「愛は家族と歌声の中に」コーダ あいのうた 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
愛は家族と歌声の中に
祝!本年度アカデミー賞作品賞受賞!
本公開は1月21日だったけど(ちなみに私の誕生日)、隣町ではロングラン上映しており、オスカー受賞した事もあって、ミーハーながら観に行ってきた。
公開時からの評判の良さは聞いており、勿論気になっていた作品だったので、絶好のタイミング。
にしても、本作のオスカー作品賞は驚きだった。当初は本命でも何でもなかった。
だって、作品賞を狙うのに絶対候補を落としてはならない監督賞や編集賞にノミネートされず。ノミネートされたのはたったの3部門(作品・助演男優・脚色)。おまけにフランス映画のリメイク。
なのに、徐々にダークホースになってきて、オスカー直前の組合賞を受賞してからは本命視に。その勢いのままオスカーもかっさらっていっちゃった感じ。
まあオスカーでは度々ある番狂わせとは言え、如何にこの作品が愛されたかという事だろう。
実際作品を見て、納得。
今回の作品賞ノミネート作で、(まだ全部は見てないが見た中では)、一際インパクトあったのは『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。個人的に推していた。
紛れもなく傑作で2021年公開作の中でもBEST級だが、見る人を選ぶ。支持する人は支持するが、支持しない人からは拒絶される。それほど異質な作品。
2018年の『ROMA/ローマ』vs『グリーンブック』と似ている。実際、“2021年の『グリーンブック』”とも形容された。
誰からも愛される作風。よほどのひねくれ者か感動やハートフルが嫌い、はたまた全く映画を観ない人でもない限り、本作を嫌いになる人はそう居ないだろう。
“聾唖”を題材にしている以外、非常に普遍的な作品。砕いて言えば、ベタで王道。
耳が聴こえない家族(両親・兄)と、唯一耳の聴こえる娘ルビー。
ずっと周囲との“通訳”として家族を支えている。家業の漁も手伝う。実に孝行娘なのだが…、
学校では孤立。“コーダ”であるが故に。“コーダ”とは、耳の聴こえない親の下に産まれた子供を指すという。
歌う事が好き。合唱クラブに入る。動機は片想いの男子が入ったからなんだけど…。
顧問から歌の才能を認められる。コンサートに向けての個人レッスンと音大への薦め。
家族の事を思って留まるか、開けた才能に向かって進むか。
少女の葛藤、青春。
夢。
家族愛…。
話的にも題材的にも特別目新しさは無い。
が、それを実に巧く語っていく。
まるで、素敵な歌が心にスッと入っていくかのように、心地よく。
2時間があっという間。もっとこの素敵な歌声に浸っていたかった。
ルビーはまだまだ10代なのに、苦労や悩みが絶えない女の子だ。
荷が重いほど、色々なものを背負っている。
自分の事、漁業の事、家族の事…。
家族が大事。何より家族の事を思っている。
だから心配。私が居なかったら周囲とコミュニケーションが取れない。
漁以外何も出来ない。唯一出来る仕事。聾唖者の上に無職なんて、酷。
漁業組合でトラブル。金だけ搾り取っていく国の寄生虫に頼らず、自分たちで独立。尽力。
だけど、自分にもやりたい事がある。歌いたい。
どれが一番大事?…なんて優劣付けられない。どれも大事。
だから、悩む。悩む。悩む。
その姿に我々も一緒になって悩み、共感し、“エール!”を送りたくなる事必至!
母にとって娘はまだ“ベイビー”。が、父は“昔から大人”。
親の手を借りないと何も出来なかったら、“ベイビー”と呼ばれて致し方ないだろう。が、ルビーは真逆。寧ろ一人で、あれこれこなしている。
“ベイビー”なのは家族の方かもしれない。
娘が居ないと何も出来ない。周囲とのコミュニケーション、漁で娘不在時の通訳の手配など。
何もかも娘任せ。頼りっきり。
ルビー本人は家族を支えなければならない責任や役割を自覚しているだろうが、束縛や依存は双方にとっても良くない。
ルビーにも自分自身の人生や夢を追う自由がある。
本作は聾唖者であっても健常者と変わらぬ生き方(漁業で生計を立てる)やユニークさ(いんきんたむしになろうともSEXしたい!)を描きつつ、全肯定ではない。
ルビーが同行しなかったある漁で、沿岸警備船からの無線に気付かず、免停。
この時の無線は注意勧告だったが、もし急な嵐の接近とか、命に関わる報せの無線だったら…?
聾唖者だから無線に気付かないのは無理もないが、だからこそ尚更彼らにとっては生き辛い。
酷な言い方かもしれないが、最低限の準備や手配は自分たちでしなければならない。
いざって時、社会は助けてくれない。貧困層の障害者家族の事など殊更。
言葉で訴えが伝わらぬなら、行動で示す。例えそれが大荒れの海原への船出であっても。
まさに“ルビーの輝き”。エミリア・ジョーンズの等身大の魅力と好演。
手話と歌を学びに学び、取得。通常ならどちらかだけでも大変なのに、その二つを器用にこなす。
クライマックスは歌と手話を同時に。圧巻のパフォーマンス。映画史に残った名歌唱シーンと言っても過言ではない。
周りも実にいい。俳優組合賞のアンサンブル・キャスト賞受賞は、こりゃ当然。
『愛は静けさの中に』以来の当たり役で魅せてくれたマーリー・マトリン。ちょっと心配性でちょっとウザい母親を、いるいると思わせる。
気軽に手話で貶す呼び合いしながらも、度々本当に衝突する兄。妹は特に両親から頼られ、これでも“兄”という立場上うっすらジェラシー。それは同時に、妹を足枷から解放してやりたいという陰ながらの思いやりもある。
顧問の“ミスターV”も良かった。指導はかなり風変わりで型破り。しかし、“見る目”と“聞く耳”は確かで、指導者としての才能の引き出しは確か。ルビーにとっても夢へ進むきっかけを与えてくれた恩師。(やりようによってはルビーとミスターVだけでも、教え子と恩師の一本の作品が出来そうなくらい)
そして、本作の“大黒柱”は言うまでもない。
トロイ・コッツァー。
誰もが彼に魅了される。
誰もが彼に笑わせられ、目頭熱くさせられる。
名演。熱演。体現。見る者の心を揺さぶる、助演の鏡。
ちょっとのお下品さ(いや、ちょっとどころではないかな…?)や不器用さは憎めず、チャーミング。
“海の男”としての逞しさ、荒々しさ。漁師たちと組合が集まった話し合いの場で、いつもなら耳が聴こえない故発言などしなかったが、溜まりに溜まり兼ねて発言。その内に込めた“言葉”に、皆賛同。それほど漁師として漢として、熱いのだ。
滲み出る家族への優しさ、愛…。
特筆すべきシーンがあった。クライマックスのルビーの歌唱シーンもいいけど、個人的に本作のハイライトだと思っている。
娘も出演するコンサートを鑑賞。コンサートの途中、無音になる。我々観客も父親と同じになった視点の演出で、
自分は耳が聴こえないから娘の歌声も聴こえない。が、周りの観客は娘の歌声を聴いて感動している。娘がどれほど素晴らしい歌の才能を持っているか…この無音になったシーンで実に分かる。
それを目の当たりにした父。支えられていた立場から、これをきっかけに娘を支え、夢へ応援。
名演も役回りもシーンも、全てが美味しい。
アカデミー助演男優賞は、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の“実は真の主人公”だったコディ・スミット=マクフィーを推していたが、こうして見てしまうと、コッツァーに一票投じたくなるのも分かる。と言うか、両人とも素晴らしくて決め切れないほど。2015年の『クリード』シルヴェスター・スタローンvs『ブリッジ・オブ・スパイ』マーク・ライランスに匹敵する頂上決戦であった。
コッツァー自身も聾唖者。彼が役者を志したのは、『愛は静けさの中に』のマーリー・マトリンを見て。そのマトリンと本作で夫婦役。
もう何て言ったらいいのだろう。数奇な運命、奇跡、巡り巡って至った必然…。
それはきっと、本当にある映画の不思議な力他ならない。
俊英女性監督シアン・ヘダーの温もり溢れた演出、優しい眼差し。
オリジナルは酪農らしいが(オリジナルの『エール!』はまだ未見)、漁業に変更。監督が海辺の町で育ったらしく、自身の思いを美しい海辺の町の風景に込めて。
コッツァーやマトリンら実際に聾唖者をキャスティングしたこだわり。昨年度の『サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ』共々、今後の聾唖を題材にした作品へ多大な影響を与え続ける事になるだろう。
それは同時に、障害者だからと言って不可能な事はない、何にでも挑戦出来、活躍の場が与えられ、自由に羽ばたけるメッセージが込められている。
オチも分かり切っている。分かっていても、いい。
やがて子供は巣立つ。それが大人になった子供というものだ。
家族はそれを見送る。それが家族というものだ。
「行け」…父親が唯一発した一言がまた泣かせる。
支えて、支え合って。
例え離れようとも心はいつも繋がっている。
家族は変わらず一緒。
家族ももう自分たちだけのフィールドに留まらず、きっとやっていける。
愛娘も自分の夢をさらに目指していける。
そんな勇気に励まされて。
そんな愛に包まれて。触れて。
そんな家族の下に産まれて。
この上ない幸せ。
素敵なうたをありがとう。