なる果敢な挑戦を見てとることができました。
また本作では一段とアクションシーンの連続で、エンターテインメントの度合いが格段に上がったといえることでしょう。とにかく今度のヒロインは走ります!空も駆けます! 新海監督ならではの精緻で美しい背景はそのままで、しっかり泣かせてもくれます。期待を裏切らない出来上がりでした。RADWIMPSと陣内一真の音楽が、物語をさらに盛り上げてくれました。
九州の静かな町で暮らす17歳の女子高校生の岩戸鈴芽(声・原菜乃華)。彼女はある日の登校中に日本中の廃墟にある「後ろ戸」を閉じる旅をしている青年・宗像草太(声・松村北斗)に出会います。彼の後を追って山中の廃墟で見つけたのはある一つの扉でした。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばします。そこ扉の向こうにあったのは広い草原と、全ての時間が混ざりあった空があったのです。
実は草太は各地の廃虚にある扉に鍵をかけることを代々家業として親から受け継いだ「閉じ師」でした。
その後二人の前に人間の言葉を話す謎の白い猫、ダイジン(声・山根あん)が現れ「お前は、邪魔」と話した瞬間、草太は鈴芽がまだ幼い頃に使っていた3本脚のイスに変えられてしまうのです。
日本各地に点在するこの世ならざる世界に通じる「後ろ戸」。その扉の綻びからはパンドラの箱のごとく「ミミズ」という、赤黒い渦巻きがこちらの世界に侵入し大地震をひき起こしていました。その扉を閉じて地震を未然に防ぐことが「閉じ師」の使命でした。
そして日本各地でこの「災いの扉」が開き始めます。「後ろ戸」があいてしまい「ミミズ」が登場する廃墟には必ずダイジンがいたのでした。逃げ出したダイジンを捜し、愛媛や神戸、さらに東京へと“2人”の後ろ戸を閉める日本縦断の旅が始まります。
それは鈴芽にとって、大災害を未然に防ぐことばかりでなく、4歳の時に震災に遭ったとき、忘れてしまっていた大切な記憶を取り戻す、こころの旅ともなっていたのです。
かつて温泉街だった最初の廃虚、水たまりの上、光のきらめきの中に立つ扉が鮮烈でした。さらには陽光の輝き、街の明かり。穏やかで美しい風景描写が広がります。
鈴芽はいきなり、扉から出てくる災いの奔流に巻き込まれます。ダイジンを追う先々で扉は現れ、スペクタクルシーンが次々と展開するのです。その中で、彼女の成長が物語の縦軸となっていきました。旅では同世代の女子高生や子育て中の母親、死期の迫る老人と出会います。人生をたどるような道行きで、鈴芽は大人になっています。「スタジオジブリ」のあの作品へのオマージュが象徴的でした。
しかし災い=地震を引き起こす巨大ミミズが「後ろ戸」から出てしまい暴れているにも関わらず、人々にはその怖ろしい姿が肉眼には見えず、気づきません。作中、たびたび発信される緊急地震速報の警報は、「忘れるな」と観客に強く訴えているのでしょうか。
記憶の断絶は、鈴芽の身にものしかかります。
デビュー作「ほしのこえ」から、新海監督は内省的で繊細な少年、少女を多く描いてきました。それに比べて、本作の迷うことなく突き進む鈴芽でも、登場当初は「普通の」ヒロインに見えてしまい、物足りなく感じました。けれどもそうではなかったのです。彼女は震災で母を失い、故郷を離れ。叔母に引き取られた過去を持ちます。根っこを失い、「死ぬのが怖くない」と気持ちをさらけ出しもしますが、終幕、自分の内に隠された記憶に向き合い、再び生き始めるのです。国民的監督として広い期待に応えつつ、新海監督らしさは健在だったと述べておきましょう。仔細は本編で!
最後に、これまでの作品で日本神道との繋がりを臭わせてきた新海監督でした。本作ではかなり直接的に日本神道の神々との繋がりを描いています。例えば一旦開いてしまった「後ろ戸」を閉じることは容易ではなく、扉から出ようとするミミズの圧力には、草太でも力負けしてしまうのです。しかしそれで諦めてしまうわけにはいかない草太は、祝詞を唱えつつ、精神を集中。神さまと一体となって潜在意識下を解放し、「後ろ戸」を閉じてしまうのです。
またスズメの名前の由来は、鳥のスズメではなく、神道の神さまのおひとりである天鈿女命(アメノウズメノミコト)からインスピレーションをもらったとインタピューで答えていました。天鈿女命というのは天照大神が天岩戸に隠れてしまったとき、その前で踊って、岩戸を開かせるきっかけを作った神さまで、芸能の神さまとしても信仰されてきました。そのお名前のウズメからスズメにインスパイアされたそうです。
そして大事なことは、椅子にされてしまった草太に変わって、鈴芽が「後ろ戸」を閉じる役割を担うことになったのです。しかし鈴芽には信仰もなく、祝詞をあげることもできません。その代わり鈴芽は過去の人々の声に耳を澄ませることで、神さまと一体となり「後ろ戸」を閉じれるようになったのです。映画「線は、僕を描く」作品レビューでも指摘しましたが、「過去の人々の声に耳を澄ませること」とは、結局自分の過去で周りからどんなに自らが愛されてきたを思い起こすことにつながります。それは自己処罰の思いを克服し、自信につながるのです。自らを信じられる人は、自分の五感を超えた世界の神さまのお力も素直に入りやすくなるのです。なので特段神道の信仰のない鈴芽でも、神さまの応援が得られたのでした。神さまと一体となることで、人は火事場の馬鹿力を発揮できるようになるわけです。
新海監督は、本作でかなりはっきりと日本神道の神々のお力と、人間一人ひとりに宿る潜在意識下の無限の力を描いたのでした。
足で踏まれたい新海監督とは、うまい酒が呑めそう
川村元気氏と新海誠監督は、鈴木敏夫氏と宮崎駿監督の関係になるでしょうか。ジブリや細田監督がイマイチな中で唯一、期待を一身に背負わせての新作です。ただ新海監督も上記2名に違わずワリと振れ幅がある監督なので、関係者もヒッソリと心配はしてたかも? 川村氏を除いて。
映像/ビジュアルはもう何も言う事ありません。アニメ映画界では、現時点で最も彩度と質感を出せる監督ではないでしょうか。そして良く動く動画、しかもかなり自然に、それでいて面白く動かせるしシリアスにも動かせる。音響も然り、それもこれも資金とリソースの為せる技でしょうが、現代アニメ映画ではトップクラスです。
中の人も、今回はあまり違和感なし(一部やりすぎ・大袈裟感もありつつ)で、色んな大人の事情をも背負い込んだワリには、ほぼほぼ良好な仕上がりかと。それとも新海監督、一目置かれてダメ出しとかシッカリ出来たのかな?w
これだけ上々の仕上がりを持ってすれば、〝不自然〟〝ご都合〟〝あり得ない〟等のアレコレは凌駕され気にならなくなります。それが良作の良作たる所以です。
そんな概ね〝パーペキ〟な作品でも、気になる部分は幾つかあります。
まずスズメがソウタにアレする切っ掛けが結構チョロい気がします。若い男女の色恋なんて実際そんなモンかも知れませんが、アニメ作品とは言えソレを安直にピコーン♡とやるのは些か短絡的ですし、そもそもソウタは作品通して長いこと椅子でしたし。
また、ダイジンこと白猫の素行がイヤにカワイくない事もマイナスでした。自分だけかもですがイラッとするシーンとかあり、何か意図があったのかも知れませんが。なので後のショボクレ加減にも悲壮感を感じませんでした。
あとはオマージュと言うか、他監督作品での既視感のあるシーンがチラホラ‥‥
ところで昭和歌謡懐メロはどうなんでしょう? 当然知ってる曲ばかりですが個人的にはあまりピンと来ませんでした‥‥
ただ新海監督の趣味趣向によるものか、自分みたいな二次元ヲタが抱く〝理想の女子、かくありき〟なキャラを毎作描いてくるので、ミツハと言いスズメと言い魅力的だった、てのがワリと本作品の評価を押し上げる気がします。
でも新海監督は『言の葉の庭』がワリと本音路線なのでは?と個人的には分析してます。そんな趣味を今回の作品にもねじ込んでた様な箇所ありましたしwww
とは言え、本作も3桁億の興行収入は間違いないでしょう。自分の住む田舎の映画館でも初日20本回しでしたし、ローソンのキャンペーンに来場特典もドエラく力入ってて、街を上げて新海祭り状態でした。
昭和歌謡版『ストレンジャー・シングス』にさめざめと泣きました
宮崎県の高校生鈴芽は登校途中の坂道で廃墟を探している青年、草太と出会う。彼を追って山上にある廃墟に向かった鈴芽は廃墟の中にたたずむ古い扉を見つける。鈴芽が恐る恐る扉を開けてみると・・・からの妖奇ジュブナイル、といったところでしょうか。
冒頭で物語の行き着く先は暗示され、後は日本各地の廃墟を巡るロードムービーの様相。ロードムービーなので旅先での色んな出会いが物語を軽快に転がします。『天気の子』では生きとし生ける全ての大人に中指を突き出すかのようなテーマが提示されていたので、ボコられる側のアラフィフは肩身の狭い思いを強いられて楽しめませんでしたが、こちらはその真逆。『君の名は。』に立ち返ったかのような瑞々しい恋が電車とフェリーと車の旅で育まれ、子供達と大人達の爽やかな邂逅も描かれます。旅のBGMもアラフィフ向けになっているので、いわば昭和歌謡版『ストレンジャー・シングス』。すなわちクライマックスではビービー泣けます。
神戸出身の身としては予告でチラ見せされていた郷里の扱いが気になるところでしたが、意外なスポットがチョイスされていて驚きました。そして何よりビックリなのは伊藤沙莉が演じる二ノ宮ルミ。いきなりあのハスキーな声で登場、彼女が口にするセリフで神戸出身者は郷愁を激しく揺さぶられてもれなく泣くことになると思います。伊藤沙莉、最強です。
声優陣は皆素晴らしいですがやはり主演の原菜乃華と松村北斗の凛とした声は格別。そして主題歌『すずめ』の十明の歌声も身震いするほど美しい。ただRADWINPSの他の曲はパッとしないというか、もう『天気の子』で既に正直聴き飽きた感ありなので、次回作では他のアーティストを起用して欲しいです。
観る価値ありだけど、少し人を選ぶかも?
わりと好評価だったのもあって、IMAXで鑑賞。君の名はも天気の子もどちらもは上映日に観てましたが、少し熱も冷めてたので今回はどうしようかと思ってましたが、レイトショーのIMAXが空いてたので鑑賞。
結果は大満足でした。
君の名はと天気の子とはちょっとテイストの違った物語展開でした。男女2人の物語っていうところは共通だけど、今回は今までの2作品と比べると冒険色が強いのと、刺激も強め。震災を経験していない自分でも当時のニュースとかで観た映像を思い出し、胸がざわつきましたので、経験された方は少し覚悟を持ってみないとおそらく辛い気持ちになると思います。
ここ最近の新海誠作品ってあの世とこの世だったり、日本の昔話とか神話とか、そういうのを元ネタに使ってるようで今回もその流れは同じ。あとは挿入歌の入れ方とかセリフの言い回しとか、そこは新海誠色が今回も出てたので、そう言った点で今までと一緒じゃんって感じる方はいると思いますが、物語としては今までの2作品とはちょっと違った、万人受けはしないかもしれない、ちょっと重めの内容になってます。ただ、この国に住んでる以上誰もが経験するかもしれないことなのでちょっとそこは考えさせられました。
そして今回も様々な地域が出てきます。プチ日本列島縦断の旅で、地元だったり住んでた場所が出てくるとやっぱり胸が熱くなりますね。景色は本当にそっくりそのまま!あ、ここはもしかして!っというところがたくさん出てくるので、転勤族の方とかはそういった違う楽しみ方もできるかも。
最後に見終わって言えることは、明日から、行ってきますとただいまは毎日言おうと思いました。
基本エンタメですが、一部リアルな重さを持つ作品。
新海監督の新作との事で鑑賞。
面白いは面白いのですが、一部評価割れそうな雰囲気もある作品でした。
良かったところとして、ヒロインかつ主人公のすずめがとても魅力的です。
声優さんの演技をはじめ、リアクションやら動きやらで魅せてきます。
キャラ同士の掛け合い等楽しいシーン等も多く、退屈しないで観れるのも良き。
また、新海作品の例に漏れずビジュアル的な綺麗さも健在です。
気になったところは二つあり、一つはストーリー展開の若干の強引さ。
一部キャラの行動に対する説明が不足しているのか行動の説得力が薄く、
脚本ありきでキャラが動かされている様な感じてしまい、若干の違和感が残ります。
もう一つは中盤~終盤の展開について。
宣伝では色々と完全に伏せられている中でのこのストーリー展開は中々挑戦的。
殆どの人は大丈夫でしょうがダメージを負う人もそこそこ多そうな印象です。
今作はエンタメ一辺倒ではなく色んな意味で重いシリアスな面も持つ作品ですので、
「君の名は」の様なエンタメ感を期待すると期待外れな感じもあるかもですが、
そういった面も含めて楽しめる方であればお勧めできる作品だと思います。
全1260件中、1121~1140件目を表示