「ただよう『AIR』臭はご愛敬。新海誠が三度臨んだ『自然災害エンタメ』決定版! 「人間椅子」もあるでよ!」すずめの戸締まり じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ただよう『AIR』臭はご愛敬。新海誠が三度臨んだ『自然災害エンタメ』決定版! 「人間椅子」もあるでよ!
海辺の街にやってくる草太見て、「国崎かよっ!!」って思ったけど(笑)。
椅子になってひょこひょこ動く草太見て、「国崎かよっ!!」って思ったけど(笑)。
エンタメとしては今年、最強の一本!!
文句なしに面白かった。
アクションとしては、宮崎駿系の空中バトル方面において、圧倒的な仕上がり。
恋愛ものとしては、若干薄味で予定調和ではあるが、勘所を押さえた必要十分の出来。
なにより、頑張る女の子というのは、いつの世にも尊い。
ただ、尊い。とにかく、尊い。
新海誠というのは、意外と珍しい監督だと思う。
だいたい、エンタメ作でメガヒットを飛ばしたアニメ監督というのは、宮崎駿にしても、細田守にしても、原恵一にしても、作るたびに世に問う次回作が「小難しく」「個人的な」作品になっていくのが普通で、だんだんとエンタメとしてはバランスを逸して「癖の強い」作品になっていくものだ(それは、たとえば黒澤明だってそうだ)。
ところが、この人の場合は違う。
『君の名は。』でメガヒットを飛ばして以降、むしろ明らかにエンタメ度をあげてきているし、作品としてのバランスも良くなってきている。「粗がとれて」「相対的な完成度が上がって」「より無心に楽しめる」作りになっている。いや、それを目指して努力して、そう仕上げてきている。
いわば、巨匠性や作家性を前面に出すより、エンタメ性と職人性を磨いて、「期待してくれる観客」に「ただひたすら尽くす」姿勢を敢えて固持しているのだ。
しかも、たいていの監督の場合、ヒット作のあとは、作る映画のジャンルやらノリやらを変えていくのが普通ではないか。
作家として、同じものの焼き直しを作っていると思われるのが耐えられないから。
ところが、新海誠は、『君の名は。』までは、散々いろいろなパターンのアニメ表現を試していたのに、『君の名は。』で大当たりしてからは、二作続けて、敢えて「似たり寄ったり」の作品を送り出してみせた。
ひとりの純真な少女が、まわりのサポートを得ながらも、自らに備わった独自の力で、大規模自然災害の発生に使命感をもって立ち向かう物語。
一度は起きてしまった大災害を知る少女が、二度目のカタストロフィを何とか食い止めて奇跡を起こすことで、自らの心の傷をも乗り越える物語。
同じ苦難に立ち向かってきた男の子と心を通じ合わせることで、会えない距離に隔てられていたはずの関係性を取り戻し、無事再会を果たす話。
基本は、三作とも同じだ。
新海誠という人は、おそらく彼独自の作家性は様々な形で保持しつつも、自分の評判以上に、関わってくれる大量のスタッフやビッグバジェットを用意してくれた映画会社を「裏切らない」ことを第一義に考えて、映画製作を行っているのではないか。
だから彼は、個性を強めるよりも、完成度を高める。
一度当たった「型」は、外すまでは敢えて踏襲する。
エンタメであることを、恐れない。
そういう、より安全で、ウィンウィンで、誰もがハッピーになれる「必勝の方程式」を模索し、目指している。
エンタメとは本来そういうものだろうと言われそうだが、最初に言ったとおり、それを実現できている監督は、ほとんどいない。
でも、新海誠はそれをやっている。
何千人の「この映画に賭けている」関係者たちを食わしていくために、新海は全力全霊で「日本人の危機意識を高め」「同時に日本人のトラウマを癒す」「少女の頑張りに世界の命運のかかった王道のセカイ系映画」を撮り続ける。
僕は、そういう新海誠のあり方を、全面的に支持したいと思う。
『天気の子』は、面白くはあったが、正直バランスの悪い映画だった。
エンタメとしては『君の名は。』より派手で大掛かりになっていたが、町のお祭りや学校行事のために「お天気」乞いをする「軽さ」と、そのために人身御供にならざるを得ないセカイ系の「重さ」のつり合いが完全に破綻していた。「なぜ彼女が巫女なのか?」という「選ばれる理由」の部分でも、適当な神社の言い伝えを引っ張ってきただけで、説得力はほぼ皆無だった。
その点、今回の「すずめの戸締まり」は、全体の世界観の設定に大きな破綻がない。
逆にいえば「よくある」「龍脈と封印の巫女」みたいなお話に立ち帰ったような感じで、多少陳腐な物語設定に堕しているともいえるのかもしれないが、設定に得心が行かないせいで話に集中できないよりは100倍ましだ。
むしろ、
異世界に通じる「扉」と、
それを封印する「鍵」と、
防犯を象徴する「戸締まり」の三題噺として、
この「閉じ師」と「要石」によって「地震」を収めて回るという「天岩戸」の設定を編み出したのだとしたら、それは本当に素晴らしい構成力だと思う。
新海がどうしてもやりたい「日本独自の自然災害への恐怖とトラウマに立ち向かうセカイ系」というテーマに、「少女」が関わってくる理由として、風来坊との恋愛要素を絡めてきたのは大正解だ。
こうして新海誠は、敢えて自分を殺してエンタメに徹している。
一方で、彼はエンタメに徹しながらも、同時に、自らの作家性を存分に発揮している。
だからこそ観客は、新海の「本気」を受け取り、「本気」で愉しんでくれるわけだ。
実際、新海は、やりたいテーマや、描きたい少女像や、本人の性癖に関しては、驚くほど素直に、欲望に忠実に、やりたいようにやってきたし、本作でもやっている。
じつは本作の予告編を最初に観たときに思ったのは、こいつ、何事もないかのように、自分の出自であるエロゲのノリに回帰してやがるな(笑)、ということだった。
この感想の冒頭で述べたとおり、「海辺の街」で「少女」が「年上の」「背の高い」「旅の青年」と出逢うというオープニングは、強くKeyの美少女ゲーム『AIR』のヒロイン神尾観鈴とヒーロー国崎往人の出逢いを想起させるものだ。
鈴芽は観鈴のように病弱でもなければ、重い前世を背負っているわけでもないが、「叔母と二人で」「母子家庭」に近い家庭環境で生きているという設定が完全に被っていることを考えると、新海が『AIR』を意識せずに本作を作ったとは、僕にはとても思えない。
何より、草太が三本脚の「椅子」になって、ひょこひょこ動くという設定が、国崎が法術で動かす人形と、「二巡目のカラス」(詳細は伏す)を思い出させずにはいられない。
草太が「閉じ師」で、ヒロインがそれを助けるという設定も、同じKeyの『Kanon』における川澄舞シナリオの裏返しとも言える。
猫の「ダイジン」も、しゃべったり、巨大化したり、なんか既視感があるなあと思ったら、CIRCUSの『水夏』にでてくる「アルキメデス」および、ほぼ同キャラである『D.C. 〜ダ・カーポ〜』のうたまるだった(笑)。
一方、筋金入りの宮崎駿フォロワーとしての新海誠の部分も隠すことなくむき出しになっていて、重力に抗って展開される空中アクションが、前作から比べても大幅に増量されている。
超巨大ミミズ(地表からの角度で危険度がわかるの秀逸なアイディア!)や、それに立ち向かう巨大獣は、『もののけ姫』のダイダラボッチや「主」のようだし、「ダイジン」の向けてくる純粋無垢な好意と、それと裏腹の善悪を越えた「災害とつながる半神」のイメージは、まるで『崖の上のポニョ』のようだ。
新海誠特有の「性癖」も、しっかり作品に反映されている。
まずは、いたいけな少女と年上のお姉さんの両方に「萌えられる」(=性的に興奮できる)彼の両刀ぶり(だから、『ほしのこえ』や『君の名は。』ではヒロインが先に「齢を取る」)は、鈴芽と叔母の環に振り分けられて充足される。
それから、毎回どの映画でも登場する「濡れたヒロイン」というフェティシズムも、何度も、何度も、充足される(鈴芽も、環も、きちんとびしょ濡れになる)。とくに鈴芽にはお風呂シーンがあるし、着替えシーンもある。
ただし、『君の名は。』で口噛み酒をぶっこんできたり、『天気の子』で敢えてラブホお泊りシーンを挿入して、一部の女性層の強い反発を招いた反省もあってか、いずれの「性癖充足」も、できるだけ毒気の少ない表現に抑えられているのがミソだ。
それでも、ちょっとしたスカートのまとわりつき方とか、ちょっとした足のケガのさせ方とかに新海誠のこだわりはしっかり刻印されている。
ついでにいうと、この映画の最大の見どころは、椅子になった草太が、鈴芽に「座ってもらったり」、鈴芽に「足で踏んでもらったり」する、ご褒美シーンの神々しさにこそある、と僕は同好の士として強く信じている。
そう、新海誠は、真の変態であることを辞めたわけではない。
ただ、その表現の仕方が、じつに洗練されてきているのだ!!
やっていることは、そのまんま江戸川乱歩の『人間椅子』なのだが(笑)、本当に椅子にメタモルフォーゼしているという「無機物化」の魔法を用いることによって、たくみに「性的な気持ち悪さ」から行為の生々しさを遠ざけ、子供でも見られるノリに無毒化している。
このあたり、過去作で叩かれた新海の、渾身の創意工夫とリベンジ魂が垣間見えるとでもいおうか。
鈴芽サイドも、「生々しさ」はきわめて巧妙に回避している。
キスは、椅子にするだけ。
かわりに、彼の「靴」を履き、傷ついた足を守って最終決戦の場に赴く。
そして最後は、ご褒美に彼の上っ張りをかけてもらう。
おお、なんて奥ゆかしいフェティシズム! ビバ新海!
彼にとって、多くの観客が求めるものを作り出すことと、作家性は共存可能なものだ。
誰もが喜んでくれる圧巻のエンターテインメントに仕上げながらも、
自らの設定した問題意識(自然災害と日本)と正面から向き合い、
デビュー以来不変のテーマ(男女の距離から生じるディスコミュニケーション)をも追求し、
同時に自らの性癖にも噓をつかない(少女が好き、お姉さんが好き、濡れてるのが好き)。
僕はそういう新海誠が偉いと思うし、今回の『すずめの戸締まり』は、三回試してきた路線のなかでは、いちばんの王道で、いちばんの仕上がりだと感じている。
今回新たに加わった要素として一番目新しいのは、「ロードムーヴィー」としての旅の描写がある点だと思うが、これとて、単なる新奇な趣向として導入されたわけではない。
『君の名は。』で、日本の田舎の美しさ、『天気の子』で日本の都市の美しさを描いてみせた新海は、本作でその両者を「取り合わせる」ために、「海」と「山」と「都市」を、「旅」という動線で結んでみせたのだ。
あるいは、局所災害がテーマだったこれまでの映画を、九州と四国と神戸と東京と東北を旅で結ぶことによって、「日本全体の災害」がテーマの映画へとふくらませてみせたともいえる。
さらにいえば、新海誠は稀代の「廃墟」マニアだが、前作、前前作の廃墟は「災害」と直接結びついた「滅び」と「蹂躙」の象徴でもあった。
今回の映画では、廃墟は廃墟として――時代に遺棄されたトポスとして、より美しく立ち上がっている。そこには、賑やかだったころの幸福な人々の記憶がしみついている。だからこそ、災害が立ち現れる「ゲート」にもなりうるのだ。
「廃墟と水」という取り合わせは、当然ながら宮崎駿を想起させるものでもあるが、今回はそれ以上にタルコフスキー的な詩情を漂わせていると僕は思う。
タルコフスキーもまた、廃墟と、水と、記憶について、常に思索しつづけた監督だった。
新海誠は、今回の映画でその領域に一歩近づいたのかもしれない。
声優陣は、プロはザーさん一人であるにもかかわらず、ほぼ完ぺきな演技ぶり。
とくに深津絵里は、やっているあいだじゅうずいぶんと悩んだと何かの記事で言っていたが、これ以上ないくらい素晴らしい演技だったと思う。
あと、神木きゅんが、TVアニメなら100%櫻井孝宏がやりそうな役を、櫻井くんみたいな声でやっていて、たいへん感心した。芸域広いよ(高笑いは下手だったけど)。
さりげに草原のシロツメクサやアカツメクサ、ブタナ、モンキチョウ、海岸のセグロカモメ、カラスのまばたきなど、自然描写に一切噓がないのにも驚いた。ほんと丹治匠の仕事なくして、新海なしだね。
このレビューを読んでいると「すずめの戸締り」が大傑作に思えてきました。
個人的には「君の名は。」>「天気の子」>「すずめの戸締り」なのですが、人の判断を迷わせるレビューってすごいですね。