「ダイジンをなぜ猫にしたのか」すずめの戸締まり たんこさんの映画レビュー(感想・評価)
ダイジンをなぜ猫にしたのか
どうしても私見を述べて、近い意見の方がいたら「そうそう」とうなづいてもらいたいと思い初投稿です。長いですがお付き合い頂ければ嬉しいです。
この映画「すずめの戸締り」
素晴らしい!から駄作、まで感想の幅も広く、それだけ皆の感性や気持ちを刺激し、たくさんの問いかけがあり、考察させてしまう作品であることは間違いないと思います。
前置きが長くなりましたが、
もしテストで「映画を観たことのない人のために、監督が最も伝えたかったことを50字以内でまとめよ」と出題されたら、私なら
東日本大震災で母親を亡くした子どもに、成長したその子自身が「大丈夫」と伝えることで自分を救う物語 (48字)
と、まとめます。物語の内容ではなく、骨子なので、このようにしました。
しかし、物語構成要素が他にたくさんあって、というかありすぎて、観客の頭がぐるぐるしてしまい、また、それらの物語要素ひとつひとつに説明がない(あっても少ない)ので、いったい物語の最も太い屋台骨はなにか? をはじめとして、観ている側にはたくさんの疑問点が出てきます。なので、私の五十文字以内まとめとは違う内容を選ぶかたもいらっしゃると思います。
映画は観ている側に委ねる、考えさせるものでもあると思うので、それでいいと思います。監督の最も伝えたいこと、それも受け手によって変わってくる、それもいいと思います。
が、それにしてもかなりモヤモヤ度がデカい。
その中でも私の一番のモヤモヤは、以下のような事です。
ダイジンという役を猫で表現したのがエグい。
要石に戻りたくない、要石から解放して「うちの子になる?」と受け入れてくれた(ように見えただけ)鈴芽と居たいから。でも、鈴芽に愛されていないとわかり、誰かが要石にならないといけなくて、愛する鈴芽は椅子の代わりに自分が要石になると言ってる、だから自分(猫)が要石に戻る。
...このダイジンが人間の大人の姿だったら、もう少しモヤモヤが少ないのにな、と思った。子猫に、報われない愛と自己犠牲を表現させるのは、モヤモヤする。鈴芽と草太を祝福できないのだ。ヒロインを肯定できないまま映画が終わってしまった...
全てが終わって日常に戻った最終場面で、私は、鈴芽が白い弱った野良子猫と出会ってダイジンを思い出し、ああこの子猫をダイジンの代わりに大事に育ててやろう、と決意し、抱っこしているところに草太が現れる...みたいなラストにならないかな〜(なるとは思ってなかったが、希望として)と映画館で思っていた。が、やはり鈴芽と草太の再会だけで映画は終わった。
要石を可愛らしい姿で表現し、自己犠牲させることの意図はなんだったのだろう。草太と同じように若くてイケメンの男性で、鈴芽を想うが報われない、ではダメだったのか。或いは他のブログで拝見した意見だが、江戸時代から生きてるヨボヨボのおじいさん、とか。それにしたって、要石の刺さってる皇居下(だっけ)に向かって手を合わせるくらいしても、いいんじゃないか?
可愛い子猫のほうが、映画ビジネス的に都合がいいからなのだとしたら、モヤモヤ大爆発である。
せめて、ダイジンが愛のために自己犠牲になるのではなく、要石に戻るのはそもそも自分の仕事を全うするためだが、何日か猫の姿に戻れてリフレッシュできたよ〜ありがとね〜またがんばるよ〜、くらいにできなかったのか?
でなければ、草太が自分の家業である閉じ師を全うすべく要石になり、鈴芽は彼を忘れず生きていく、のほうがまだスッキリするのだが...もういっそ、愛と平和のために鈴芽と草太が二人で要石になっちゃうんでもいい。まだそのほうがわかりやすい。そもそも要石を引っこ抜いたのは鈴芽なんだし(マッチポンプという感想さえあった)。
鈴芽の手で猫に戻しておいて、自分の猫にならないかと誘っておきながら都合が悪くなると存在を否定して、自分を愛してくれる猫を自分の好きな男のために犠牲にして思い出しもしない、というのは納得できない。しかもそれは、日本を地震から守るためという大義名分がついているのである。ますます納得いかない。
人がいっぱい死ぬね、とダイジンに言われて(このセリフもかなり賛否の否が多いようだ)草太を要石にせざるを得ないというのは、自分の愛する人より、地震を防ぐ事を選んだ、と解釈できる。
もし、地震より愛する人を選んだ場合、首都圏直下型地震を映画の中で具体的に描くことになってしまい、それはあまりにエグいからできないという、現実的な理由もあるよなぁと思った。
映画を観たあと調べたら、案の定ダイジンのぬいぐるみなどグッズが売られていて、ますます割り切れない思いだった。可愛い猫を登場させたほうが儲かるから、という意図まで勘ぐってしまった。自己犠牲の猫をグッズにして売らないで欲しかった。
しかも、新海誠監督は猫を飼い始めて、名前を鈴芽と椿芽にしたそうではないか。なぜダイジンとサダイジンにしないのか.....
この映画を駄作とまでは思わないし、楽しく鑑賞した。映像美も素晴らしく、さすが新海誠映画だとその点感動した。でも、とにかくダイジンの扱い方、動かし方、結末においては全く納得できず、モヤモヤは膨らむ一方であり、そのために他の重要部分(東日本大震災について、寂れた土地を想い鎮めること、鈴芽の自己救済、鈴芽と環の関係性、鈴芽と草太の恋、芹澤の役目など)は全然考えられなくなっている。
鈴芽とダイジンの関係と、環と鈴芽の関係を対にする考察も多く見たし、なるほど...と思ったのだが、もう長過ぎちゃうのでここでは触れないでおく。ただし、環が鈴芽に発した「うちの子になる?」と、鈴芽がダイジンに発した「うちの子になる?」の重みが違いすぎるのに、対比させることにはどうも違和感がある、ということは記しておきたい。
そして以下は重箱的ツッコミ(笑)
①物語の冒頭、鈴芽が草太を追いかける理由がイマイチ伝わってこない
イケメンだから&どこかで会ったような気がするから、という事だろうけど、それもコミカルな台詞で印象が薄まっちゃって。
②水溜まりの真ん中にある扉まで、ローファーを履いたまま歩いていくだろうか
そこまでするほど扉に惹きつけられているように見えなかったのにな〜的なこともあり、単純に女子高生がそこまでするかな、的な意味もあり。
③なぜ要石を抜いたのだろうか
たまたま目についてなんとなく軽い気持ちで...としか見えなかったけど(なにかもっとありましたっけ?)、ここは物語の全編に関わる部分なのになぁ、という疑問
④会ったばかりの男子が怪我していてイケメンで気になるからと言って、自分の家、自分の部屋にまであげるだろうか
せめて玄関先とかじゃね?
⑤鈴芽の部屋に来たダイジンは、自分が引き抜いた要石が姿を変えて、その手から逃げ出した猫だと、彼女は気づいたのか
気づかずにエサをあげて「うちの子になる?」と致命的な台詞を吐いたのだと認識していますが、どうだったっけ?
草太はすぐに分かったんですよね、だから、要石に戻れと言って、逆に椅子に閉じ込められてしまうんですよね。(合ってる?)
⑥スマホ以外何も持たず、フェリーに乗り込む女子高生がいるだろうか
物語上絶対に必要な流れだし、椅子とダイジンを追いかけてるからしょうがないんだけども、唐突過ぎるというか、無理があるというか、不自然に感じた。スマホがなかったらどうするつもりだったのか...
⑦お金の支払いが全部スマホだけど、鈴芽の口座には一体いくら入っているのか
環さんがお金を管理してるから心配しなくていいのか。それにしたって使い過ぎ...それと、あんなに何でもかんでもスマホ決済できるの?現代社会はすごいな
⑧旅先で会う人々は、なぜあんなに優しくて寝食提供のみならず心の交流まであるのか
これも物語上大事な部分なので、ケチつけないほうがいいのはわかってるんだけど...なんか不自然に感じちゃって。最初に会う旅館の娘も、せめて親にバレないようにかくまう、とかのほうが自然なのでは...
⑨鈴芽が、椅子である草太に座ることは、草太をコミュニケーションの輪に入れることになるのか
お尻を草太に密着させるのって、なんかちょっと恥ずかしくはないのだろうか。
椅子を入れて記念撮影までしてるのも、なんか違和感。
キスすると起きるよ、と聞かされて簡単にキスしてるけど、それもなんか...
お互いに惹かれ合っていくんだなという描写も見えずそんな匂いもしないのに、物語の都合だけで「好きだ!」ってなっちゃってる感じがどうにも否めないんだよねぇ。それに比べるとダイジンが鈴芽を好き!っていうのはなぜか伝わってきたよ。なんでだ?(ハッキリ言ってるからってのもあるけどw)
⑩教員採用試験の二次をすっぽかす事が、自分を粗末に扱うことにつながるのか
この芹澤の台詞は、映画館で配られたスピンオフ小説で出典?が明らかになるもので、草太と芹澤の繋がりを示す大事な台詞ではあるのですが、なんかちょっと、違和感。すっぽかすなんてよっぽど何かあったんだろう、いったいなんなんだ、心配だ!ならまだわかるけど。芹澤が草太を心配してるのはよく伝わってきたから、心配だって台詞はいらないけど、自分を粗末にしすぎる、はなんかヘン。
映画ではわからない部分も多いから、小説版を読んだらいいらしいのですが、それはある意味禁じ手とも考えられるので、映画だけで考えています。
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映画を観た後、家に帰って飼い猫をめちゃくちゃ可愛がって、心の中で「ダイジンごめんよ」と何度もつぶやいたが、同じ事をしてる方がネット上にもいらして、あー同じ気持ちの人いっぱいいるんだろうなぁと思いました(笑)
もう、タイトルを「すずめの戸締り」じゃなく「かわいそうなダイジン」にしちゃえ。
不満点はおっしゃる通りで全体的に駆け足な作品でしたね、
絵が精細な分ギャグシーン(畑に車が突っ込んでドアが落ちて屋根が閉まるところなど)や設定の違和感が浮き彫りになってしまっていたと思います。
共感しすぎて過呼吸気味でこれを書いています。
私は猫が好きですが、これが仮に猫の姿をしていなくても、あんな小さな子に対する言動、態度、背負わせる重荷のえげつなさに心が痛くて痛くて、途中からそれ以外のことを何も感じることができなくなった、非常に残念な作品でした。
何よりもあなたの意見に共感したのが、新海監督が実は猫好きで、飼いはじめた猫の名前がダイジンとサダイジンではなく、「つばめ」と「すずめ」だということへの違和感です。
猫好きなのに、平然とあの表現が出てくることが恐ろしく、本気?と思いました。
名付けについても、ああこの人にとって、ダイジン、サダイジンは決着していて、フォローが必要な相手ではないんだなと感じました。
あまりにも、新海監督と自分の感性がかけ離れていると感じたので、実は見逃している本当の意味とか、すずめからダイジンに対する慈悲やリスペクトの表現がないか、監督自身の思いなどを探したのですが見つけられず仕舞いです。
ずっと心が痛くて消化できないままでいましたが、自分の意見と酷似したあなたの記事を読み、感覚が共有できたことで少し楽になりました。
心から感謝申し上げます。
ありがとうございます。
これは作り話で、かわいそうなダイジンが実在した訳ではないのだから、この映画のことは、もう忘れてしまおうと思います。