「なぜ『僕愛』は『君愛』に比べて、「地味」で「平穏」なのか?? 高崎暦と瀧川和音の愛の物語。」僕が愛したすべての君へ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
なぜ『僕愛』は『君愛』に比べて、「地味」で「平穏」なのか?? 高崎暦と瀧川和音の愛の物語。
久々に、あごトンガリウイルスに罹患したキャラデザ見たなあ(笑)。
(昔、腐女子系アニメでよくあった絵柄を指すタームで、『裏切りは僕の名前を知っている』みたいな王道から、『学園ハンサム』みたいなネタものまでいろいろある)
あごにつられて、瞳や耳までひし形してるんで、途中からずっと顔のパーツが気になって気になって。
しかも、主役二人とも中年を過ぎると、唐突にあごが平たくなるっていう。
これぞまさに、人体の神秘っすね……。
「どちらを先に観るか」のギミックに大いに釣られて、まずはこちらから視聴。
(ただ、どちらを先に観るかで悩んだってより、単にちょうど食後すぐに観に行けるほうから先に行ったんだけど)
内容は、いわゆる平行世界(パラレルワールド)ものである。
自分はSF脳ではないので、若干ケムに巻かれているような気もしたが、総じて面白く観ることができた。以下は、理数系はからっきしの超文系人間の感想なので、たぶんあんまり当てにならないと思います……(笑)。
なお、『僕が愛したすべての君へ』と『君を愛したひとりの僕へ』双方に関して、完全にネタバレの状態で言及しているので、未見の方はご注意ください。
基本的には近年のジュヴナイルSFの典型みたいな作風だが、主人公の少年期から老年期まで一代記的に描くというのは、結構珍しいパターンかもしれない。
少なくとも青春恋愛アニメみたいな宣伝にひっかかって観に行った人間からすると、こんな話を見せるつもりだったのか、とちょっと驚かされた。
あと、ヒロインの和音(かずね)がリケジョ眼鏡のかなり地味な女のコで、新鮮といえば新鮮。
ふだんTVアニメでは、まずヒロイン張らない(張れない)タイプだよね。
たしかにこの娘もツンデレだったりクーデレだったりはするのだが、あまりアニメ的にキャラがデフォルメされていないので、「軽く空気が読めなくて」「こだわりの強い」「軽度のアスペっぽい」理系女子としては、かなり生々しいというか、ごつっとした手触りのキャラクターだった。
設定自体は『理系が恋に落ちたので証明してみた。』の菖蒲みたいだけど、もっと本当に学生時代クラスにいてたリケジョっぽいっていうか、男子に畏怖はされてるけどあんまり人気のなかった秀才眼鏡の負のオーラまで含めて、きちんと再現されているというか。
そのへん、橋本愛の若干こなれない無骨な声演技も、おおいに影響しているんだろう。
(ちなみに、昔から橋本愛って拗らせてるけど頭のよさそうな片鱗は見えてたけど、最近始まった週刊文春の読書欄の連載見て、びっくらこいた。なにこの人、めちゃくちゃ文章書けるんじゃん!)
この、若干こなれない印象というか、生々しいけどどこか生硬な感じは、作画や声の演技だけでなく、演出や語り口にも共通している気がする。
よく言えば、アニメ寄りというより、実写映画に近いレイアウトやナラティヴが支配的だ。
とても丁寧に、じっくりと腰を据えて描いてはいるのだが、悪く言えば全体に流れが悪く素人っぽい。
もう少し突っ込んだ表現や、漫画チックな誇張をしてもいいかな、と思うような場所でも、少し硬い調子で抑え目のまま進行してしまう。
この「語りすぎない」感じ、「作画演出ではっちゃけない」感じは、SF設定の部分でも同じだ。
いちおう、主人公の暦くんのパラレル・シフトについては、あまり悩むところはない。
だが、和音のパラレル・シフトについては、絶妙にわかりにくい気がする。
この映画を「暦と和音のラブストーリー」として捉えた場合、和音が本当にパラレル・シフトしたかどうか、とあるシーンの和音がどの世界に所属する和音だったかは、きわめて重要――というか、唯一この映画で真に重要な情報だといっていいと思うのだが、これが、ふつうに一回観ているだけでは、どうも判然としないのだ(俺だけか? 俺が頭が悪いからか?)。
最初に和音の「ブラフ」から入るわけだけど、本当に「ブラフ」かどうかは、観ている我々には(本人がそう言っているだけなので)確証がもてない。確証をもたせるには、第三者的視点から(もしくは和音本人の一人称視点から)、本当に和音が言っている通りであることを確定させてくれるといいのだが、そういった「検算」が映画内で余り行われないので、どんどん観客サイドの不安(「本当はこの人、やっぱり何度もパラレル・シフトしてるんじゃないのか? そうじゃないとパラレル・シフトしたなんて嘘を逆につかないんじゃないか?」)が嵩じていく。
で、学生編のもやもやした不確定感を引っ張ったまんま、大人編に突入するんだけど、やっぱり「今の和音がどの和音なのか」は観ててもよくわからない。しかも、しきりに暦は「僕の愛している和音はどの和音なのか」みたいな独白で煽って来るし、ときにハイヒールを履いていた痕跡らしいバンドエイドをアップにしたりして、いかにもパラレル・シフトがあったらしいと示唆してくるんだけど、これまた確証がもてないまま次へ次へと流され、そうこうしているうちに涼の通り魔事件が発生して……(ちなみにこの唐突な通り魔展開ってなんかデジャヴあるなと思ったら、『君の膵臓が食べたい』でしたw)
もう少し、「実際なにがあったのか」を、どこかで「和音の一人称視点」を交えつつ、順繰りに整理しがら進めてくれると、ずいぶんと観やすい映画になってたろうになあ、と思う。
本作で「間違いなくパラレル・シフトが発生した」事象ってたぶん、暦の少年時代と、和音の事件後の行動の二か所しかない気がするのだが、どちらも実際には主人公がIPカプセルを使って人為的に引き起こしたことなので、「ときどき自然にパラレル・シフトしてる」って作中の前提自体に、いまひとつ確信がもてないんだよね。
あと、二つの物語を同時に上映して、観た順序で印象が変わるという試み自体はとても面白いんだけど、その処理として、もう一方のダイジェストを終盤に長尺で組み込むというやり方が、果たして正しかったのかどうかは、なかなか悩ましいところだ。
僕は基本、予備知識ゼロで映画を観ることをモットーにしているので、しょうじき、あそこまで『君を愛したひとりの僕へ』のストーリーラインと終盤の展開まで事前に(かつ強制的に)見せられることには、かなりの抵抗を感じてしまった。
とくに『僕が愛したすべての君へ』に限っていえば、この物語のなかで栞の果たす役割は決して大きくない。冒頭に一回会って、ラストにもう一回出てくるくらいだ。
『君愛』のほうを観てはじめて、「こちらの物語に栞が出てこないこと自体が『君愛』の暦が命をかけて目指した世界線であり、本作での栞の不在こそが、栞への愛の証である」ってことがわかるんだけど、『僕愛』を観るだけなら、「どんなパラレル・ワールドでも出逢った和音を愛するよ僕は、とかほざいてる主人公が、実際には別の世界線でまったく別の黒髪少女に入れあげてて、和音を使い勝手のいい便利な妾みたいに扱ってるようすを延々と話のラスト間際に見せられる」という、まあまあ感じの悪い付け加えにしかなっていない気がする。
しょうじき、知らないでもよかった知らない女の話を、無理やり見せられた気がして、ちょっとげんなりしちゃったわけだ。
結局、宣伝ではどっちから観るかってさんざん煽ってるけど、お話の組み立てとしては、『君愛』のほうから観たほうが、原因と結果の因果関係がはるかにわかりやすいのは確かなんだよね。
ただ、その順番で観ると、あくまで暦という主人公にとっては「栞」が正妻であって、彼女の幽霊化を避けるために、栞を自分の世界から排除した結果として、和音が「おこぼれ」に預かっただけ、みたいに思えてしまうのが辛いところだ。和音はしょせん二番手だ、和音は存在すらしない栞に負け続けている、和音にはそういや正ヒロインのオーラがない、なるほど「元は滑り台ヒロイン」だから地味で浮かばれない佇まいなのか、そもそも『僕愛』のお話自体がなんとなく地味で起伏が少ないのも、「二番手ヒロイン」のサブルートシナリオだからか・・・・・・みたいな「悪い」思考のスパイラルに陥ってしまう(これも俺だけか? すいません)
そう考えると、実際には『僕愛』から観たほうが、変な先入観なく(=和音を栞の二番手だと考えることなく)、和音を「正ヒロイン」として真正面から受け止められるし、この「地味に出逢った地味な少年と地味な少女が、とりたてて劇的な事件も展開もないままゆっくりと友情をはぐくみ、やがて愛へとそれを育て、(少なくともメインの世界線では)子供を死なせることもなく、幸せに生涯を閉じる」「穏やかな」物語を、素直に、虚心に堪能できる気がする。
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ちなみに自分は、『僕愛』と『君愛』を両方観たうえで、これを書いている。
改めて『僕愛』と『君愛』を比べるならば、『君愛』のほうがはるかに「正道」のジュヴナイルであることは確かだ。
白ワンピの美少女。幼馴染。劇的なヒロインの死と、ヒーローによって繰り返される救済への試行錯誤。いやあ、まさに王道だよね。
一方、『僕愛』は、そんなドラマチックな悲劇を、王道の主人公&ヒロインとして「生きられなかった」(あるいは、敢えて生きようとしなかった)ヒーローとヒロインの物語だ。
両作を純粋に、離婚した父親についていったか、母親についていったかで分岐した物語だと考えれば、両者はそれこそ「パラレル」な存在であり、ふたつの物語も「パラレル」な存在に過ぎない。
だが、『僕愛』の世界を、『君愛』の暦がタイムシフトして敢えて選択した――すなわち、『僕愛』の暦は、記憶をすべて失った73歳の暦の「生き直し」だと考えれば、この地味で平穏で幸せな物語は、「敢えてドラマチックな物語を避けて生きた」暦のセカンドチャレンジでもあるわけだ。
要するに、「栞を助けるために闘いつづけ、ヒーローとしての人生を生きつつ、一方で自分に後半生を捧げてくれた和音に報いることもせず、自分勝手にタイム・シフトして一生を終えた」前世と「逆に生きようとした」暦が、栞のいない世界で、なるべく目立たないように息をひそめて(栞と万が一にも出逢わないように)自信なさげに陰に隠れて生きて、手近な和音で手を打つべく(前世での申し訳なさを無意識で引きずってることもあって)衝動的に告白を繰り返しながら、ついに平穏なサブヒロインとの恋を成就させ平穏なラストを迎えたというのが、『僕愛』の真のストーリーラインだと考えることもできるわけだ。
暦は、和音との物語においては、ここでありふれた「ハッピーエンド」を迎えた。
けれども、栞との物語においては、その栞の「不在」ゆえに、彼は「トゥルーエンド」、真の終着点を選び取ることに成功したといえるのだ。
その意味で、原作者はパンフにおいて本作の霊感源として『エヴァ』や『ナデシコ』『YU-NO』(犬名の由来かな?)あたりを挙げていたが、個人的には、『シュタインズ・ゲート』のまゆしぃ☆と紅莉栖のお話をA面B面で分けてみせた感じもするし(もちろんまゆりが栞で、紅莉栖が和音)、「プリコネReDive」みたいな構造の話なのだなあ、とも思ったり(記憶を継承しない、タブラ・ラーサ=完全初期化の状態に戻っての死に戻り)。
とはいえ、これらも所詮は勝手な妄想であり、勝手な解釈に過ぎないので、できれば、こういうややこしい話の場合は、作り手なりの公式の答え合わせを「パンフ」にのっけておいてもらえるとよかったんだけど……いや、そうか、無精せずに「原作をちゃんと読め」って話か(笑)。そりゃそうだ。
あと、ラストの一連の老人パートのロジックに関しても、しょうじきよくわからないところがたくさんあるんだが……それもまあ、いいか。
なんにせよ、原作は未読なんでなんとも言えないんだけど、きっと原作のほうが全体的に、もう少し「腑に落ちる」「見通しの良い」書き方にはなってるんじゃないのかなあ。
と、一言もアニメスタッフに対しての謝辞が見当たらない、パンフの原作者インタビューを読みながら、ふと思ったのでした。