マイスモールランドのレビュー・感想・評価
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「気にせずにすむ人」と「気にしなくてはいけない人」
これは今年を代表する日本映画の一本だ。川和田恵真監督は大変才能のある作家であることをデビュー作で見事証明した。脚本も的確で、役者たちの芝居を引き出すのも上手い。在日クルド人が直面する理不尽な現実を見事に浮き彫りにする。是枝監督の分福の出身だが、どこか「誰も知らない」っぽさを感じさせるというか、是枝監督の演出力と社会を見つめる距離感の取り方などをかなり色濃く受け継いでいると思う。
日本人なら簡単に超えられる東京と埼玉の県境が、クルド人である主人公には大変に重たい境なのだという現実。日本人は県境を超える時、特別な感慨など持たないだろうが、県境を超えるだけでものすごく大変な思いをする人々がこの国にはいる。
マジョリティとは「気にせずにすむ人々」のことだと社会学者のケイン樹里安は言った。本作は、まさに「気にせずにすむ人々」と「気にしないといけない人々」の違いをわかりやすく描いている。サーリャは県境を気にして生活しないといけない。だが、日本人の聡太は県境などほとんど気にせずにすむ。
今もっとも観られるべき作品の一本。川和田恵真監督の才能を日本映画界は大切にしてほしい。
そして、機会があれば「東京クルド」というドキュメンタリー映画も一緒に観てほしい。
不条理な状況を知る糸口になる作品
「国を持たない世界最大の民族」と呼ばれるクルド人。土地を奪われ戦い続けるも、立場を追われ難民として新天地へと向かう場合も少なくないなか、日本にも難民申請中のクルド人が2000人近く暮らしている。
ただ、難民のドキュメンタリーを目にすることはあるが、在留資格の線引きは正直なところ分からないことが多いのが現状だ。
この難題をドキュメンタリーではなく、フィクションとして描いた本作は、「知る」ことよりも「共感する」視点が大きい分、見る側は自然と、他人事でなく考えられるようになっている。
主人公は、家族とともに生まれた地を離れ、幼い頃から日本で育った17歳のサーリャ。現役高校生でモデルでもある嵐莉奈がクルド人のサーリャを演じていて本作が女優デビューとなる。役柄の大事なところを把握している透明感ある演技で、とてもデビュー作とは思えない風格を持つ。
さらに、『MOTHER マザー』で長澤まさみ演じる母親との関係に翻弄される息子という難役を演じ切った奥平大兼が、2本目の映画となる本作で見せる新たな顔にも注目したい。
脚本・監督は、「分福」所属で是枝裕和の監督助手を務め、本作で商業長編映画デビューとなる川和田恵真。確かに私は、本作を見ながら『誰も知らない』(是枝裕和監督)の空気感と空虚さを思い浮かべていた。
前向きで優秀なサーリャが引っ張るフィクションという面では未来志向で空虚には終わらないので、これからの社会の在り方を考える上でも見ておきたい作品だ。
新人監督が世に送り出した社会派青春ドラマの好作。上の世代も見習うべき
近年は日本でも、新人監督がこの国の社会問題を題材にし、啓発的なインパクトも見込まれる力作、好作でデビューする例が増えてきたように思う。藤元明緒監督が在日ミャンマー人家族の試練を描き、本作ともテーマが近い「僕の帰る場所」(2018)、HIKARI監督が脳性麻痺の20代女性の成長を描いた「37セカンズ」(2020)などが思い浮かぶが、川和田恵真監督によるこの「マイスモールランド」も、そうした流れに沿う一本だ。
もちろん、在日外国人やさまざまなマイノリティーと社会の関係性をめぐる問題は、劇映画でもドキュメンタリーでもたびたび扱われてきた。記憶に新しいところでは、諏訪敦彦作「風の電話」(2020)にも、埼玉県にある実際のクルド人のコミュニティーが登場した。「風の電話」も良作だが、モトーラ世理奈演じる主人公が旅人としてクルド人コミュニティーに立ち寄ったのに対し、「マイスモールランド」で嵐莉菜が演じる主人公は、日本人の若者とさほど変わらない普通の17歳であることが特徴的。家族とともに日本に逃れてきたクルド人だが、幼い頃から日本で育ち、高校やバイト先で周囲に馴染もうとし、将来は教師になる夢を持っている。そうした人物設定により、観客も感情移入しやすく、この問題を自分事として考えるきっかけになるように思うのだ。
邦画界には、問題意識が希薄で内に閉じた作品作りの傾向が確かにあり、“ガラパゴス”と揶揄されることもあるが、こうした若手たちの登場は頼もしいし、上の世代も大いに見習ってほしいと思う。
新星・嵐莉菜の今後に期待を抱かせる良作
第72回ベルリン国際映画祭のジェネレーション部門に出品され、アムネスティ国際映画賞スペシャルメンションが贈られた「マイスモールランド」。是枝裕和監督が率いる映像制作者集団「分福」所属の若手・川和田恵真監督の商業映画デビュー作だが、主演にはモデル出身の新人・嵐莉菜を抜擢。5カ国のマルチルーツを持つ嵐は、在日クルド人の少女サーリャに寄り添いながら丁寧に演じ切り、初めての映画出演としては及第点以上と断言できるほどの頑張りを見せている。これからどのような芝居を見せていくのかに大きな注目が寄せられる。
大きな課題
難民制度を題材にしたすごく重い題材です。
解決策が、現時点であるわけではないので、モヤっとした状況で終わるのが、映画としては残念ですが、重い課題として心に残ります。
腹が一番立つのが、資格が取り消されたことを正しく伝えないお役所仕事。
まさに日本の役所にありそうと思えてしまうところが、残念でしかたないです。
親だけ送還されて、子供は?とか色々と課題認識だけが残りました。
「多民族共生」の理念が揺らぎつつある今だからこそ、観ておきたい一作
本作の企画・公開時点ですでに、日本政府の難民認定に対する消極的な姿勢、そして名古屋で入管施設に収容中だったスリランカ女性が死亡した事件など、日本における難民問題は大きな注目を集めていました。
本作の舞台となった埼玉県川口市には、現在も作中に登場したような状況にあるクルド系の人々が多数居住していますが、彼らの状況は改善しているどころか、むしろクルド人、日本人双方の対立感情がより先鋭化しています。こういった状況だからこそむしろ、「不法移民」という言葉で、一律で違法性や犯罪性と結びついたイメージを押しつけがちな彼らの事情を知ることの重要性が高まっています。
本作は、複数の日本在住のクルド系の人々に対する聞き取りから作り上げた、まったくの架空の物語ではないにしても一種の創作なので、本作を観ただけで川口市におけるクルド人問題を理解したような気になることもまた、少々危険性ではあります。しかし不法就労を目的とした来日ではないにもかかわらず、難民申請の認定が非常に困難、というかほぼ不可能な現状であったり、意図せず不法滞在状態となった場合の「仮放免」措置が、就労を認めない、移動を厳しく制限するといったおよそ現実的ではない制約を課している、といった問題の一端を、主人公サーリャとその家族の生活視点から知ることができます。
映画としては、サーリャ演じる嵐莉菜の、映画初主演とは思えない存在感、特に目の演技の巧みさが強く印象に残る一方、妹役のアーリン(リリ・カーフィザデー)や聡太(奥平大兼)にももうちょっと物語があったんじゃないかなぁ、とも感じました。これは要するに、それだけ作中では描き切れていなかった奥行きを感じる人物描写だった、ってことなんですが。
社会問題を扱っただけでなく、一種の青春映画としても観ることができる、程よい甘さと苦さを伴った場面を差し挟んでいるところに、川和田恵真監督の、劇場公開長編映画としては初監督とは思えないような技量の巧みさを感じました。
特に、作中たびたび登場する、サーリャが自宅の洗面所で身支度を整える場面が、その時の状況や彼女の心境の変化を分かりやすく反映していて、アクセントとして効果的でした。もう一度この場面の描写の変化を追って観返したくなるほど。
本作が正面から描いた、日本における難民問題やクルド系の人々との共生の問題は、すぐに即効性のある解決策が浮かび上がる類のものではありませんが、少なくともその複雑な現状の一端を理解する上での、非常に多くの見方を提供してくれる作品でした!
この映画を見るまで
「クルド人」とはどんな人たちなのか知ろうとさえしなかった。
戸田公園近くの橋を、私たちは普通に渡るが、それができない人々がいることは、とてもショックだった。
今、川口市での様子がニュースで報道されるが、この映画を見ていなかったら関心を寄せることもなく、何が起こっているのかを知ることもなかったろう。
見てよかった。
クルドから来た難民 挫折から見い出す希望への道!
クルドから日本に来た家族が、保守、伝統を
重んじる気持ちが赤く染まった手のひらに
表現されていました。
クルド民の父親、妹、弟たちと一緒に暮らす
サーリャ。
家族のうち、1人だけクルドの言語と日本語を話せるサーリャ。
在日資格を失い、進学も危ぶまれる
サーリャの家族にはそびえ立つ国境、目に見えない壁がありました。
クルド民を見る日本人は、リベラル自由主義を唱えながら異質の目でクルド民を見ていました。
聡太は、サーリャを偏見の無い眼差しで見ていました。
他の日本人もクルド民の手助けとなりたい
日本の良き国民性が表れていました。
サーリャの澄んだ瞳、ハグをする所作は
美しい姿でした。
自分はクルド民だと胸を張って言える!
そんな近い未来をイメージするストーリーでした。
普通の女子高生として過ごしているはずが、クルド出身だからと難民認定...
普通の女子高生として過ごしているはずが、クルド出身だからと難民認定が却下され、徐々に居場所を剝ぎ取られてゆく様子。
世間のメディアは、国籍や人種などでラベルつけて煽るだけですが。裏には人知れずまじめな各国人さんもいること、再確認する契機になりました。
同じ人間なのにな
クルド人というだけで自国がなくなり日本に移住して住んでいるのに難民認定されなくなって、働くことさえできない。
島国で居住面積のアッパーが見えている日本では、どこかで線引きをしなければならないのだとは思うけど、同じ人間じゃないかよぉ…と虚しくなる。
主人公のサーリャが責任感が強くて、友達にも元先生にも好きピにも本当の自分を見せないし、相談もしないし弱みさえ気取られないように振る舞うのがまた泣ける。
好きピも、ぐいぐい突っ込んで聞くタイプじゃないけど、それくらいの方がサーリャには心地良かったんだろうな。
そんで妹の反抗期よ、私だったらお前も家賃工面するの手伝ってよーー!って言っちゃうだろうなー。あんな大人な対応できん。
最後はパパンが国へ帰る代わりに子供がビザを取得できる…ってところで終わるけど、ほんとに取れるのかな。
ビザを取得できても学校のお金とかどうするんだ…。もう養子にしたい。
そんでもって池脇千鶴の役作りすごくない?
特殊メイクなのかな…声は池脇千鶴なのに顔と体が別人でビビった。
難民認定はされず、特例で日本にいてもいいが仕事をしてはいけない。 ...
難民認定はされず、特例で日本にいてもいいが仕事をしてはいけない。
それでどうやって生活しろというのか、何とも無茶な要求をする。
父親は入管局に拘束され、17歳の少女が妹と幼い弟の面倒を見なければならないという。観ていて苦しくなった。
クルド人とは
日本に住んでいるクルド人は約2,000人といわれている。その多くが、埼玉県南部の蕨市と川口市に集まっている。彼らの多くは1990年代にトルコ政府の迫害を逃れて来日した難民である。日本では難民申請しても難民認定されるケースはほとんどないため、多くのクルド人は不安定な生活を送っている。
映画はこの難民申請不認定を題材にしている。クルド人の家族とともに故郷を逃れ、幼い頃から日本の地で育った17歳のサーリャは、埼玉県の高校に通い、同世代の日本人の生徒と変わらない生活を送っている。大学進学資金を貯めるため東京でアルバイトを始めた彼女は、東京の高校に通う聡太と出会い、自身の素性を明かすなど親交を深めていく。そんなある日、難民申請が不認定となり、一家が在留資格を失ったことでサーリャの日常は追い込まれていく。
在留資格を失って、サーリャは、高校に通えなくなり、大学進学の話もなくなり、バイトはクビになってしまった。生活のために働いていた父親も捕まり、入管に身柄を拘束されてしまった。県外への移動も制限されたため、サーリャと聡太は会うことがままならなくなった。難民鎖国日本の現状が垣間見えるが、逆に難民に認定された場合はどうなるのか、調べてみたら、永住者と同じ在留資格が与えられ、国民健康保険や国民年金に加入できるらしい。
この日本の難民政策に関しては現状が少しでも改善されていくことを要望するほかないが、私がこの映画を観て最も関心が高まったのは、日本にはあまり馴染みのないクルド人とはどのような民族なのかということだった。中東地域を中心に世界中に約3,000万人いるという国を持たない世界最大の民族、その外見や言語や文化はどのようなものなのか、埼玉県南部に実際に行って確かめてみたいと思った。
小さな島国日本、の更に小さな埼玉県
に閉じ込められた。
ただこの映画の問題点として、埼玉県に閉じ込められているのにも関わらず、滅茶苦茶東京に行くことが挙げられる。どうした?この勢いのまま、神奈川まで行く勢いじゃないか。日本の東京至上主義を感じるね。良くないよ本当。
国境線は人の心の中にあるね
埼玉県で暮らすクルド人難民一家に降りかかる災厄を少女の眼を通して淡々と力みなく描いた作品
その美しい瞳の奥に宿るものは果たして絶望なのか希望なのか
その答えはこの優れた作品を観た後で自分自身の考えを持つことが出来た人のみが知ることになる、そんなふうに思えたワン
ボキの答えは内緒だよーん😚
遅ればせながら凱旋上映にて
MOVIX川口にて凱旋上映が始まりました。気になっていた作品でしたが見逃していて残念に思っていたら今回の機会に恵まれました。ありがとうございます😊
日本に滞在する外国人に関する問題点を現実に即して映像化した秀作でした。若手アクターの好演もあって知的青春映画として素晴らしい作品であると思います。今後も入国管理局のあり方を始めとした外国人に対する常識的かつ友好的な対応が進むことを願っております。
20
今の日本に存在する見据えなければならない問題
(ネタバレですので鑑賞してから読んで下さい)
幾たびもの死者などを出している日本の入管(出入国在留管理庁、かつての入国管理局)のひどさは、もっと日本の国民にも知られる必要があります。
そして入管による強制収容の判断は、現在は入管の単独で決めることが出来ますが、その判断は刑事裁判と同じように、裁判所の公判で判断される必要があると思われます。
日本の一方的で独断的な入管の判断は、どう考えても難民であると思われる人々を難民認定することなく排除しきっていると、この国の難民認定の絶望的な割合の少なさからも個人的には思われます。
(欧米の難民認定率が約63%~25%の中で、日本の難民認定率は約0.7% ※難民支援協会より)
また真っ当に働いていると思われる外国人労働者への独善的な排除も数多く感じられます。
この映画は、そんな入管から(個人的にも現実にある不当と思える)難民認定されない家族のストーリーになっています。
しかし一方で、フィクションの映画として存在するには、テーマ主義で描いてはいけないとは思われます。
なぜならフィクションの映画では、描くのは人間であり、決してそれを利用したスローガンプロパガンダになってはいけないと思われるからです。
この映画は、そういう意味でテーマ主義から脱して、主人公のサーリャ(嵐莉菜さん)の普通の日常がきちんと楽しく描かれています。
このことはどんな立場の人であっても、地続きの同じ人間であることを私たちに伝えてくれます。
その上で、だからこそ入管の独善のひどさが際立ってくるのだ、とも思われてきます。
主人公のサーリャの家族は、サーリャ役の嵐莉菜さんの実際の家族というのを後で知りました。
その自然な演技は、とても初心者の演技とは思えず、みな自然で輝いていたように思われました。
この自然な演技を引き出した監督にも素晴らしさを感じました。
クルド人達の周りからあるいは彼らへの日本人の住民からの伝達に、日本語の出来るサーリャ1人に役割が押し付けられているなどの個々のエピソードもリアリティがあって良かったです。
惜しむらくは、サーリャと家族以外のクルド人達やサーリャの恋人になる崎山聡太(奥平大兼さん)の家族親戚などとの関係性が、サーリャの友人も含めて、(家族と恋人になる崎山聡太以外)一方的なワンターンの関係性で終わっているところに、映画としてのドラマ性にまだ改善の余地があったのではないかと僭越ながら思われました。
またカットの撮り方もまだま工夫の余地があるようにも思われました。
個人的にはその点が傑作になりえなかった点ではと思われながら、その点を差し引いても秀逸な映画となっているとは思われました。
だいじょうぶな顔
(映画が言いたいこととは全く視点がズレているので閲覧注意です。)
衣食足りて礼節を知る。ということわざがある。『生活にゆとりができてこそ、礼儀や節度をわきまえるようになる。』という意味だが、つねづねここに付け加えたいことがあった。
それは容姿、見た目、顔、ルックス、外見──である。
モデルや俳優ほどの美しさは必要ないが、きれいな「それ」は人生を大いにしのぎやすくする。
少なくとも「それ」にコンプレックスや悩みがなかったら(礼儀や節度をわきまえた)良い人生をおくることができる──と考えたことはないだろうか?
誰しもきれいな人といっしょに居た経験があるだろう。
たとえばきれいな女とデート中、かのじょが誰からも親切にされるさまを見たことはないだろうか。
たとえばきれいな男と街へ行き、かれが市井に易々と打ち解けるさまを見たことはないだろうか。
学校で職場で巷間でテレビでTiktokで、わたしたちは日常的に、きれいな人間が社会から遍く優遇される様を見せつけられている。
そもそも人がはじめて集団と交わる保育(or幼稚)園や小学校のときから、じぶんの「それ」で社会や他人がどこまで心を開いてくれるのか──の見きわめを始めるわけである。
ところが「それ」は誰もが影響を被りながらタブーでもある。
TikTokで「それ」を誇らかにさらしているばかりか、みずからのエロス資産をゆさゆさ揺らしている人が山ほどいるのにタブーなのだ。
だれもがきれいな「それ」を求めながら「それ」は決して人間の真価ではありませんという体裁で社会は進行していくのだ。
けっきょく「それ」にコンプレックスがあったとて、なんでもないような体裁で生き抜いて、黙って棺までもっていくほかはない。
逮捕された男の「それ」を見るたびに「こいつモテなかったんだろうな」と感じるのは思い過ごしじゃない。男がみんなモテるならテロリストも戦争もなくなる──とは、あるていど本気でそう思う。
──
難民申請するクルド人一家の話。
受け容れてもらえず働けず越県できず親は収監され、どうしようもない状況へ陥っていく。
もとよりかれらの苦悩に言葉はない。
川和田恵真監督は是枝裕和監督をはじめとする映像作家集団「分福」出身で、すくなくとも新進の日本映画がやらかすアートな気どりはなかった。その点は良かったが、言うなれば“上手じゃない是枝裕和”という感じの映画で、しんみりムードが“一杯のかけそば”のようだった。可哀想なエモへ振って是枝風に宙ぶらりんで幕引きする。
なお平泉成の人権派弁護士がすごくよかった。名古屋章のように声がかすれる感じに疲弊感が出る。巧い。
ところで、映画を見て思ったのは映画の主張とは違うことであり、とりあえず装丁と概要を見た時点でこの子にいったいどんな悩みがあるのだろう──と思った。
主人公を演じた嵐莉菜は『母親が日本人とドイツ人のハーフ、父親が日本国籍を取得しており、イラクやロシアにルーツを持つ元イラン人。』(byウィキペディア)であり、かのじょが持っている「それ」は社会制度を凌駕する資産に見えた。
むろん映画の主張と噛み合わない不適切な感想だが、しばしばハーフの方々が言及するいじめ体験は、その洋顔がもたらす恩恵をスポイルするとは思えない。──と個人的にはよく思う。
日本でクルドやスラブやゲルマン系の顔がマイナスなんてことはあり得ないわけである。
とはいえサヘルローズさんがたいへんなご苦労された方なのは知っている。
ただわたしが前段で述べたのは端的に言えば“きれいな顔の人生はいい”ってことだ。繰り返すが、それがこの映画とは何の関係もないことは知っている。
たとえば、じぶんが八百屋のオヤジだったらKO(きもいおっさん)にびた一文まけないだろう。ぎゃくにきれいな洋顔の子だったら「お姉さんきれいだからおまけしとくよ」とか言って大根葉かにんにくの芽かメークインでも入れてやるだろう。それがばかげた喩えだとしても、概して人生とはそういうものだ。それを生き易さというのだ。だからこそ「それ」がきれいであれば、礼節を知って穏やかに生きることができるのだ。
そもそも俳優がきれいなのは人の共感を集めるためであり、すなわちクルド人の難民でさえ、もし嵐莉菜の顔をもっていたなら、たとえばわたしのようなKKO(きもくて金のないおっさん)よりも、はるかに幸多い人生を過ごすことができる。──ということを言いたかったのだ。
詰め込む弁当
池脇千鶴は普通に心配して藤井隆に伝えたのだろう。藤井隆には守るべき店と風評がある訳で、彼の行動は責められようもない。ただ無力に差し出し低頭する彼と並んでこちらも低頭する思い。
学ぶ機会を得られることは良いことである。帰国に危険が伴う限りは難民認定しなければならない。外交問題ではなく人身の保護の問題である。それを軽視することは自身の安全をも軽視することである。それぞれの部局が護るべき立場を堅持することで、仕組みは正常に機能する。難民を保護すべき者は保護すればよく、他部局の論に同調してはならない。
私たちの未来に光がありますように
クルドって何処…?
多分ほとんどの人が、劇中で奥平大兼演じる青年と同じく思うだろう。
国を持たず、主にトルコ、イラク、イラン、シリアなど中東地域に分布。人口数は4600万人以上と言われている。
我々はそんな基本情報すら知らない。
ましてやその歴史、日本の入管の実態、彼ら個々が何を思うのかーーー。
こうやって映画を通じて知り得たのも何かの縁。
意欲的な作品で、意義ある作品。
かつてはオスマン帝国の領内に存在していたクルド人。が、第一次大戦でオスマン帝国が敗れてからは中東各国に分布。それぞれの国の情勢、武力抗争などにも翻弄され、難民としてあり続け…。
迫害を逃れ、日本にやって来たクルド人たちも少なくない。主に埼玉県の蕨市や川口市に暮らし、その数は2000人以上と言われている。
争いは無く、平和な日本。ようやく見つけた安住の地…ではなかった。別の不条理が彼らを襲う。
日本で難民申請が認定されるのは1%未満。1%未満って…。じゃあ、残りの99%は…? “仮放免”って場合もあるらしいが、要は不法滞在の身。故に仕事をする事も出来ない。驚いたのは、県外に出る事も出来ない。もし、違反したら…。
ある日突然、認定ビザが失われる。ずっとここで暮らしていたのに…。
入管で身柄拘束。行く行くは強制送還…。
自由を求めて平和な日本にやって来たのに、そこで遭う過酷な現状…。
逃れてきた国に居るのと日本で暮らすのと、どちらがいいのか…。そんな疑問すら浮かんでしまう。
日本の入管が厳しいのもそれなりの理由があってだろう。実際、悪質な不法滞在者も少なくない。
だが、そうなってしまった事、せざるを得なくなってしまった事、彼らをそう追い込んでしまった事、本当に苦しんでいる難民たち…。
どうすべきか、何とかならないのか、今一度見直すべきではないのか。
本作を通じて、一人でも多くの人たちに届いたら…。
作品は一人のクルド人少女の視点で描く。
17歳の高校生、サーリャ。幼い頃日本にやって来て、以来ずっと日本で暮らす。
母親は亡くなり、父、妹、弟の4人暮らし。
将来の夢は小学生の先生。日本に来たばかりで日本語も分からなかった幼い頃、よくしてくれた先生に憧れて。
その夢の為に、父親に内緒でコンビニでバイト。
ごく平凡な女の子。
そう、ごく平凡な女の子なのだ。学校では友達と遊んだり、バイト先の男子の事が気になったり…。
では、何が違う…?
やはりそこに、“クルド難民”という壁が立ち塞がる…。
ある日突然、難民申請が却下。一家を支えていた父は働く事も出来ず、県外に出る事も出来ない。サーリャのバイト先は埼玉と東京の県境。
働かなければ生活出来ない。一家の生活はやっとの事。
サーリャもこっそりバイトを続けていたが、父親が入管に身柄を拘束されてしまう。
突然一家を襲った理不尽な現実…。
幾ら法とは言え…。
法というものは、国民一人一人の尊厳を守る為にある。よりよい国家にする為にある。
しかし、時としてそれが、弱者を苦しめる。
法を盾にされたら、どんな理不尽でも抗う事は出来ない。ずっと日本で暮らしてたのに、突然不法滞在者と言われても…。
入管の他人事のような事務的対応。さすがご立派なお偉い管理側だ。人一人の事、営みなどどーでもいい。法なんだから法に従え、とでも言うように。
そう言い渡された側は…
収入がストップ。貯金でやりくり。でも、それも微々たるもの。
友達の紹介で“パパ活”をする。外国人ならではの容姿と美貌を活かすも、寄ってくる男どもは下心見え見え。
バイト先にも認定却下が知られ、居られなくなる。
いつか行こうと約束したバイト先の男子との大阪旅行も行ける訳なく、抱いた夢すら…。
何の見通しすらままならない。
辛いのは直面する数々の現実もあるが、これを機に改めて知る、自分が外国人である事。
バイト先の老女客の一言。決して差別や偏見や悪意があって言った訳ではないが、チクチク突き刺さる“ガイジン”扱い。
確かに自分はクルド人だ。でも、ずっと日本で暮らしている。これからも日本で暮らしたい。日本が故郷だ。
ここに居たいと思うのは、ダメな事なのか…? 違法で罪なのか…? そんなにも許されない事なのか…?
彼女の眼差し一つ一つが、切ない。
本作が商業デビュー作。いきなり難しいテーマを取り上げ、徹底した取材の下、問題提起しつつ、一人の少女の青春、成長、アイデンティティー、家族や民族の物語として纏め上げた川和田恵真監督の手腕は、また一人凄い新人監督が現れたと唸らされる。監督自身も日本人とイギリス人のハーフ。だからこそ、よりメッセージが響く。
サーリャ役は実際のクルド人ではない。もしクルド人を起用して、いつぞや認定が却下された時、問題から守る為起用を断念したという。
この難しい主演を射止めたのは、まさしくフレッシュな逸材!
嵐莉奈。モデルで、本作で女優デビュー。
ドイツ、日本、イラン、イラク、ロシアの5つのルーツを持つ。
一目見ただけで吸い込まれるその圧倒的な美貌は、彼女こそ“千年に一人”に相応しい。
加えて、劇中で繊細な演技まで魅せるのだから恐れいった!
今後の活躍に本当に期待!
この二人の若く才ある監督と主演女優の出会いがあってこそ、本作は生まれたと言って過言ではない。映画に存在する奇跡の瞬間。
サーリャと惹かれ合う男子、聡太役の奥平大兼。
藤井隆、池脇千鶴、平泉成ら実力派がサポート。
でも特に印象に残ったのは、サーリャの家族。知って驚き! 嵐莉奈の実の家族だという。
それを知ると、自然体なやり取り、家族でラーメンを食べるシーンのささやかな幸せ、じわじわしみじみほっこり滲み出すものに納得。
お父さん、いい味出してたなぁ…。本来は日本語ペラペラで、劇中の片言の日本語は演技だとか。これまたびっくり!
サーリャを突然襲う不条理と理不尽。
しかし、日本での事全てが嫌な事、悪い事ではない筈。
友達や淡い初恋…。
夢を抱いた。
勉強もバイトも頑張った。
私はここに、存在した。
自分は何者か…?
日本人ではない。が、ずっと日本で暮らし、これからも日本で暮らしたいと切に願っている。
クルド人ではあるが、日本以外で暮らした記憶は無い。自分たちのルーツも人伝えぐらいにしか…。
だから時々、クルド人の儀式にもうんざり。だけど、彼女たちを囲む同胞たち…。
クルド人である事も忘れてはならず、誇りであらなくてはならない。
クルド人と日本、二つの恩恵を受けて…。
ラスト、父親のある決断。
それを受けたサーリャの選択。
受け入れなければならない現実。この問題は続いていく。
いつか、訪れるだろうか。
この“スモールランド”が、彼女たちにとっても“ビッグカントリー”になる日が。
そんな日を願って、努力して。
クルド人と日本人。私たちの未来に光がありますように。
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