「原罪の果てに迷い込む悪夢の小路の正体とは」ナイトメア・アリー 豆腐小僧さんの映画レビュー(感想・評価)
原罪の果てに迷い込む悪夢の小路の正体とは
デル・トロ監督による、ウィリアム・リンゼイ・グレシャム原作の異形のカルト・ノワールの映画化だ!
クリーチャーは出てこないものの、見世物小屋、タロット、降霊術…カルトな世界の住民が織りなすダークでグロテスクな世界は、あのハリウッド賞狙いだった「シェイプ・オブ・ウォーター」の生ぬるい薄味ダークファンタジーからうって変わり、原作の世界観とデル・トロ監督の感性がシンクロし、まさに面目躍如といったところか。
原罪から逃れカーニバルに流れ着き、やがて野心を抱き富を追い求め奇術師となり、慢心に溺れ、破滅する主人公の悪夢の小路を観客は追体験してゆく…まさに地獄巡りのような作品である。
ここで言う原罪とは聖書のそれではなく「父親殺し」のことだ。そしてそれは主人公のエディプス・コンプレックスとなっている。少し難しくなるが、S.フロイトの定義したエディプス・コンプレックスとその無意識的葛藤による罪悪感の発生は、“神と人の権威的な上下関係”が“父親と子の権威的な上下関係”に置き換えられているところにあり、ぜひそこに注目されたい。
主人公はまさに父親殺しという原罪から逃げようとし、エディプス・コンプレックスを引きずりながら破滅へとつき進むのだ。主人公が犯すその原罪こそが、まさにこの悪夢の小路への始まりであり、終わりなのだ。その辺を踏まえラスト、主人公が最後になんと言うか…にも注目するといい。
あ、そこに復讐者として主人公を操るのが、ケイトブランシェット演じる精神科医というのもそういう意味でなかなか面白かった。
さて、この作品でひとつ気になったのが、重要なキーワードなはずの「geek」を字幕翻訳で「獣人」としていたところ。
これにはチョット「?」であった。まぁいまはオタクを指す意味でもあり、そうしたのかもしれないが、それは大きな間違いだし重要なキーワードのひとつでもある。ここできちんと訂正しておこう。
もともと "geek" とは、サーカスなどの見世物で、ヘビやニワトリを食いちぎったりするパフォーマーのことで言葉そのままの意味なのだ。そしてその語源は16世紀にシェイクスピアがアメリカ的表現を用いた頃の "geck" という語に遡るといわれる。これは中世低地ドイツ語で「愚者」「嘲笑すべきもの」「騙されやすい者」といった侮蔑的な意味の語であるのだ!
そう、つまり劇中で主人公の行く末を暗示するタロットカードの「愚者」と見事にシンクロし、帰結してゆく意味を持っていたのだ。こういう肝心なところを翻訳で殺してしまってるのは残念だ。
デル・トロ監督はファンタジーからSF、そしてノワールと手掛けるテーマの幅が広いだけあって、当たり外れもあるのだが、久し振りにデル・トロ監督らしい作品だと思った。やはり今後も期待したい監督の一人である。