世界で一番美しい少年のレビュー・感想・評価
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弱くもしたたか、不思議なサバイバル人生。ひとりの老人の再生をかけた思い出巡礼の旅を描く。
もうすぐ終映ってことで、慌てて行ってきた。
ルキノ・ヴィスコンティに『ベニスに死す』で見出された世紀の美少年ビョルン・アンドレセンの、「その後」の人生を描くドキュメンタリー。
ドキュメンタリーとはいいながら、66歳になった当の本人がのべつ登場して、かつての想い出の地を巡礼しながら、自分でナレーションも引き受けている。
ある種、数十年ぶりに「主演」を果たした「私小説」映画としての色が濃い。
僕にとって『ベニスに死す』は大切な映画だし、全作観た後期ヴィスコンティ作品のなかでも、『家族の肖像』と『地獄に堕ちた勇者ども』の次くらいには好きな映画だ。
あれはホモセクシャルの映画というよりは、「老い」への底知れぬ惧れを美学的に描いた作品であり、主人公は死の予兆のなかで「若さの美」に憧れ、身を焦がす。それがゆえに相手は「同性」=「少年」でなければならない、というロジックの映画である。
その美の象徴、タジオとして受肉し、映画に君臨したのが、ビョルン・アンドレセンだった。
僕は正直、ビョルン・アンドレセンのことをあまり美少年だと思ったことがない。
僕にとって美少年とはもっとベタな概念であり、デビュー時のエドワード・ファーロングとか幼いころのピアニスト牛田智大あたりが該当するものであって、それと比べれば、ビョルンはとうが立っているし、顔が長いし、どっちかというとダ・ヴィンチ風の古典的な顔立ちで、正直好みではない(ヴィスコンティにとっては、いわゆる美少年かどうか以上に、彼の造形がギリシャ・ローマからルネサンスへと受け継がれた西洋美術史上の伝統的な「美の規範(イデア)」に則っているかどうかのほうが重要だった)。
とはいえ、彼の存在が池田理代子や竹宮惠子、萩尾望都らに衝撃を与え、少女漫画家にとってのアイコンになったことはよく知っているし、その結果、遠い日本の地で世界に冠たる「ひとつの文化」を生み出してしまったのは、動かしがたい歴史の事実だ。
彼個人の人生に焦点を当てれば、そりゃあ回りの大人に食い物にされて可哀想だったね、という話にはなるのだろうが、逆に言えばビョルン・アンドレセンは、あの映画に出ただけで既に大変なことを成し遂げているわけで、彼のインパクトのおかげで生まれた「文化的達成」を、われわれは過小評価してはならない。
それが彼の「顔」のおかげで、彼の努力や演技のおかげではなかったのは不幸なことだし、同性からのいやらしい視線にさいなまれて可哀想だったとは思うが、そんな事例は世の中にそれこそゴマンとあって、たいていの「美しい人」は女なら町のヤンキー烈風隊にこまされ、男ならゲイ風俗関係者に消費されて、ゴミのような人生を送っておしまいである。
こうやって歴史に楔を打ち込めているだけで、彼はすでに全然「負け犬」ではないと、僕は思う。
たとえ当の本人が虚栄に倦み、不幸な生涯を送ったとしても、名も知られずに死んでいった何千億の無為な人生よりは、まともで有意義な人生だ。間違いなく彼は多くの人を幸せにして、多くの人の霊感源となれたのだから。
そしてビョルン・アンドレセン本人もまた、自分のあの時の「成功」を、そこまで悪いことだったとは思っていないはずだと、このドキュメンタリーを観たうえでなお、思う。
観終わって、なんとも奇妙な感慨にふけってしまう映画だ。
ルッキズムとチャイルド・アビューズに加担した日本人としての罪悪感は確かにある。
でも、スターダムを享受するのは、多くの者が恋焦がれる圧倒的な勲章でもある。
祖母ちゃんが勝手に応募したからといって、別に人狩りにあって徴用されたわけではない。
そこでつぶされるのが、ほんとうに世間様のせいなのか? という思いもある。
観ていてどこか不思議な感じがするのは、映画製作者と当のビョルンのあいだに、微妙な認識の齟齬があって、あえてそれを「埋めない」作りにドキュメンタリーがなっているからではないか、とも思う。
監督たちは明らかに、ハイティーンのときに「性的に消費」されたことが、ビョルンを「壊した」と考え、そこに焦点を合わせて撮っている。いかにも今風な視点だ。
でもビョルンのほうは、どうなのか?
意外にも、この映画のなかで彼の口から恨み言が出ることはあまりない。
違和感のなかで生きてきたこと、「世界で一番美しい少年」というフレーズが重荷だったこと、右も左もわからないままに消費されてきたことについては、明確に語る。
でも、彼自身は、そこまでヴィスコンティを恨んでいる様子もないし、日本のことは「大好きだ」と述べ、「ぜひ再訪したかった」と言っている。要するに「悪い思い出」というわけでもないらしい。
どちらかというと、本人は自分の弱さ(&才能の欠如)のせいで世間の期待にアジャストできなかった部分のほうに、意識が行っているように思える。実際、彼はパリで一年放蕩して戻ってから、一本映画に主演し、結婚し、演劇学校に入り直し、二人の子どもを授かっている。少なくとも「『ベニスに死す』のせいで廃人になった」わけではまったくない。
おそらく彼をもっとも痛撃したのは、泥酔した自分の傍らで、長男を乳幼児突発死症候群で死なせたことであり、彼の人生が真に暗転したとしたら、起点はそこだったのではないか。
この映画における製作者は、(ある意味当然のことながら)「『ベニスに死す』に出演したせいでぼろぼろにされた美少年」という枠組みを常に強調するように撮っている。それ自体は別に噓ではないし、彼の人格形成に大きな影を落としただろうことは容易に想像できる。
ただ、そのまま観ていると、次々と「後出し」で、「実は母親に捨てられたうえ、自害されている」とか、「兄妹とも父親が誰か知らない」とか、「自分の庇護下にある状態でSIDSで長男を亡くしている」といった、もっと根本的な「彼を生きにくくした要素」が提示されるので、少しとまどってしまう。
ちょっと待って。それ、最初に言ってくれよ、みたいな。
いや、そっちのほうが結構大きい問題なんじゃないの? みたいな。
どちらかというと、僕の思ったビョルン・アンドレセンの人生は、殊更「特別」な悲劇ではなく、ほぼすべての「脱皮できなかった子役」たちに共通する、きわめて普遍的な物語だと思う。
複雑な家庭環境。ショービジネスに熱心な保護者。
あまり覚悟を決めずに出た作品で果たした大ブレイク。
異常なフィーバー。寝る間もないほどの多忙さ。
でも、それに続くヒット作はなかなか出ない。
顏はごつくなり、一瞬のかぎろいの美貌は喪われていく。
やがてオファーはかからなくなり、自尊心は毀損される。
なんとか大人になろうとするものの、子供の部分が抜けない。
家族ごっこは簡単に崩壊する(彼の場合は真の悲劇だが)。
酒浸り。ドラッグ。世捨て人。没交渉。エトセトラ、エトセトラ。
むしろ、僕から言わせると、『ベニスに死す』当時のビョルンは、「よく守られていた」部類に思える。
たしかに、今の感覚で観て、ビョルンを見初めて鼻息荒い(明らかに目の色の変わった)ヴィスコンティが「シャツを脱げ!」とか叫ぶと、「うっわあああ!」と思う。僕も思った。
でも、70年代に少年の身体を確認することがそんなに異常だったかと言われると、正直ふつうにあったんじゃないかと思う。ジャニーズだって、似たような齢の少年、さんざん半裸にしたり、透明のスケスケ衣装着せたりして今でも踊らせてるじゃん。
しかも、ヴィスコンティは、ほぼ同性愛者ばかりだったスタッフ全員(しれっとナレでそう言われててのけぞったw)に、「タジオを見てはいけない」との厳命を出していたらしい。「私は知らぬうちにヴィスコンティに庇護されていたのだ」とビョルン。
僕は、てっきり「ヴィスコンティにお稚児さんにされた」みたいな話をきかされるものだとばかり思っていたので、逆にちょっと驚いた。ちゃんと、商品には手を付けなかったんだな、あのじいさん。
いや、今の感覚でいえば、やはりビョルンは、食い物にされていたのだ。性的に消費されていたのだ。
それは間違いない。そこを否定したいわけではない。
でも、当時の感覚からすると、ヴィスコンティは、むしろビョルンを丁重に扱っていたようにしか思えないんだよね。
少なくとも、似たような時代に日本で、深作欣二が川谷拓三をモーターボートで引きずり回してガチで殺しかけたり、神代辰巳が水に沈めた中川梨絵を棒でさらに抑え込んだり、大島渚が吉行和子を縛って吊るして水かけて殺しかけてたことを考えれば、映画内でうつる撮影風景を見ても、ビョルンの扱いを見ても、「余程ちゃんとした現場」のようにしか思えないという話なんだけど(笑)。
観ていて思ったのは、柳楽優弥にしても、カルキン君にしても、「身を持ち崩す」子役って、たぶん自分の成し遂げたことと、得られた名声の「ギャップ」が自尊心を食いつぶすのだろうな、ということ。
ビョルンは、ヴィスコンティから指示されたのは、「歩け、止まれ、振り返れ、微笑め」の四つだけだったという(面白いな、こいつ)。たぶん彼は、「それくらい」しかやっていないのに、「あれだけ」の評価と評判がついてきたことが、とにかく重たかったんだと思う。
だって、ジャニーズやビリー・エリオット出身者って、概ねまっすぐ育ってるじゃない。あれって、「あれだけ頑張って」「あんな凄いことまで成し遂げた」結果として、名声や評判がついてきたから、それをしっかり受け止められるんじゃなかろうか。
逆に、そこの「努力・献身・達成」という過程がぽっかり抜けた状態で、「成功・名声」というご褒美がいきなり天から降ってきたときに、人間はどこかでゆがんでしまうものなのだろう。
人間は、努力と成果が釣り合わないと心の均衡を保てなくなるくらいに、本質的に「道徳的」な存在なのだ、きっと。
それにしても、不思議な魅力のある老人だ。
長髪の白髪に、皺の刻まれた顔。極端な痩身。
どこか悲しげで、とぼけたような風もある、澄んだまなざし。
とても66歳には見えない。80くらいいってそうな老けっぷりだ。
でも、なぜか少年のような佇まいもある。絵になる老人である。
これだけ苦労の多い人生を送ってきて、ゴミ屋敷で世捨て人のような生活をしながら、なんとなく飄然とした小ぎれいさは保っていて、えらく若い彼女が居て、献身的に世話を焼いてもらっている。
いしだ壱成や清原のような、才能をダメにしてしまった人間特有の悪相や負け犬感がない。
たしかに、彼は他の人以上に繊細で、傷つきやすく、感受性豊かな青年だった。
一人歩きする美少年のイメージと、望外の名声にたやすく押しつぶされてしまった。
両親に捨てられた寂しさと、喪った幼い命の重さに押しつぶされてしまった。
でも、彼はなんとか生きてきた。廃人になることもなく、自死を選ぶこともなく。
たぶんこの人は、ぎりぎりのところで致命傷を負わずに生きながらえる「すべ」を、長い苦難の人生のどこかで身に着けたのだ。人より断然弱いが、ぽきりと折れない芯の粘り、したたかさがある。そんな感じ。
傷ついた、ダメになったといいながら、彼女任せで10日もかけて掃除してもらって一言の礼も言わず、東京から彼女のスマホで電話をかけまくり、そのくせ若い男の影を感じたら詰問する。で、彼女にキレられたら途方に暮れ、「さてどうしたものか」と考え、考えるのをやめ、いやなことは後回しにして忘却する。そうしたら、そのうちまた勝手に彼女が戻ってくる……。
どうだろう、この爺さん。意外にしぶといではないか(笑)。
本作は、製作者にとってはチャイルド・アビューズ告発が主眼のドキュメンタリーかもしれないが、ビョルン・アンドレセンにとっては、長く立ち止まって考えないようにしてきた「苦しみの元」と、もう一度向き合い、次に進んでいくための糧を得る、「巡礼」と「再生」の物語でもある。
この5年にわたる自分探しと客体化の旅を終えて、彼が少しでも肩の重荷をおろして、生きやすくなっていることを心から願う。
にしても……ラストの日本語曲の羞恥プレイ感は半端なかった……(笑)
生まれ持ったカリスマ性 ☆
世界で一番美しい少年
想像していたよりも、ずっと
栄光に伴ったのは大きすぎる犠牲~ビョルン・アンドレセンの名声とその後
子どもの時、あるいは若いときに分からなくても、後になって分かることというのがある。それはやはり人生や世間といったことが分かってくることもあるし、何十年も後になって「事の真相」が関係者から明かされることもあるからだ。
『ヴェニスに死す』のタッジオについてのことも、それに相当した。私は映画を観ないわけではないしヴィスコンティの名前くらいは知っていたが、その作品に精通しているとか熱狂的なファンであるとかではなかった。しかし、昨年の雑誌記事において、異色作と言われた、少年愛を扱った竹宮惠子さんの『風と木の詩』の主人公の美少年ジルベールのモデルがタッジオを演じたビョルン・ドレドレセンだったと知ったとき、なぜだか急に「腑に落ちた」。あの、白黒のペンの線で表されただけにしては肌の透明感があり、金髪や反抗的な目つきもリアルなキャラクターには、背後にちゃんと人間のモデル、すなわちビョルンがいたのである。なんだか裏切られたような、幻想が醒めるような気分を味わった。
さらには、映画『世界で一番美しい少年』作中にはあの『ベルばら』の作者・池田理代子さんが登場し、オスカルのモデルもビョルンだったという。『ベルばら』の方が『風木』に先行しているが、当時(少女)マンガ界は一種の排他的な世界を形成していたのだと思う。そのなかを吹き荒れた熱狂の「嵐」だったのだろうか。
ビョルン・アンドレセンという美貌ながらわずか15歳の少年が、ヴィスコンティの名画となり、なおかつ間接的に『ベルばら』『風木』といった大人気作を産んだというのは驚くに値する。さらに、映画作中に描かれているように、ビョルンは来日して歌を録音したり、テレビCMに出演したりもしている。もちろん波及効果はそれだけではないに違いない。
しかしこうした栄光、富の力に比して彼自身はあまりに悲惨な体験をし、惨めな人生を送ってきている。それを関係者は十分に理解しているのだろうか? もう「起こってしまったこと」であり、映画も制作され、マンガも描かれ・・・であるが(そして私もこれを書いている)、ビョルンという一個人の多大な犠牲がなければ、これらはあり得なかったことなのである。
映画作中にあるように、ヴィスコンティにオーディションの際「服を脱げ」と言われたときに、ためらったそのこころのままに断っていたならば、『ヴェニスに死す』『ベルサイユのばら』『風と木の詩』すべてなかったかもしれないのである。(それでもほかの方法で名作、人気作、名声、富はもたらされたであろうが・・・)そして、多分そうあるべきだったのだろう。
あるいはビョルン自身も感じたらしいように、彼の母が生存していれば、また彼を庇うなり、疑問を投げかけてくれるなりする人がいて、事態の展開は違ったのかもしれない。
今日の「子どもの権利」的感覚で言えば、ビョルンが体験した一連の出来事は、子どもの意思といったものに対するかけらの敬意も「お伺い」もない。あったのはただ大人の欲望や利権だけである。そのために一人のティーンエイジャーの子どものこころと身体は蹂躙され、引き裂かれたのだ。
この作中に映されているような本人状態-すなわち構わない部屋、火元を管理しないこと、うまく行かない恋人との関係、また過去の、父親としての責任を取れなかったことなどは彼の生い立ちを考えれば何の不思議もない。心理学的に言えば、彼の人生には数々の喪失やトラウマがあるからだ。まず、父親を知らなかったこと、いなかったこと。若くして母親の不在期間があり、また母親を失ったこと。祖母に利用されたこと。ヴィスコンティに利用され、またそのクルーに性的に搾取されたこと、などである。
これだけあれば何十年経ってもうつ、不安、PTSDなどに悩まされるのはある意味当然、と言ってもよい。
通常、たとえば演劇学校などに行ってから映画に出たりするものだと思われるが、ビョルンの場合、逆である。名声は得られたとは言え、俳優に「なりたかった」というよりは運命によって「させられた」と言った方がよい。そのため彼はあとから演劇学校に行ったようだ。
この映画について友人と会話していたとき、今だったら#MeTooで許されないよね、という話が出てきた。こうした過去の栄光や過ちというのはどういう風に処理されればいいのだろうか? 美や芸術のためであれば、多大な犠牲があったり、一個人の尊厳が踏みにじられていいのだろうか? とてもそうは思えないが、「どこまで?」 答えの出ない気持ちで取り残された。
人生は見えているよりずっと長い
単純に「あの人は今」的な面白さもあるが、多感な10代のさなかに突然名声を手にした少年が、大人たちの想いと時代の要求に翻弄され、世界で一番美しい少年という虚像とパーソナルな実像とのギャップの中で苦悩しながら"消えていった"50年間の生身の人間ドラマとして非常に興味深い。
ノスタルジックで輝かしくそれでいてどこか空虚にも見える過去の記憶と、リアル過ぎるほどの現実の間に横たわる一人の男の人生の深淵を覗きこみ、少し切なくなった。
美しさを持て囃しては消費しまくって、あっさりと投げ捨ててしまうこの世界の身勝手さに翻弄された人はたぶん多いだろうが、そこから破滅へと突き進むのか、過去を捨てて再生するのか。
人生は見えているよりもずっとずっと長く、照らされていない時間も続いていくものなのだ。
ベニスの海岸にもう一度対峙した今のビヨルンが美しかった。長生きしてほしい。
正直に書くと、私も彼のことを「見る=観る=消費する」対象として、じっくり賞味したいという欲望を持ってスクリーンに臨みました。「ベニスに死す」の限られたカット以外に、当時のオーディションの模様やその後のドキュメントフィルムでもって、あのお美しいお顔を堪能したかったから。ルッキズムってやつですかね。
見終わって、魅せられたと思うのはそれよりも「現在の」彼の容姿と言葉。どちらも実にユニークで誠実で天然のオーラに溢れていていました。一方伝わったメッセージは普遍的でした。彼の存在はオンリーワンかもしれないけど、「人(大人)が人(子ども)に与えてしまった罪の結果」を背負って生きるとはどういうことかの普遍的なサンプルとして。
70年代、私は小学生でした。明治のチョコレートCMに出ていたのは(「小さな恋のメロディ」のマーク・レスターかと記憶していたけど違っていて)ビョルンでしたの驚き。(ちなみにマーク・レスターは森永ハイクラウンだったらしい、このパッケージも懐かしい)確かに、動くオスカル様。封印されていた当時の記憶の蓋を怖いもの見たさで開けたくなる、調べたくなる、ヴィコンティのことは嫌いになったけど、作品はもっと見てみたくなる、もやもやさせられる魅力に富んだドキュメンタリーでした。どなたかも書いていらしたけど、エンドロールに流れる歌(彼が日本語で歌わされたどマイナーな歌謡)が哀しかったです。
いまもきれい
彼が今ここから歩き出すための映画
初老を迎え容姿は変わったものの、スリムで高身長のスタイルと憂いを帯びた佇まいは、未だ見栄えがするが、今は60代であるにも関わらず、彼の言動は頼りなく依存心が強いうえに、自己中心的で自己肯定感が低い
僅か16歳で"世界で一番美しい少年"と形容され、世界中から注目を浴びる存在となり、誰からも自分の身を守る術も心の保ちようも教えられないまま、大人達に利用され消費され続けた少年期から、美少年役に囚われ続けた青年期、悲劇から家庭も壊れアパートで1人暮らす現在
過去の映像の中の笑顔と現在の笑顔は、どちらも同じ様に俯きがちで弱々しい
このドキュメンタリー映画を作ることは、彼にとって過去に向き合い人生をリスタートさせるための大きな決断であり、チャレンジだったんだと思う
エンディング、海辺に立つ背中に、そっとエールを送りたくなった
圧倒的に求められる幻想と現実の間で起こっていた事実
「ベニスに死す」で圧倒的な存在感だった青年が
現実社会ではどうであったか?ということを考えたことがあるだろうか?
世の中にありとあらゆる美男美女が彗星のように現れるが
果たして幸せだったか否かということを悩むことは見る側には無い
華やかな舞台で燦然と輝く存在がまさかこんな人生を辿っていたとは
驚きでもあったし目を背けたくなるほど、言いようのない人生がここには描かれていた。
何を持って幸せかは人の持ちようであるが世界を魅了した青年がどういう経緯で脚光を浴び、苦悩したのかは誰も知らなかった。
当たり前であるが見る側には演者の背景なぞ見えないほうが、その物語にとっては良いことなのだろうが、こんなにも明暗がある人生だと見る人すべてが申し訳なかったと思いざる負えない
人は表舞台に立つ人が華やかで豊かな暮らしを現実でもしているだろうと
当たり前にすり替えてしまうけど、決してそうではなく
それを演じられた役者には称賛をすべきだけど、それが全てと現実を混ぜてその人を歪めてしまうことは幸福な中での不都合であるとエンドロールに流れる歌をそんな気持ちで聴いた
今もオーラすごっ!
僕らは守られている
作られたイメージの重苦
「ベニスに死す」の美少年の、その後を描いたドキュメンタリー。
早々に現在のご本人登場するので、「えええ!こんなに劣化!?」な衝撃少なめ。
…まぁ、そこでビックリさせる映画ではないので。
「ターミネーター2」のエドワード・ファーロングや
「コマンドー」のアリッサ・ミラノとか、
日本でだけ歌手デビューしたスターは知ってはいましたが、
まさか、この方も日本で歌手デビューしてたとは知りませんでした。
しかも日本語で!
しかも酒井政利プロデューサーで…!
そっち系で裁判沙汰になってましたよね。…あ、怪しい。
「ベルばら」の池田先生との対談では、柔らかな表情だったのに、
酒井政利プロデューサーとの対談になると、顔がめちゃくちゃこわばって、目に敵意??
やっぱり当時、何かされたのかな…?と色々と憶測。
今当時の写真を見ると、そんな中性的な感じでもないのに、
映画やマスコミって、いくらでもパブリックイメージ作り出せるんだな、と改めて思いました。
本人が本当に中性的で、そういう性的指向であったなら、また違った人生になっていたのだと思うと、ものすごくやるせない気分になりました。
(原題) Varldens vackraste pojke
日本人でごめんなさい
他の映画を観に行った時に美しい少年のポスターを見かけ、この映画を知りました。
少し調べて「ベニスに死す」の主演俳優のドキュメンタリーと知り、予習がてら自宅で鑑賞してから映画館に行って正解。これから鑑賞する方もこの方法をおすすめします。
ビョルン氏が日本で大ブームになり、子供なのにめちゃくちゃ働かされたくだりは辛く…でも「The日本人が好きそうな風貌」に熱狂してしまった当時の日本人の気持ちもわからなくもなく…今回の再来日で少しは楽しい思い出できただろうか…いまだに日本の通販とかファッション雑誌とかは男女問わず白人モデルで賑わい、若く美しくないと価値がないとされているとか知らないで帰国したかな。
あまり救いのない映画で辛いけど、白髪で髭をたくわえていてもカリスマ性が否めない…嫌かもしれないけど可能ならばこれからも映画出演して欲しいと思ってしまいました。
【余りに美しき故の、少年のその後の哀しくも切ないジェットコースター人生を描いたドキュメンタリー作品。】
- ルキノ・ヴィスコンティ監督が、「ベニスに死す」で、主人公の老作曲家が恋する美少年タジオを演じる少年のキャスティングで、ビョルン・アンドレセンを見付けた時の反応。
様々なポーズを取らせ、果ては衣服も脱がせるシーンが強烈である。
診る側はビョルンの15歳とは思えぬ色気、流し目にヤラレルのであるが、彼はこれをきっかけに栄光と苦悩の50年を過ごすことになるのである。
今作は往時の記録映像(日本での映像は、本当に日本人として、恥ずかしい・・。)を交えつつ現在のビョルンと関係者の回顧で描き出したドキュメンタリー作品である。-
◆感想
・芸術家の母親の自死。
- 父親の名を明かさないまま自死する辺りが、ビョルンのその後の人格に与えている気がする。ー
・いきなり大人の好奇心溢れる有象無象が蠢く世界に放り出された少年の戸惑いは想像もつかない。本来であれば、彼を庇護すべきお婆さんも世間同様に舞い上がり、「ベニスに死す」で端役を貰い喜ぶ姿。
- だが、最後半、彼の娘さんがモノローグで語っているように、彼はキチンとした大人から庇護されるべきであったのだ。-
・家庭を持ち、2人の子に恵まれ、これから幸せな人生を・・、と思っていた矢先に起きた悲劇。
- 彼の人生は、激しいジェットコースターのようである。-
・後年、「ミッド・サマー」で見た老人が、パンフを見たら、ビョルン・アンドレセンであると知った時は衝撃だったが、お元気な事を知り、嬉しくも思ったモノである。
<”世界一の美少年””に祭り上げられた少年の波乱万丈の人生を描いた哀しきドキュメンタリー作品。
現在の長身痩躯の彼(年齢を重ねても美しい・・。)が長女と久しぶりに逢い、昔の写真を見て笑い合い、抱き合う姿は、染みたなあ・・。>
花の命は短くて苦しきことのみ多かりき
林芙美子の言葉のように、花の命は短いのだ。誰しも老いは平等だし、いつまでもチヤホヤされ続けるのは難しい。
人生は苦悩だらけだ。
一瞬の素晴らしい煌めきを切り取った映画が全てを変えたのでしょう。
世界で1番美しくても後の人生は息子を亡くしたり苦しいことが多く、アルコールに溺れたり鬱になったり。
でもさ、とにかく優しい、いい娘がいて良かったよね!
子供を作っておいてほんとに良かったんだよ。
フランスでゲイのおじさん達のトロフィーとして飲み込まれて、そのまま子供を作っていなかったとしたらもっと荒んでたのではないかな。
キリストのような髪と髭を蓄えたったおじさんの姿になっても命を絶たず生きながらえていて良かったと思う。
私がオバさんになってもを歌う綺麗なおばさんになった森高千里のように、今も尚、このような映画で望まれ、注目に値するおじさんなのだから。
日本語の歌詞の歌のメロディが物悲しい。
でも、あなたがいたからオスカルや美少年マンガが生まれたなんて、やはり美は罪作りなほど人々を魅了するのだ。
美しく生まれることは罪なのか罰なのか
『ミッドサマー』で強烈な印象を残した老人が、実は「世界で一番美しい少年」だったということを後から知って、とても興味を持っていた。
当時の映像が流れると、めちゃくちゃ納得した。こんな陰翳を持った美少年が有名監督の作品に出演したら世間がほっておくわけない。少女マンガから飛び出したルックだと思ったら、逆にビョルンがベルばらのモデルになっていたなんて。
美しく生まれることが罪なのではなく、美しさそのものに引き寄せられる大人たち、利用して金儲けしようとする人間に人生を狂わされてしまう。
思わず二度見してしまうくらいの美しい姿になって見たい。この作品を観終わったあとでも、その願望を捨てることができない。美に対する羨望や嫉妬はDNAに刷り込まれているのではないか。そうだとすると、悲劇は永遠に繰り返される。
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