「リサ・トレヴァーではない何かがいる」バイオハザード ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ kekeさんの映画レビュー(感想・評価)
リサ・トレヴァーではない何かがいる
予告編のやたら明るい歌と、
「ウェルカ~ムトゥラク~ンシティ~」
という妙にもったいぶった声を聞いたときに何となくまずい気はした。
結果としては別の映画にバイオのパロディを持ってきたような出来だった。
この監督は今回やりたいことが多すぎて収拾がつかなくなったのか、
とにかくバイオネタを撒き散らしてみんなで笑いたかったのか、
どこにコンセプトを置いたのかが映画だけでは理解できない。
どちらかにパッと振り切れたら楽しめるのに。
例えばハーブを食べるシーンが無く、
それをやっていれば「ああ、そういうコンセプトか」と割り切って鑑賞できたはずだ。
2時間の尺度としては明らかに詰め込みすぎであり、
にも関わらず不要なシーンが散見されるため、きっと10時間あっても足りなくなると思う。
[その他、個人的に良くなかった点]
なぜかバイオ1と2が融合して全員集合している。
ゲームと映画で人物像が違いすぎて頭の整理に時間がかかる。
脇役である署長の描写が多い。
恐怖感より音でびっくりする。
主軸の時間が明らかに足りないのに何度も回想シーンを見せる。
なぜかゾンビが民家の窓に「かゆ うま」と血文字を書く。
ポケモンショック並にフラッシュが連発する。
タイラントがベラベラ喋る。ロケラン一発で死ぬ。
レオンの精神年齢が低すぎてイライラする。
リサが仲間になっている。
リサ・トレヴァーの悲しさに重きを置いたという監督の言葉に期待していたが、
まず彼女の生い立ちの説明が無く、
あろうことかリッカーを退治してくれる仲間になっていた。
恐怖感は綺麗サッパリ消滅し、ロードオブザリングの怪物仲間の様相である。
これでは原作無視を通り越してオリジナルキャラではないか。
日本とアメリカで悲しさの解釈はこんなに違うのだろうか。
本来、ゲームにおけるリサ・トレヴァーの存在がなぜ「重い」のかといえば、
少女が幽閉されてやばい実験をさせられている噂を知る。
だんだん怖くなったところでふいに本人が登場する。
よく見たら人の顔の皮が継ぎ接ぎにくっついている。
手枷や足枷をしているくせに超人的に強い。
大して存在感も無いのに異様に粘着してくる。
しつこいから殺すしかない。
死ぬときも悲しそうにする。
後になって皮の継ぎ接ぎは愛する両親を想う故の行為だったことを知る。
こういった「後味の悪さ」にある。
ここをすっぽかされては知る人知らぬ人も感情移入できないだろう。
ただ自分も知らないネタが紛れていたので、
バイオ好きという監督の気持ちは評価したい。