「作品としては完成していた」仮面ライダーオーズ 10th 復活のコアメダル nikoさんの映画レビュー(感想・評価)
作品としては完成していた
最初に結論を言うとすれば、『パンフレットが全てである』というしかないだろう。
ネタバレは踏まずとも、映画の賛否両論は自然と耳に入ってきた。
私個人の感想として、Vシネというのは当たり外れが激しく、解釈不一致で二度と見ないなと思う作品もチラホラあったため、きっとそのたぐいなのかと思い、劇場に足を運んだ。
映画が始まった瞬間、心底驚いた。
テレビ本編の、その延長線上に彼等は居た。
解釈一致もクソもない。だって彼らがそのまま画面に居たのだ。
そしてこの映画の賛否が別れる理由がわかった。
オーズが大好きで、この10年間待って待って待ち続けた人間にとって、この幕引きはとても残酷だ。
しかし、納得したくはないが、理解できてしまう。きっと彼らならそうすると、火野映司はそれを選ぶと、あの1年間を通して彼らに触れてきた私達は、分かってしまうのだ。
これはオーズの続編というよりは後日談で、タイトルの通り完結編、終わりだ。
あのような終わり方が個人的に好みであったのもそうなのだが、火野映司が畳の上で大往生出来るとは本編を通しても思っていなかったので、誰も知らない戦場で一人孤独で死んでくいくよりも、寧ろ「目の前の命に手が届く」「アンクとまた会う」という本懐を遂げられ、仲間に看取られることができた映司は幸せ者以外の何者でもないだろう。
というか映司の願いは「アンクとまた会う」ことであり、それから先の事を考えていない事にこれを書きながら思い出した。彼の望む幸せの中に、彼は端から居なかったのだ。
あとは火野映司役の渡部秀さんの演技が本当に凄かった………何も情報がない序盤に、声色だけであれだけ不穏な空気を、映司なのに映司ではない違和感を演出できるのは彼が仮面ライダーを、オーズを愛しているが故なのだろう。
彼は今回の作品で映司のフリをするゴーダ、ゴーダ、アンク、映司を演じていたが、アンクが憑依していたとき、首のあの独特の動きや目の動き、下から睨むように少し顔を伏せるような仕草がそのまんまアンクで思わず笑いそうになってしまった。流石誰よりもアンクを近くで見ていた男である。
そして終盤、本編最終回のオマージュ、あのときとは立場が逆の二人。もうこの段階でボロクソに泣いていた。感情は時に純粋な力さえも凌駕する。
不満があるとすれば、予算が低いように見受けられたのと、尺が短すぎた。
やりたいことに対して容器の空きがないのだ。そりゃ詰め込みまくって置いてけぼりになってしまう。
これは1時間30分、いや2時間くらいの尺で届けてほしかった………掘り下げたいところが多すぎるので、是非とも円盤では余白を埋めて欲しい。もしくは早急に設定資料集を。何故古代オーズとグリードは復活したのか等の補完が欲しい。
また、進化バースは必要だったのだろうか…?という疑問が湧いた。そこは少し蛇足感というか、きっと時の流れと残された人々の葛藤などを表現したかったのだろうが、やはり尺の関係で語られることが少なくてモヤッとしてしまった。早急にこの10年間の空白期間の資料が欲しい…………。