「だいじょうぶな顔」マイスモールランド 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
だいじょうぶな顔
(映画が言いたいこととは全く視点がズレているので閲覧注意です。)
衣食足りて礼節を知る。ということわざがある。『生活にゆとりができてこそ、礼儀や節度をわきまえるようになる。』という意味だが、つねづねここに付け加えたいことがあった。
それは容姿、見た目、顔、ルックス、外見──である。
モデルや俳優ほどの美しさは必要ないが、きれいな「それ」は人生を大いにしのぎやすくする。
少なくとも「それ」にコンプレックスや悩みがなかったら(礼儀や節度をわきまえた)良い人生をおくることができる──と考えたことはないだろうか?
誰しもきれいな人といっしょに居た経験があるだろう。
たとえばきれいな女とデート中、かのじょが誰からも親切にされるさまを見たことはないだろうか。
たとえばきれいな男と街へ行き、かれが市井に易々と打ち解けるさまを見たことはないだろうか。
学校で職場で巷間でテレビでTiktokで、わたしたちは日常的に、きれいな人間が社会から遍く優遇される様を見せつけられている。
そもそも人がはじめて集団と交わる保育(or幼稚)園や小学校のときから、じぶんの「それ」で社会や他人がどこまで心を開いてくれるのか──の見きわめを始めるわけである。
ところが「それ」は誰もが影響を被りながらタブーでもある。
TikTokで「それ」を誇らかにさらしているばかりか、みずからのエロス資産をゆさゆさ揺らしている人が山ほどいるのにタブーなのだ。
だれもがきれいな「それ」を求めながら「それ」は決して人間の真価ではありませんという体裁で社会は進行していくのだ。
けっきょく「それ」にコンプレックスがあったとて、なんでもないような体裁で生き抜いて、黙って棺までもっていくほかはない。
逮捕された男の「それ」を見るたびに「こいつモテなかったんだろうな」と感じるのは思い過ごしじゃない。男がみんなモテるならテロリストも戦争もなくなる──とは、あるていど本気でそう思う。
──
難民申請するクルド人一家の話。
受け容れてもらえず働けず越県できず親は収監され、どうしようもない状況へ陥っていく。
もとよりかれらの苦悩に言葉はない。
川和田恵真監督は是枝裕和監督をはじめとする映像作家集団「分福」出身で、すくなくとも新進の日本映画がやらかすアートな気どりはなかった。その点は良かったが、言うなれば“上手じゃない是枝裕和”という感じの映画で、しんみりムードが“一杯のかけそば”のようだった。可哀想なエモへ振って是枝風に宙ぶらりんで幕引きする。
なお平泉成の人権派弁護士がすごくよかった。名古屋章のように声がかすれる感じに疲弊感が出る。巧い。
ところで、映画を見て思ったのは映画の主張とは違うことであり、とりあえず装丁と概要を見た時点でこの子にいったいどんな悩みがあるのだろう──と思った。
主人公を演じた嵐莉菜は『母親が日本人とドイツ人のハーフ、父親が日本国籍を取得しており、イラクやロシアにルーツを持つ元イラン人。』(byウィキペディア)であり、かのじょが持っている「それ」は社会制度を凌駕する資産に見えた。
むろん映画の主張と噛み合わない不適切な感想だが、しばしばハーフの方々が言及するいじめ体験は、その洋顔がもたらす恩恵をスポイルするとは思えない。──と個人的にはよく思う。
日本でクルドやスラブやゲルマン系の顔がマイナスなんてことはあり得ないわけである。
とはいえサヘルローズさんがたいへんなご苦労された方なのは知っている。
ただわたしが前段で述べたのは端的に言えば“きれいな顔の人生はいい”ってことだ。繰り返すが、それがこの映画とは何の関係もないことは知っている。
たとえば、じぶんが八百屋のオヤジだったらKO(きもいおっさん)にびた一文まけないだろう。ぎゃくにきれいな洋顔の子だったら「お姉さんきれいだからおまけしとくよ」とか言って大根葉かにんにくの芽かメークインでも入れてやるだろう。それがばかげた喩えだとしても、概して人生とはそういうものだ。それを生き易さというのだ。だからこそ「それ」がきれいであれば、礼節を知って穏やかに生きることができるのだ。
そもそも俳優がきれいなのは人の共感を集めるためであり、すなわちクルド人の難民でさえ、もし嵐莉菜の顔をもっていたなら、たとえばわたしのようなKKO(きもくて金のないおっさん)よりも、はるかに幸多い人生を過ごすことができる。──ということを言いたかったのだ。