劇場公開日 2022年11月23日

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「「欠けている」ことへの思惑」母性 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5「欠けている」ことへの思惑

2025年5月4日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

「やっぱり」
湊かなえさんの作品だった。
彼女特有の書き方、各々の視点でひとつの事実を見る描き方。
そしてこの作品はるり子とさやかの視点で物語が描かれている。
最後の挿入歌「同じ場所にいるのに違うものを見てる。同じ言葉を聞いても違う気持ちになる」というのが、この作品のテーマだろうか?
それを「母性」という一点から考えたのがこの物語だろう。
母性故、男にはその芯を捉えきれないかもしれない。
つまり、男である私もこの作品を正確には受け止めることができなかっただろうと思う。
だからこのレビューはいつにも増して間違いだらけかもしれない。
さて、
2022年の映画だが小説は2012年10月に発表されているので、その年に書き始めたと思われる。
そう仮定すれば、この2012年が最後のシーンの現在に当たる。
平成24年という時代
さやかの妊娠した年
彼女の誕生したのが平成元年ごろだろうか?
つまりるり子が結婚したのが昭和の最後となるが、これでは父サトシの学生運動との関連に無理が生じる。
父が学生運動に参加していた事実があるので、そこから換算するとサヤカの妊娠した「現在」とは1990年~2000年代だということになる。
おそらく、この2000年前後こそこの物語の分岐点なのだろう。
このいわゆるミレニアムに合わせ、湊かなえさんはこの「母性」を再確認したかったのかなと思った。
それは間違いなく湊かなえさんが体験したことだと思う。
つまりサヤカとは湊かなえさん自身だったのではないだろうか?
物語にもあるが、
母性とは本能のようなものではなく、学習によるものだと。
母親としての在り方を強要された長い間の時代背景が、「ある意味」である母性を作った。
それは本能ではなく躾などによって強要されてきたもので、時代背景という枠がある。
その枠が、ミレニアムという年代になり変化してきたのだと、言いたかったのかもしれない。
多様化する社会
流行や趣味や文化だけではなく、考え方や物事の捉え方も「人それぞれでいい」という時代に変化していったのがミレニアムだったのかもしれない。
幸せの定義
るり子が母から愛されて育ったこと。
母の喜びのために何かするのが正しいと思い込んでいたこと。
この時代 高度成長期と社会の矛盾と抑圧が生んだ学生運動
その中で何が正しいのかを「母」の考えひとつが指針となってしまったるり子
るり子の思考は「母」一択であり、その他を排他的にするのは意に介さない。
母と同じものを見て違う感想を抱くことこそ、るり子にとっての悪となる。
それが、田所サトシの描いたバラの絵に対する感想の相違。
母と同じ思考にならなくてはならないという強い観念。
一見特質した強迫観念とも取れるが、当時は意外に多かった思考なのかもしれない。
母に喜んでもらうために田所の絵を譲ってもらい、結婚して、妊娠した。
「お腹の中にいる別の生き物」
るり子と母の関係に入り込んでしまう「別のもの」
このデフォルメは相当なものだ。
るり子という人物を知る上で必要な事項だが、今ではそれはほぼサイコパスとみなされそうだ。
ただ、サイコパスであれ人は皆、自分の信じたドグマのようなもので動いているのも事実で、単にその強弱があるだけなのだろう。
彼女にとってのドグマが「母」だったに過ぎない。
だから娘のサヤカも、また母に喜んでもらえるように生きようとする。
だが彼女の視点は、
おばあちゃんから注がれている無償の愛 しかし母から注がれていたのは… 何か、自分でもわからない、言葉にできない。
しかし、
台風で庭木の枝が窓ガラスを破ってタンスを押し倒し、祖母とさやかの上に覆いかぶさったことと、子供などまた産めばいいからお母さんを助けたいというるり子の言葉に、母はハサミで頸動脈を切るというのは、凄すぎる。
湊かなえさんは、「告白」でも教え子を騙し、彼の母を爆死させた主人公を描いたが、この派手さもまた彼女独特の描き方だ。
映像にすると「えー!?」となる。
このシーンはるり子の思考と母の思考との違いを明確にする。
彼女の自殺は、娘るり子への最後の教育だったように思う。
彼女は確かに娘るり子を愛していた。
同時に孫も愛していた。
そしてるり子の中に感じる歪んだ愛というのか、変わった思考も知っていたと思われる。
事故によってその歪みをはっきり感じ取った彼女は、その元凶である自分自身を犠牲にして「母性」というものをるり子に教えたかったのかもしれない。
しかしるり子はこの事故を逆に捉えてしまう。
さて、、
サトシという人物
物語上彼の存在の薄さが気になる。
ヒトミとのこともあったが、最後は自宅にいた。
その姿は以前と何も変わってなどいない感じだった。
これはやはり「母性」を描くために男を排斥したかったからだろうか?
母性が教育によって生じるものであれば、そこに男はいらないのだろうか?
それが、西暦2000年だったのだろうか?
男とは、なんて不必要な存在なのだろう。
そして、
サヤカという人物
この作品には二人の主人公がいる。
るり子とサヤカ
過去と現在
サヤカがるり子に電話して妊娠したことを告げた時、るり子は「母」と同じ言葉を遣って祝福した。
その言葉は淡々として感情はなく、母の言葉を横流ししたようだった。
表情にも感情は現れていない。
そして一人寝室へ入っていくその姿は、何が正しいのかということを考えても、結局変わることのできなかった彼女自身を表しているようだった。
庭木にロープを垂らして首を吊ったサヤカ
その意識の回復のために教会の懺悔室で「告白」するのがこの物語。
懺悔室とは、るり子の歩いてきた道に対する象徴だったように思う。
しかしそれは、ずっとそれが正しいと信じて疑わなかったことでもあるし、実際サヤカが首を吊ったことでるり子は自分の考え方に対し疑問を持ったものの、芯の部分ではやっぱりわからないと思っている。
神父はるり子に「祈りとはありのままの自分を差し出すこと」と言った。
このありのままの自分こそ、母を想い続ける自分だったのではないだろうか?
るり子の母性とは、自分の母と同じようになることだったのかもしれないし、それ以外何もないのかもしれない。
サヤカは高校教師となる。
そしてネットニュースで自分と同じことをして死亡した女子高生のことを知る。
それは過去の自分との比較や今の自分との違いなどを深く考えることになった。
それ故、国語教師を誘って飲みに行ったのだろう。
事件を知り、もう一度自分自身について反芻したかったのだろう。
同時に自分自身の妊娠と自分の中の母性を再定義したかったのだろう。
これがこの時代 西暦2000年だった。
サヤカにとってのミレニアム
おそらく湊かなえさんにとってのミレニアム
サヤカはクラスメートだったトオルを夫にした。
トオルは、サヤカには「遊び」がないと言った人物だ。
その意味を彼女は尋ねた。
おそらく端然とトオルが答えてくれるまで尋ね続けたのだろう。
サヤカにまったく欠けていたものをトオルが教えてくれたのだ。
この部品が組み合わさった。
その証拠が、同僚と飲みに出掛けたこと。
そんなことができるようになった。
サヤカは同僚に言う。
「母性とは二種類ある 母と娘 いつまでも誰かの娘でいたいと願う人もいる」
るり子は極端なように思うが、私の母が昔「火事でお母さんとアンタの奥さんどっちか一人しか助けられない場合、どっち助ける?」と質問したのを思い出した。
母は言った「お母さんは代わりはいないけど、奥さんはいくらでも代わりがいる」
つまり母を助けなければならないということだ。
昭和50年代だったろうか。
そんな思考がこの日本にあったのだ。
湊かなえさんもまた、このようなことがあったのかもしれない。
彼女の受けた心の澱を表現したのがこの作品なのかもしれない。
最後にサヤカは「私はどっち?」と呟くが、すでに答えは出している。
やはり過去にしか戻ることができなかったるり子と、2000年の街を歩くサヤカ
母の言った「命をつないでくれてありがとう」という言葉は、るり子の母の言葉であり彼女ならそういうであろう言葉であり、彼女になったつもりのるり子の言葉だった。
そしてサヤカの視点でとらえたその言葉は、電話を切った後の呟きに現れているように、ある種の不安と、「母性」という呪縛のようなものがこの先も続くという感覚なのかもしれない。
答えは出ているものの、子供を産んで母になることは、いつの時代も不安が付きまとうのだろう。
それは男にはわからないものだ。
女たちの不安…
教育という過去の産物と現在の考え方。
こんなことが絶えず繰り返されていくのだろう。
その時々で答えは違うのかもしれないが、それでいいのだ。

R41
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