「『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサ...」百花 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサ...
『世界から猫が消えたなら』の原作や『君の名は。』などのプロデューサー・川村元気の初監督作品。
原作は自身の手によるが、脚本は平瀬謙太朗と共同(平瀬がトップなので、彼に書かせた脚本に手を入れたのかしらん)。
また、製作・プロデューサー陣は別、という体制。
横浜の自宅でピアノ教室をしながら一人で暮らす初老の百合子(原田美枝子)。
ここのところ記憶が混濁していることがあるのだが、本人に自覚はない。
離れて暮らす一人息子の泉(菅田将暉)がときどき百合子のもとへ帰ってくるが、大晦日の夜、戻ってきたところ百合子の姿が見えない。
外は雨。
近くの公園のブランコに乗った百合子が言うには、「買い物の出かけたのだけで、ちょっとわからなくなってしまった・・・」
といったところからはじまる物語で、若年性認知症を患った母親と息子の、親子の絆を描いた感動作を期待するところだろう。
が、オープニングのワンショットで「それは違うな」と気づく。
ひとりピアノを弾く百合子、物音が気になり玄関の方へ行ってみるが誰もいない、振り返るとピアノを弾く自分の姿が見える、というのをワンショット(のようにみえる手法)で撮っている。
記憶の混濁を表しているいるのだが、その感触は「感動」よりも「不安」「不思議」を感じさせる。
この感触はSF映画に近い感触で、『惑星ソラリス』やフィリップ・K・ディックの諸作品を想起しました。
つづく泉の百合子捜索のシーンもワンショットにみえるように撮っており、息子・泉の現実世界も百合子の混濁記憶の現実世界もシームレス、一連の地続きというアプローチ。
なかなかの仕掛け、演出の意図がうかがえます。
記憶混濁の進んだ百合子は、浅羽という男性の幻影をスーパーマッケットで見、後を追って店外へ出てしまったことから万引き事件へと発展し、検査の結果、若年性認知症であることが判明する。
その間、百合子と泉が想起する記憶の断片が物語に短く挿入され、泉は小学生ぐらいのときに百合子に取り残されてしまったことがわかります。
百合子を施設に入居させたあと、自宅の整理をしていた泉は、6パック以上も買われた卵のパックや、3つも4つもあるケチャップを発見して居たたまれない気持ちになるのだが、百合子のベッドの下から25年ほど昔の百合子の日記を発見し、百合子が泉を棄てて出奔したときの気持ちを知ってしまう。
妻子ある男性・浅羽(永瀬正敏)と不倫関係になった百合子は、自身の女性としての感情を抑えきれず、転勤になった浅羽の後を追って神戸へと向かい、ささやかな蜜月関係を築く。
が、阪神淡路大震災により浅羽は死に、ひとりとなった百合子は横浜へ戻ってきたのであった。
と、このエピソードが長く、かつ話法的に乱れてしまっているので、映画の後半が活きてこなくなったように感じました。
エピソードが長くなったことで、観客の百合子への感情は悪化し、「母親と息子の絆を描いた感動作」を期待した観客からはそっぽを向かれる。
話法の乱れは次のとおりで、百合子と浅羽の物語は、泉が読む日記の内容の映像化として登場し、「記憶」の映像化ではない。
が、大震災でひとり彷徨う百合子の映像からは、施設で過ごす百合子の「記憶」につながっていく。
これにより、「記憶にまつわるSF映画的なもの」を期待している観客も、記憶なのか記録(日記、または事実)なのかと混乱してしまう。
ということで、百合子と浅羽のエピソードの長い尺は、いい方向には働いていない。
このエピソードの乱れが、後半、もっとよくなる要素を殺ぎ落とした感があります。
後半は3つのエピソードが展開されます。
ひとつは、泉が携わっているAIヴォーカロイド・KOE(コエ)のエピソード。
もうひとつは、泉の妻(長澤まさみ)の出産のエピソード。
最後に、もっとも尺が割かれる、百合子が頻りに見たがる「半分の花火」のエピソード。
ヴォーカロイドのエピソードは、記憶/記録することと忘れることの対比が描かれ、記憶/記録するだけでは「人間らしさ」に欠けるというディック的エピソードで、個人的にはこの部分をもう少しふくらませて描いてほしかった。
この部分を膨らませることで、「半分の花火」のエピソードも、もっと活きたように感じました。
ふたつめの出産のエピソードは、短くさらりと描かれ、「母と息子の感動作」を期待した観客には、終幕の「半分の花火」のエピソードへ向かって、感動を積み重ねていってほしいところだったが、物語の流れとしてつながっているように感じられなかったように思います。
さて最後の「半分の花火」のエピソードなのですが、ミスリードを挟んでの謎解き(納得感のある)要素なのですが、伏線がうまくなく、「なるほど」感を醸成できていないのが惜しいです。
たしかに前半、泉と妻が百合子の暮らす旧宅に向かうシーンで、あの建物を写しているのですが、旧宅との関係がわからない。
なので、なるほど感が少なくなってしまう。
さらに、百合子と泉が憶えていたことが、それぞれで異なっていることがわかりますが、ヴォーカロイドエピソードが短いため、記憶と忘却の対比が乏しく感じられます。
また、百合子が記憶していたことは、泉との楽しい時間・事柄であったけれども、泉が記憶していたことは母に棄てられた悲しい記憶が主で、楽しかった時間・事柄については誤って記憶していたことがわかります。
と、この終盤は盛りだくさん。
盛りだくさんの内容が少々さばき切れなかった感がありますね。
なお、最後、縁側で百合子と泉が縁側に並んで「半分の花火」を観るショット、個人的にはなぜか『東京物語』をふと思い出しました。
ということで、「残念」なところばかりを書き連ねましたが、一連の川村元気企画・プロデュース作品の押しつけがましさがなく、作家性が出た感じがして好感が持てた作品でした。