「セリフの言語の選び方が意外と深い話」プレデター ザ・プレイ AFRDさんの映画レビュー(感想・評価)
セリフの言語の選び方が意外と深い話
まずは総合評価として★3.5を与えたい。
その理由として、「映像美」「美術のこだわり」「CG(視覚効果)」の3点を挙げる。
より具体的には、ロケーション、ヘアメイク、衣装、大道具・小道具(セット)、そしてカメラによる撮影が良かった。
舞台として1700年代初頭のアメリカの未開拓領域、主人公としてネイティブ・アメリカン(コマンチ族)を選び、素朴で野性味のあるサバイバルを演出した。
美術へのこだわりにより、被写体にごまかしがなく、観賞に耐えうる映像作りを成し遂げた。
アメリカ建国(1776年)以前の入植時代を背景として、スペイン人が登場したのもよい。
さらにクマとの戦闘シーンもある本作は、『レヴェナント:蘇りし者』(2015,アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)を想起させる。
アカデミー賞3部門を獲得したこの名作と比較してしまうと、ところどころ拙速さが気になるものの、100分という短尺のなかで素朴さ、自然との交わり、野生味(そして若干のゴア表現)を終始一貫して描くことができているのではないだろうか。
「拙速」な部分をより丁寧に描き、部分的に肉付けを行えば、素晴らしい作品に仕上がるのではないだろうか。
音楽に関しては凡庸で、むしろデジタルに、電子音楽を使用するなどの挑戦を行ってもいい。
またプレデターの目的も謎で、「闘争」(抗争)の匂いを嗅ぎつけて現れるというシリーズの約束から外れる。
その点を補完するように今作では「食物連鎖の頂点争い」が描かれる。
タイトルにある「プレイ」とは、"prey"のことで、猛禽類、あるいは猛禽類の獲物を意味するが、要は「狩るものが狩られる側に立つこと」を意味する。
コマンチ族は狩る側でもあり、強力な野生動物に狩られることもある側でもある。
そこにスペイン人入植者たちが登場し、頂点捕食者の座を獲得するかと思いきや、プレデター、そして主人公によって壊滅させられる。(このようにプレデターは「敵」ではあるが「悪」ではなく、シリーズを通じてしばしば悪役を消してくれるヒーローでもある。これが誇り高い戦闘部族に対するリスペクトである)
主人公たちは動物を狩る人間であるが、スペイン人の登場により狩られる側になる。しかしそのスペイン人もプレデターと主人公によって倒され、主人公とプレデターとの頂上決戦となる。
このような、狩るものが狩られる側に転ずるという闘争の全体が"prey"という単語に集約されている。
作中しばしば、この食物連鎖を象徴するシーンが、野生動物を通じて描かれる。
ところで前述の「拙速」さとは、例えば巨大なクマとの遭遇が、安易に戦闘に発展してしまうところ、などだ。野生動物は、生き物を見ればなんでも襲い、殺してしまうような生き物だろうか。
本作では「食物連鎖」(あるいは頂点捕食者)を描く都合上、生き物同士が遭遇すると常に「上下関係」(優劣、大小関係)を決定しようとしてしまう。
実際の自然界において、生き物同士の遭遇は必ずしも殺し合いには発展しないだろう。空腹であるとか、育児中であるとかの理由で動物が凶暴になることは知られているが、常にそうだというわけではない。
『ジュラシック・ワールド』(2015)や『ジュラシック・ワールド/炎の王国』(2018) が、第1作『ジュラシック・パーク』(1993)に比べて圧倒的に劣る理由は、人間の敵という側面だけを持つ恐竜を登場させてしまい、「畏怖」の対象(尊敬と恐怖両方の対象)である恐竜の姿を損なわせてしまった点にある。第1作における恐竜は、恐怖の対象でもあり、動物に対する愛情の対象でもあった。
これと同じことが本作においても言える。動物は、ただただ凶暴な側面だけがピックアップされている。
こう言った点をクリアすること、つまり安易な戦闘に発展させないことや、野生動物たちの持つ様々な表情を満遍なく描きつつも主人公との生存競争に発展する様を丁寧に描写することによって、本作は真に「自然に溶け込んだ」作品になれると言えるのではないだろうか。
・・・・・
主人公をコマンチとして描くにあたり、スペイン人の登場、その下劣さ、彼らの全滅は、おそらく白人によるネイティブ・アメリカン迫害の歴史を省みての白人なりの「へり下り」であり、この映画もまたポリコレの側面を持つ。
主人公は女性であり、性別役割分業に抗う姿が描かれる。
個人的な疑問であるが、わざわざ性別役割分業だとか、男性を「女性に対して決めつけを行う悪者」として描かずに、単に活躍する女性像を描くことはできないのだろうか。
ハリウッドにはすでに『エイリアン』(1979)だとか『ターミネーター2』(1991)のように、男性との比較・差異の描写を介することなく、純粋に活躍(アクション)する女性像を描いた事例が存在する。
『プレデター』シリーズにおいても、『エイリアンVSプレデター』(2004)は、女性主人公がプレデターと協力して活躍する作品であった。
(エイリアンは男性器のメタファーであり、宇宙船という閉鎖空間は膣を象徴する存在で、さらにはエイリアンによる"妊娠"を描いた作品であるという視点もあるが)『エイリアン』シリーズに対して、「主人公を男性にしろ」と文句をつける人は存在しないし、主人公が活躍さえしていれば、それが男性だろうと女性だろうと観客はあまり気にしないものである。(というのが個人的な意見だが、どうだろうか)
・・・・・
さて、「映像美」「美術」「視覚効果」において優れる本作であるが、前述の通りところどころ拙速である。
「映像」「美術」「視覚効果」における丁寧さが、末端まで及ばなかったのではないだろうか。
脚本、編集、アクションなどにおいては不足が見られる。(Disney+作品に対してそこまで指摘してはいけないだろうか...)
食傷気味な『プレデター』(ついでに言えば『エイリアン』)シリーズであるが、素朴な舞台設定により原点回帰がもたらされたのではないだろうか。
肉付けによって膨らませれば「化ける」可能性もあるので、この路線で進んで欲しい。
ちなみに以前『エイリアンVSプレデター』の小説版(竹書房)を読んだことがあるが、そこでは現代よりも前、プレデターが何度も地球を訪れ人間と接触する様子が描かれていた。
・・・・・
本作でスペイン人が登場する理由は、主人公たちコマンチ族が住んでいたのがアメリカ南西部だからだ。
18世紀初頭、アメリカ南西部を統治していたのはスペイン人である。メキシコがスペイン語圏であるのもその名残だ。
重要なのは白人が登場することだ。白人が登場してネイティブアメリカンを侵略した歴史を描ければよい。
コマンチ族がアメリカ南西部に住んでいたことや、18世紀初頭の統治者がスペイン人であったことを知らない視聴者も多い。そのため実際の遭遇確率はスペイン人が高かったとしても、白人に英語を話させるという選択肢もある。
だが本作では、より正確な史実に基づき、スペイン語を話すことにしたようである。
それならば主人公達も正確な歴史考証に基づき、全編を通じてコマンチの言語を話せばよいのではないか?という指摘も考えられる。
『アポカリプト』(2006年, メル・ギブソン監督)という映画では、マヤ人を描く物語で、実際に全編をマヤ語で撮影してしまった(!)
本作、主人公はコマンチの言語も英語も両方話すが、英語をどこかで習得したのか、それとも(映画によくあるように)「本当はコマンチ語を話しているがセリフが英語なだけ」なのかは不明である。
スペイン人の通訳と主人公が会話するさいの会話は英語で行われるが、2人が話しているのが「本当に英語」なのか、それともコマンチの言語なのかが不明だ。
スペイン人がどこかでコマンチ語を習得したのも謎だから、英語を覚えているほうが自然だが、ヨーロッパ人と接触していない(であろう)主人公がどこかで英語を習得しているのも不思議だ。
だが劇中で、西洋人とはどこかで交流する必要がある。
というのも主人公がスペイン人から銃の使用法を学ぶシーンがあるし、『プレデター2』のラストシーンで登場した銃を西洋人から受けとらせたいからだ。(これが本作の製作者の狙いだ)
単に銃を盗むような展開でもいい。そうなれば言語を介在する必要がないからだ。しかしそうするとなぜ銃だけ盗むのか?という疑問が生じる。他の色々な物に混ざって銃も盗んだことにしてもいいが、銃をよりピックアップするため、やはり本来の目的通り武器として、主人公に使用させたい。
だが考証に正確でいようとすると、当時の銃の使い方は複雑であるため、主人公に銃の使い方を学ばせる必要がある。するとどうしても言語による会話が必要となる。
そのような思考過程を経た結果、「英語のセリフだが、本当はコマンチ語を話しているのだろう」という観客の認識につけ込み、スペイン人通訳との会話を英語で行わせることを思いついたのだろう。
絶妙なやり方であり、映画でよくあることを逆手に取ったやり方だが、上記のように「いま2人が話している英語は、本当に英語なのか?それともコマンチ語なのか?」という疑問を抱くまでは有効である。
リアリズムと演劇性がうまく融合した形だ。(この点は芸術の域だと思う)
・・・
つまり、「『プレデター2』に登場した銃が本作で主人公の手に渡る」というラストへ向かうため、逆算的に「銃をスペイン人から受け取ること」「銃を使用してプレデターに抗戦すること」「銃の使用法を覚えるために言語が必要であること」「主人公はコマンチ語しか話せないがスペイン人(通訳)は英語も話せること」から「主人公はコマンチ語と英語のセリフを織り交ぜて会話する」という解決策に至ったのだろう。
序盤から、ラストに向けての伏線が張られていたことになる。
観客は主人公が英語を話しても、「映画によくあるように、英語を話しているけど本当はコマンチ語なんだろう」と解釈してくれる。
主人公のセリフは全て英語にせずコマンチ語を織り交ぜたのはスパイス的演出であり、多少の考証的配慮でもある。(また、英語で会話するほうが主人公が観客の支持を得られやすいという利点もある)
スペイン人がスペイン語を話すという点に関しては英語以外の言語を話させることで異文化との接触をアピールした結果として考証的正確性に従うことになったが、主人公が英語を主軸としてコマンチ語を織り交ぜるという言う点では作品の見やすさと演出を重視したようである。(やはり話す言語が分からないというのは異文化との接触をアピールしやすい。つまりアメリカ人がスペイン語をわからないということである)
製作国がアメリカではかった場合、あるいは映画の舞台がアメリカでなかった場合、また違ったやり方になったのではないだろうか?