劇場公開日 2022年12月9日

「もっと感動的な映画にできたはず」ラーゲリより愛を込めて アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)

2.5もっと感動的な映画にできたはず

2022年12月9日
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原作は未読である。シベリア抑留は、第二次世界大戦の終戦前後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソ連によってシベリアなどソ連各地やソ連の衛星国モンゴル人民共和国などへ労働力として連行され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により、多数の人的被害を生じたことに対する日本側の呼称である。男性が多いが女性も抑留されている。

シベシア開発は 19 世期末のロシア帝国が開始したものをソ連が継承したもので、豊富な資源の開発とこの地域の重工業化を図って国力増強を目論んだ政策の一つであったが、厳冬期には -40℃ 以下にもなるという過酷な環境のため労働者が集まらず、1920 年以降は囚人が強制労働を強いられ、10% 以上が死亡するという凄惨な結果を招いた。

スターリンは、このシベリア開発の遂行のために、囚人の代わりに捕虜を用いたのである。当時、国交のなかった日本からの賠償は、外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることを当然と考えていた。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は 1929 年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931 年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。

1945 年8月9日のソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満州、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島で戦後にかけて抑留された日本人は約 575,000 人に上る。厳寒環境下で、満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約 58,000 人が死亡した。

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであり、国際法違反であった。国際的にそれが指摘されて、1947 年にソ連は一部の抑留兵を開放して帰国させたが、残りは諜報活動などの言いがかりをつけて戦犯として抑留が続けられた。戦犯であれば当事国の法律によって量刑が決められるので、25 年もの長期刑を言い渡される者が多かった。結果的にシベリア抑留が終わるのは、日ソが国交を回復した 1956 年まで待たなければならなかった。終戦から 11 年後のことである。

シベリア抑留者の集団帰国は 1956 年に終了し、ソ連政府は 1958 年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した。だがソ連占領下の南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否確認や帰国の意向調査を妨害し続けた。

ソ連の継承国であるロシア連邦のエリツィン大統領は 1993 年に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないと言い張っている。

以上のような戦前戦後の状況が、この映画では一切述べられていない。終戦間もない日本人には身内に抑留者のいる家庭も多く、身近なこととしてある程度常識的な話であったが、それは今から 50 年以上前ならではの話であって、2022 年の観客にこうした説明なしに話を進めるのはあまりに雑であると言うべきである。

スパイ容疑で収容されている者には文書の持ち出しが厳しく禁じられていたことや、収容所で行われていた共産主義化教育なども、もっと執拗で容赦ないものであったはずだが、非常にあっさりとしか描かれていないのが非常に不満である。シベリアの酷寒の描写もまた甘口で、「八甲田山」の恐怖を感じさせるような描写の足下にも及んでいなかった。

抑留者たちの飢えに苦しむ様子を描く一方で、日本の家族の暮らしぶりの描写の中で、サンマを焼くのに失敗するのはともかく、それを地面に落とすという無神経さには腹が立った。この映画の制作陣の限界を見た思いがした。映画のテーマが感動的な話であるからこそ、そういうところをいい加減にして欲しくなかった。

もっといくらでも練り上げることのできるはずの脚本と演出だったと思う。俳優陣の頑張りには敬意を表するが、上辺をなぞっているだけの音楽と、場違い感の酷いエンディングの歌謡曲には神経を逆撫された。クリント・イーストウッド監督にでも頼んで撮り直して貰ってはどうかと思った。
(映像4+脚本2+役者4+音楽1+演出2)×4= 52 点。

アラ古希
アラ古希さんのコメント
2022年12月30日

洗脳は無意味ですよね。未だに解けてない人もいっぱいいるようですが。

アラ古希
夏子さんのコメント
2022年12月29日

そうです。父はフリをしていただけなので、帰国後は共産主義のことは話題にも出ませんでしたが、自分は赤思想に染まっていたという人も、舞鶴に着いて故郷へ向かう列車に乗り、故郷の駅が近づき、迎えに来る家族や友人の顔を思い出しているうちに共産主義のことは忘れてしまった、と書いてあった手記を読んだことがあります。

夏子
ゆたぼーさんのコメント
2022年12月27日

でも大半の人は国内に帰ったら元に戻ったらしい?

ゆたぼー
アラ古希さんのコメント
2022年12月9日

貴重なコメント有難うございます。共産主義化はもっと日常的にあったはずなのですが、物足りない描写だったのが残念でした。

アラ古希
夏子さんのコメント
2022年12月9日

なるほど。私、79歳。3歳の時に満州から引き揚げ。父は関東軍の軍人。終戦時、ご多分に漏れず、父はシベリア抑留。3年で帰国しました。この映画の主人公は、10年近くも抑留されたんですか。父達は将校たちだけが集められた収容所で、労働よりも、赤思想教育がメインの目的だったようで、早く日本に帰りたいから、赤思想に転向したフリをしていたそうです。フリをしていた人が8割、フリをできなかった人が1割、本当に転向してしまった人が1割くらいと言っていました。フリをできなかった人は、長く留め置かれたそうです。本当に転向してしまった人は、帰国時の船中で(船中はもう日本)リンチにあったそうです。この原作の話は何かで知っておりましたが、映画はこれから見に行こうと思います。色々知っている私には、やはり、違和感を感ずるところがあるかもしれません。

夏子