「新海映画の真髄をひしひしと、かつ、力強く感じ、個々の生涯を担い想う作品」すずめの戸締まり Komoriさんの映画レビュー(感想・評価)
新海映画の真髄をひしひしと、かつ、力強く感じ、個々の生涯を担い想う作品
レビューと感想です。
ストーリーもグラフィックも綺麗で非常に良くできた作品であると感じた。自分が鑑賞した時の心境にもよるが、とても共感深く感動した。草太が要石として人柱になるなか、クライマックスでその草太に代わり、前要石のダイジンが要石に戻るシーンにおいて、ストーリーとして草太が人に戻り、現世に帰還することに感動があるが、やはりダイジンが自分を犠牲にしてでも、またすずめのためにでも、要石としての役目を全うした点において、この映画最大の悲しみを涙とともに味わった。
かつては多くの人に祀られていたダイジンも、数100年の歴史の中で徐々に忘れ去られていき、そんな中声をかけてくれた、そして孤独から解放してくれた鈴芽に嫌われてしまったことはとてもショックであろう。しかし、そんな中、好きな鈴芽は好きな草太のために自分を犠牲にしてでも要石になろうと決意したことに影響を受け、ダイジンが本来の役職に戻ろうと決意したシーン、鈴芽の手で元に戻してほしいというセリフは、ダイジンの覚悟と、好きな鈴芽への甘えであると感じると、ダイジンの赤子ながらも孤独に耐え、役目をまっとうしてきた忘れ去られていた期間の心情を思うことができるのかもしれない。これからは新たな閉じ師たちの歴史と共に、要石も祀られ、人々の信仰とともに孤独から解放されてほしいと感じた。
また、なぜ宮崎から東京に向けて順々に後ろ戸が開いていくのかを考えてみると、東京の要石が抜け、また草太が要石でなくなったことも考えると、西と東の要石が抜けている状態でなければ要石を挿すことが、できないのではないかと感じた。このように考察の幅が広がる点やストーリーと描写の広大さという点において、また、大神など日本神話や古典文学などにインスパイアされている点、新海映画の真髄を感じることができる。
時代は場所と共に移り変わり、過去に繁栄したところは現在衰退し、現在繁栄しているところでも未来では衰退しているかもしれない。そんな繁栄と衰退を繰り返し時代が巡り、衰退により忘れられてしまう存在もある。この作品ではそこで後ろ戸が開いてしまい、人々の想いを込めて神様にお返しすることで、忘れられた存在として出なく、人々の心と共にあり続けることができている。私たちが生きる今は、そんな人々の心と共に、繁栄し、衰退を繰り返し、隣り合わせの死に対し、生として抗い続けているのだと感じた。今一刻でも生きながられたいと言う祝詞のように、愛するもののために、また、何かのためにでも、死の恐怖に抗い、生き続けることこそが、災いや時代の移り変わりに対して生き続けることであると感じる。
実際の東日本大震災当時、震災は昼間に起きたことから、多くの人が劇中のように「いってきます」、「いってらっしゃい」を最後に被災した。「ただいま」、「おかえり」を言うことが叶わなかった人たちがおり、移り行く時代、忘れられてしまった存在を描くこの作品において、震災から10年以上経過した現在、この作品のを「おかえり」、「ただいま」で締めくくることに、監督の、映画としての、忘れてはならない、時代の移り変わりのメッセージを強く感じられた。鈴芽の目に映し出された常世のように、被災された方々の記憶には痛々しく、また強々と残る震災ではあるが、実際に被災しなかった人たちの記憶からは忘れられてしまっている。そんな中、鈴芽という被災した主人公と、時代の移り変わりを作品で示し、時代の繁栄衰退と記憶のあり方を強く示していたと感じる。
また、ダイジンやサダイジンのように、陰陽のようにダイジンは行く先々で福をもたらし、サダイジンは暴露を行うことで、鈴芽と環さんの関係も良くなり、結果的に福をもたらすという、神様として、直接的な描写でなく、間接的に神様を示している。監督の専攻でもある国文学を、日本神話を用いて映画に融合させ、神様と、自然と、災いと、私たち人間が時代に適応し生き抗うメッセージを作品として、強く感じるものであった。加えて鈴芽が決意し、草太の家から御茶ノ水駅に向けて歩き向かうシーンのように、描写を斜めにして移すことで、坂道を登っていくような描き方をしており、このようなさりげない表現が多く作品に取り込まれており印象的であった。
新海映画の真髄をひしひしと、かつ、力強く感じ、個々の生涯を担い想う作品であった。
2023/5/19 TOHOシネマズ新宿にて(戸締り上映)
2023/9/26 TOHOシネマズ新宿にて(おかえり上映)
2023/9/28 109シネマズ二子玉川にて(おかえり上映)
2023/9/29 109シネマズ二子玉川にて(おかえり上映)