「ファーストにおいて描きたかった意図とは違う作品という印象」機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島 まつしたさんの映画レビュー(感想・評価)
ファーストにおいて描きたかった意図とは違う作品という印象
最近勧められてガンダムシリーズを見始め、次々と様々な作品を観続けています。
ファーストガンダムにおける『ククルス・ドアンの島』というエピソードの本質的な部分は、それに至るまでのイセリナとの対峙、母との再会を語らずしては見えてこないのでは?と思っています。なので長くなりますが、ファーストにおけるドアンのエピソード周辺でのアムロの成長についての個人的な考えを書きたいと思います。
「ガルマ様の仇!」と言い放ち銃を向けるイセリナに対して、アムロは「ボクが…仇だって!?」と衝撃を受けますね。アムロはここではじめて、自分がモビルスーツで闘うごとに誰かの大切な人を殺しているのだという現実を突きつけられ、大きく動揺しました。
さらに、その後の母との再会では「人を撃つなんて!」「あの子はそんな子ではなかった」等と言われ、戦うことは非人道的な行為であり、非情な人間のすることだというような扱いを受けます。
母のショックたるや相当なものだったのでしょうが、ここまで生きるために必死で戦ってきたアムロにとって、母からのそんな言葉はあまりに残酷に思えます。
この2つの出来事から、味方側の都合しか見えていなかったアムロが、自分達も今まで敵から受けてきたのと同様の行為を働いているのだという事実に気づきます。戦場で戦うということは所詮人殺し行為に過ぎず、自分は非情な人間に成り下がってしまったのだという潜在的なショックをアムロは抱えたまま15話のドアンのエピソードへと繋がります。このジレンマを抱えた状態で、かつてアムロと同じ経験をしたドアンのその後の生き様に触れることで、アムロが新たな希望を見出だし、改めて戦う意義を取り戻すという構造となっています。
子供たちに慕われるドアンを見たアムロは、「よくも味方につけたものですね」という言葉を吐きます。それは、彼だってモビルスーツで戦う人殺しなんだ、非情な人間なのだから、何も知らない子供たちを騙して懐柔している上っ面の平和に過ぎないんだというアムロの強い非難が表れている台詞だと考えられます。自分自身がイセリナや母から突きつけられた事実を、ドアンに突きつけている構図と取れます。それでいて、「ぼくはジオンの侵略者と戦っているんだ」と自分はやむを得ない理由で戦っているのだと、理解してくれない人や、自分自身に言い聞かせるかのように言い放ちます。
アムロ自身がまさにその時苦悩していたからこそ、自らの生み出した罪を考えもしないで、のうのうと穏やかな生活を送ることができるドアンが許せなかったのだと考えられます。
しかし後半では、あの子供たちの親を殺したのがドアンであったことをアムロは知ります。つまり、ドアンはかつてアムロと同じ経験をしていたのですね。ガルマを殺した仇となったアムロと同じように、ドアンはあの子供たちの親の仇で、戦災孤児を生み出した張本人でした。アムロは、その事実とともに、ドアンが自分の犯した罪を受け入れて、背負いながら生きる道を選んでいたのだということを知りました。これ以上悲しみを増やさないようにと、子供たちを守るために戦うことを選んだドアンの生き様は、すでに多くの人間の命を奪い行き場のないショックを抱えたままのアムロに一つの希望や道しるべを示すこととなりました。ドアンを自分に重ね、こんな事を経ても、人はただ殺したり、奪ったり破壊的な道に堕ちるのではなく、誰かを守りながら、未来ある子供たちを見守りながら生きていくことができるのだという希望をドアンに見出だしました。それだけではなく、最後はアムロ自身に「やがていつか、人は武器を捨てて生きていくことができるはずだ」という新たな考えが生まれ、あのラストのシーンへと繋がったと考えられます。絶望的な心理状態のアムロが、ドアンの生き方に触れることでその後の未来への道しるべを見出だし、最後には自らの内に生まれた希望によって行動を起こしました。
物語全体を見ると、イセリナさんとの対峙の流れからここまでで、アムロにめざましい心理的な変化が起こったのだということに気づかされ、つくづく感嘆するばかりです。なので、アムロがその時どんな心理状態であったのかの描写を入れるか否かで、このエピソードの重みがぐっと変わってくると思うのです…。
これは自分の想像に過ぎませんが、こうして自分が決して邪悪な人間に成り下がったわけではないと知ることで、それまで戦ってきた意義自体を再確認することもできたのではないかと思います。生き延びるために銃を取るほかなかったけれど、それは結局殺すのが目的ではなく、自分や周りの人の命を守るための戦いで、突き詰めると皆で生き延びていつか平和に暮らせる未来を望んでのことであると自覚し、そのあるべき未来をドアンに託したという形なのではないかと思います。
なので、アムロのそこらへんの心理描写を少しでいいから描いてほしかった…。
あのガンダムで踏み潰すシーンも、あの青年を守らなくては、目の前の1つの命を守りたい、という戦いにおける根源的な動機を描いているのかもしれない。でもそうだとしたら、もうちょっとデリケートに描けたはず…。あれでは虫を踏み潰してるくらいのめちゃくちゃ軽薄なサイコパス行為にみえて仕方がないです…。この作品はファーストで訴えているであろうテーマをベースに考えてはいけないんですかね。
ザクの戦闘めちゃくちゃかっこよかったので、個人的にこの映画はザクのかっこよさを讃えるためのものという位置付けです。褐色のサザンクロスのビジュアルも好きな色合いで、その点では満足です。あと作中のドアン信者が信者過ぎてもう面白い。
最後の花火の意図は理解できるけど、危険を遠ざけてひっそり生きようとするが故に灯台を直さなかったくらいなのでさすがに違和感あるというか、そこまでの派手な演出はいらないのでは?と思ってしまいました。
個人的に、オリジンやこの作品でのカイ・シデンの性格がすごーく引っ掛かります。ファーストやΖで描かれていた人間性とは、似たようで根本的なスタンスが全く違うように思えてなりません。あまり好きではないですね。